第一幕【サワーグレープ】②

 無理だと分かっていた。

 断られると分かっていた。


 一切表情や声に変化なく、淡々と断られるのは、予想していてもショックだった。


 なんでも良かった。「は?」とか、「え?」とか、「何言ってるの?」とか、多少なりとも動じて欲しかったのだ。動じなくても、一言慮るような言葉があれば──


 彼女は本当に人間なのだろうか?


 かなり失礼な表現だが、見た目こそ人間と変わらないが、別種の存在と言われる方が得心がいく。


 狂気とも異常とも表現出来るが──どちらとも違う何か。


「まあ、どうしても壊れたいと思うなら、いくつか方法をお教えしますよ」


 彼女はゆっくりと、ハキハキとした声で、淡々と語り掛けて来る。


 いつも通りの調子で、相手が聞き易いように──という配慮がされた声なのだが、彼は恐怖を感じてしまう。


 恐怖と同時に──好奇心が刺激される。


 それは、人を唆す声だった。

 それは、人を陥れる声だった。


 しかし、彼女には、唆す意図もなければ、陥れる意図もない。


 何故なら、どちらでも良いのだ。


 どちらであっても良かったのだ。


 どうでも良かったのだ。


 この言葉で、彼がどうなろうと構わない、そんな風に思っていたのである。


「自分自身を壊したいなら、簡単です」


 その声に囚われた彼は、ジッと彼女の深淵のような藤紫の瞳を見詰め、続きの言葉を待つ。


「己の劣等感を刺激する存在の傍に居続ける。これだけで人は簡単に壊れます」


「まるで見てきたように言うんだな」


「実際見ましたよ、何人も」


 それ、お前が原因だったりしないか──という言葉が出てきそうになるが、グッと堪らえる。確実に、話が逸れるからだ。


(直接的な原因なのか、間接的な原因なのか──どちらなのか分からないが、多少コイツが関わっているんだろうな)


 彼女が関われば、確実に終わりを迎えるだろう。悪い方向で。


「他にも方法があります。今言った方法と真逆の方法ですが、優越感に浸れる相手を傍に置くというのは、あっという間に自分が壊れますよ。そういう人間とずっといたら、よほど強靭な精神を持っていない限り──自滅してしまうでしょう」


「…………」


「後はそうですね──悪辣な人物の近くにいるのも、自分を壊す一つの選択肢だと思います。気に入った相手には優しい奴でもない限り、気に入られたとしても、確実に良い思いはしないでしょうからね」


 気に入った相手には優しい奴であっても──良い思いはしないのではないだろう。


 というか、目の前の人物が言われたところで、説得力がない。


 言いたいことは分かるのだが、気に入った相手には優しい奴ではあるが、寧ろ気に入られる方が地獄みたいな存在が、そんなことを言ったところで、「いや、お前が言うなよ……」的な気持ちになるのだ。


 もしかしたら、気に入られたらそれ相応の扱いを受けられたり、恩恵を受けられたりするかもしれないから、気に入った相手には優しくない方が良いと言っただけなのだろうが。


「物理的に手っ取り早く壊れたいなら、屋上から飛び降りたりするのが一番ですけどね」


 これで、実際に彼が飛び降りたとしても、何も変わらず、いつも通りの日常を送るのだろう。


 そう思うと、妙に腹が立ってきた。


 分かりきっていることだし、今更腹を立てることではないと分かっているのだが。


「後は、そうですね……これは罪悪感が正常に機能している人間にしか使えない方法ですが、己の精神安定剤になっているレベルで大事な物を原型が失くなるまで壊す、あるいは、己の精神安定剤になっているレベルで大事な人を殺す。親とか兄弟とかを」


 親とか、兄弟とか──彼女は、平気で殺せるのだろうか。


「必要なら殺すのか?」


「他に方法がない状態なら殺しますけど、基本的には殺しませんよ。殺しって、あんまるメリットないじゃないですか。リスクとリターンが釣り合わないというか、アレって他にどうしようもないときに使う手段でしょう?」


 他に方法がない状態なら殺すらしい。


 こういう場合、言葉通りに殺せない人間の方が多いだろうが、天音あまねは確実に相手のことを殺す。


 殺しにはメリットがないから、普段は殺さないだけで、殺しにデメリットが上回るメリットがあれば、一〇も二〇も人を殺していただろう。


 この時代の良いところは、彼女の中の殺人のハードルが非常に高いこと──と、言われてもおかしくない。


 それぐらい危険な人物だ。


「試しに僕でも殺してみます?」


「…………」


「貴方、僕に対して執着しているでしょう? 大事かどうかは分かりませんが、そこまで執着している存在を殺すとなれば、精神に大きなダメージを与えられますし、悪くない案だと思います」


「……もし、それで、俺が、お前を殺そうとしたら、どうするんだよ」


「そんなこと──ときが来なければ分かりませんよ。案外どうもしないかもしれませんし、どうにかするかもしれません」


「抵抗するとか、そういうこともしないのか?」


「さあ、どうなんでしょうね? 死にたくないって気持ちはありますからね、抵抗はするでしょうが、案外僕ってすぐ諦めちゃうんで、無理だと思ったら大人しく殺されるかもしれません」


 そう言いながら、彼女はレンガで殴られた部分を手で押さえる。


 髪で傷が隠れているため、彼女がレンガで頭を殴られたことは知らないため、依織いおりはその動作に疑問を持った。


 彼女の行動を理屈を求めてはいけないと、何度目かの交流で分かっているため、そこに触れることはない。一瞬だけ、疑問に思うが、すぐに気にしなくなった。


「ところで、貴方には、自分が殺されても良い瞬間ってありますか?」


「殺されても良い瞬間……」


「そうですねぇ。貴方がご両親のことが好きですか?」


「まあ、それなりには。良い親だと思うし。偶に厳しいときもあるけど」


「では、ご両親の命と貴方の命、どちらの命を優先しますか? どちらかしか助からない場合。ご両親を蹴落として自分だけ生き残るか、自分の命を犠牲にしてご両親を生かすのか」


「嫌な言い方をするな」


「分かり易い表現をしただけです」


「言い方を選んだところで、どっちを選んでも気分が良くない話であることに変わりないが、しかしもう少し配慮のある言い方ってものが出来ないのか?」


「だいぶ気を遣ったんですけど……」


 その言葉に驚愕したような表情を浮かべた後、引いたような表情を浮かべ、目線だけで「これで気を遣ったのか?」と訴えてくる。


「貴方は、嫌なことから逃げたいと思うタイプなんですね」


 それを無視して、このように言葉を続ける。


「誰だって、そういう傾向はあるだろう」


「仮の話とはいえ、頭にがいたことが嫌なのでしょう? 誤解しないで欲しいのですが、嫌なことから逃げたいという言葉は──貴方の保身について言及しているんですよ」


 保身という単語が耳に入った瞬間、心臓から嫌な音が聞こえた。


「親に対して罪悪感を抱いたからではなく、親を蹴落とす自分が嫌だったのでしょう? 存在しない自分の気高さが汚れたような気分になったのでしょう?」


 分かり易い説明ではなかったが、依織にはそれで充分伝わったらしく、引き攣った笑みを浮かべる。


「お前は、人の心が分からないのか、分かるのか──判然としないな」


「人の心なんて分かりませんよ。考えていることなら、ある程度推測することが出来るだけです」


 推測の域を通り越しているときがある気がする──と、ツッコミを入れる勇気はなかった。「へぇ」と、軽く返事をすることが精一杯だった。


「話が変わるんですけど、好きでもない相手に好意を抱かれても気持ち悪い、好きでもない相手から告白されても気持ち悪いと感じる人っているじゃないですか?」


「いや、本当に、話が変わったな」


「でも、そういう人達って、自分が人を好きになったとき、同じことを言われたらどうなんでしょうね?」


「ブーメランが刺さるな」


「困る程度なら、まだ分かるんですよ。相手が自分のことが好きだけど、自分はそうじゃないって状態な訳ですから。人によっては気を遣うでしょうし、告白されるとなると、返事をしなければならない訳ですから」


 そういう経験は、したことがある。


 こう表現すると自慢みたいになってしまうが、依織は自分がそれなりに整った外見をしていることも、天音以外からはそれなりに好意的に見られていることも、正しく自覚している。


 負の側面を見せているのが、天音だけだから、傍目からは好感情を抱いてしまう人間ならいるのも、分かっている。


 自覚しているからこそ、相手の幻想を、謂わば自分の評価を崩さないために──相手に嫌悪を抱かれない、トラブルに繋がらない断り方を、毎度毎度考える羽目になってしまった。


 誠実そうに見える対応をしているお陰で、今のところトラブルは起きていないが、告白される度に、困るという感情が湧き上がるのも事実。


 凄くモテるという訳ではないが、平均よりモテる。


「けど、気持ち悪いってどうなんでしょうね? 好意を抱いてきた相手が、気持ち悪いと評されても仕方がないことをしたなら分かるんですよ。男子中学生が、三八歳の女性に恋愛感情を抱かれたりとか──未成年、下手したら親子でもおかしくない歳の差がある訳ですから」


「後は、そうだな、えげつない下ネタを言われるとかな……」


「いい具合に蒸れた足を舐め回したいとか言われたら、普通に気持ち悪いと思いますよね」


 ちなみに、この『いい具合にに蒸れた足を舐め回したい』という台詞は、当時五歳の匂宮姉妹を連れて買い物をしていた、彼女達の母親が不審者から言われた台詞だったりする。


 母親は恐怖のあまり震えながらも、娘達がいる手前、下手な行動に出ることが出来ず、相手を刺激しないように対応していた。


「そんなことを言われたら、思わず殴るかもしれない」


「しかし、相手が、気持ち悪いと呼ばれるような要素がない人ならどうでしょう? 自分のことを取り繕っているときの貴方とかをイメージして貰えれば分かると思うんですけど、困るという感情を抱かれるならまだしも、気持ち悪いと言われる筋合いはないと思うんですよね」


「なんで俺を例えに出すんだよ」


「じゃあ貴方のお父上を思い浮かべて下さい」


「……まあ、気持ち悪いと言われる筋合いは、ないな」


「人から好意を向けられること自体に気持ち悪いと感じるなら、まだ理解することが出来るんですけど、自分が好きな相手から好意を向けられることは良いけど、そうじゃない相手からの好意は気持ち悪いだけというのは、かなり傲慢なことだと思うんですよね」


「……傲慢というのは、確かにその通りだ。けれど、人間は多かれ少なかれ矛盾した気持ちを持つものじゃないか? 自分は嫌だけど、相手にはそれを当てはめないというのは」


「矛盾した感情を抱えていることを自覚して、棚に上げていないなら良いんですけど、中には『自己紹介か?』って感じの棚上げをしている人、いるでしょう?」


「まあいるな」


「これって一部は、貴方に当て嵌まりますよね」


「…………」


 彼女と会話を続けても傷付くだけと分かっているのに、会話を続けてしまうのは、こうして彼女の方から積極的に話し掛けてくれることがあまりないからだ。


「貴方が僕にしていること、僕が貴方にしたら、傷付くし、怒りますよね?」


 言われた通り、傷付くし、怒る自信しかない。そんなことないと言うのは簡単だが、そんなことないとは言えなかった。言ったところで虚勢だと見抜かれるのが分かったからでもあるのだが、咄嗟に言い返すことが出来なかったというのが、理由として多くの割合を占めている。


「──今ここで、貴方に対して気持ち悪いと言ったら、果たして僕はどうなるんでしょうか?」


「………………お前、俺のこと嫌いなのか?」


「いや、別に」


「好きではないだろ?」


「はい」


 嫌いがゼロ。好きがゼロ。

 嫌いと言われた方がマシだ。

 なんの感情も抱かれていないというのは、嫌われるよりも辛い。


「お前にはないのか? 自分のことは棚に上げて──ああだのこうだの思った経験がないのか?」


「ありますけど」


 あっさりと、ない訳ないだろうと言いたげな声で、言い放たれる。


 何故か言葉が出なくて、黙り込んでしまった依織は、何か言わなくてはいけないと思ったのか、沈黙に耐えられなくなったからなのか、このような言葉を発した。


「天音には、自分が殺されても良い瞬間って、あるのか?」


 言った後に聞かなければば良かったと思った。しかし、言ってしまった言葉は取り消せない。相手にしっかり聞かれた以上、「やっぱりなし」という訳にはいかない。


 彼女の答えは予想通りのものだった。


「さあ? そのときが来ないと分かりませんよ」

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