無感動少女は無理解──匂宮天音 14歳 6月
第一幕【サワーグレープ】①
誰でも良かった。
気分がどん底のとき、偶然、彼女がいたから。
偶然──彼女が、汗を掻く己に、タオルを差し出したのが、彼女だったから。
それだけの理由であった筈なのに、何故ここまで執着するようになってしまったのだろう。
友達もいて、家族もいて、関係も良好で、学業の成績も問題なくて、充実している筈なのに、物足りなくて──彼女に依存しないと生けていけない。
彼女に勉強を教えると言って、トレイに行くと言って途中で席を立ち、そのまま家に帰ったこともある。山まで連れて行き、わざとそこに置いて行ったこともある。遊びに行く約束をして、わざとすっぽかしたこともある。
そんなことを繰り返しても、彼女の態度は一切変わらない。
いつも通りの態度。
いつも通りの対応。
どうしてそんなことをしたのかとも言わず、文句を言うこともない。
どうしてと訊かれたところで、本人も答えられないため、訊かれなくて良かったと内心は安堵しているが、しかし同時に、気に入らないという気持ちがあるのも事実。
順風満帆な人生を送っている己よりも、遥かに劣った人生を歩んでいる彼女に対して、どうしてここまで執着して、それだけでなく、他者に露見すれば己の評価を一気に下げかねない行為を繰り返しているのだろう?
完璧とまではいかなくても、世間的に見れば平均より充実している人生を歩んでいるのに、駄目で、どうしようもなくて、終わっている存在である彼女がいないと生きていけない。
そんな己の気持ちを分かってくれる人はいないだろう。
成功者の裏には支えてくれる存在がいて、その支えてくれる存在は、決して聖人君子ではない──と、伝えたところで、健康な精神を持っている人間には理解出来ない筈だ。
この場合、支えてくれる存在とやらは、彼のことをちっとも必要としていないし、いなくても困らないのが──この歪過ぎる関係の肝とも呼べるところだが。
けれど、匂宮天音は、宿木依織のことを、数秒後には余裕で忘れてしまえる相手である。
自分ばかり彼女のことが好きで、自分ばかり彼女に依存して、自分ばかり彼女のことを意識している状況が苦痛で仕方ない。
彼女は何も教えてくれない。
「今回の事件、一応解決したみたいだが、知っていることを教えてくれよ」
「大したことは知りませんよ。どうやら
本当は知っている癖に、こうやってのらりくらり交わし続ける。
彼女に妹がいることだって、つい最近知った。
それだって彼女に教えて貰ったからではなく、妹と出掛けている彼女の姿を偶然見掛けたからだ。お姉ちゃんと呼んでいたので、相手が妹だと分かった。
そのことを訊ねれば、「実は妹がいるんですよ」とだけ帰って来た。いないとは言っていないが、以前兄弟がいるのかどうか訊ねたときは、曖昧な返事をしていたので、そのことを訊ねたところ、「まあ、色々ありまして」と、また誤魔化された。
基本的に、彼女は自分のことを教えてくれない。
普段何をしているのかとか、何が好きなのかとか、ある程度言葉を交わしていたら知れるようなことを、全く教えてくれないのだ。
「お前は自分のことを全然教えてくれないな……」
ある日、なんとなく、そう言ってみた。
「そんなことないですよ」
嘘吐き。
心の中で呟く。
「貴方がそう思うのは、僕が僕自身のことを正しく理解していないから、かもしれませんね。自分のことは自分が一番理解していものなのですよ」
彼女は嘘吐きだ。
もしかすると、彼女は嘘を吐いているつもりがないのかもしれない。
嘘吐きと形容したが、言っていること自体は、嘘のつもりがなければ、言っていること自体は嘘じゃないことの方が多い──結果的に嘘吐きに見えるだけで、嘘吐きと言うとまた違うのだろう。
それでも、依織は、彼女のことを嘘吐きだと思う。
結果的に相手を騙そうとしているなら、誤解を誤解と認識していながら放置しているのは、そうもう嘘を吐いているのと全く変わらないのではないか?
彼女のことを知ろうと努力しても、その努力は
彼女の後を付けているとき、あっさり巻かれたのは──絶対に尾行されていることに気付かれたからだ。
しかし、そのことを問い質しても、尾行していたのかと驚く素振りすら見せず、「何を言っているのか分かりません」と返されるのみ。
いや、案外忘れているのかもしれない。
尾行されたことなど、彼女にとっては些事なのだろう。
試しに、彼女のことを普通に遊びに誘い、前みたいにすっぽかさず、普通に遊んだこともあった。
しかし、何も分からなかった。
彼女という人間が、余計分からなくなった。
理解出来ないのではなく、分からない。
理解出来なくて、分からない。
「貴方は僕のことをどうしたんですか?」
それはこちらの台詞だ。
(お前は俺をどうしたんだ)
──どうもしたくないのだろう。
どうしたいという積極的な気持ちが微塵もなく、どう転んでも構わないと考えているのだろう。
端的に言えば、どうでも良い。
例え、自分が死ぬことになったとしても、それはそれで良しと思っているのかもしれない。
心底恐ろしいと思った。
しかし、同時に安堵を覚えたのも事実だ。
彼女の内心に踏み込むことが出来る存在は──世界のどこにもいないと思えたから。
自分だけじゃない。
自分だからじゃない。
彼女の内心に踏み込むことが出来ないのは。
そう思うと、少しだけ気が楽になった。
あくまでもそれは、彼の都合の良い思い込みで、実際は違う訳だが。
匂宮
彼女の内面に踏み込むことは、出来なくもない。
心を開いて貰うことはかなり難易度が高い。
高く評価している相手はいるが、そういう相手にすら心を開いていないのだから。
廊下の窓から、中庭を歩いている彼女に視線を向ける。
ウェーブ掛かった薄緑の長い髪、ハイライトのない深淵の権化のような藤紫の瞳、垂れ目、勿忘草の色の豊かな睫毛──見た目だけ見れば可愛らしいし、そういう感情が湧いて多少は湧いて来そうなものだが、雰囲気が明らかに異質で、自然と可愛いという感情が湧いて来ない。
無機質と呼べば良いのか、とにかく全てがおかしかったのだ。彼女の妹の方は素直に可愛いと感じたのに、彼女に対しては可愛いという感情が湧かない。畏怖に近い何かが湧き上がって来る。
ここに存在していることが間違いであるように思えてくる。
実際間違いなのだろう。
生きていることが、世界に存在していることが、間違いなのだろう。
間違ってこの世界に産まれてしまい、間違って今の今まで生きている──そう言われないと納得出来ない何かがある。
己を照らす真っ黒な光の正体が、存在してはいけない何かだと思うと、ああやっぱり──と、安堵に近い感情が湧き上がって来るのだ。
ハイライトのない、深淵の権化のような藤紫の瞳に見詰められる度、胸がざわめいてしまうのも、納得だ。
そのざわめきは、不愉快なものである筈なのに、妙に嫌いになれず──思い出す度に頬が紅潮し、恍惚としてしまう。
「なあ、天音、お前、俺の名前が覚えているか?」
放課後、彼女と自分以外誰もいないのを確認してから、なんとなく問うてみた。
本当になんとなくで、大した理由はないのだが、何故異様なまでに訊きたくなってしまう。
「………………」
天音は五分ほど考え込む素振りを見せてから、「あー」と、声を発して、「すみません、忘れてしまいました」と、一応申し訳なさそうな様子を見せながら言ってくる。
そこに悪気なんて微塵もなくて──「コイツは本当に俺に興味がないんだな」と、残酷な事実を突き付けられた。
「おいおい、何度も会話しているのに、忘れるなよ」
「すみません。僕、記憶力が悪くて……」
いつもと変わらぬ素振りを取り繕いながら、もう一度自分の名前を伝えたところ、全く聞き覚えがないと言いたげな顔をされた。
話し掛ける前まで存在を忘れていた可能性もあるな──と、珍しく彼女に対して、依織が正しい認識をする。
無関心が一番近いのかもしれない。
だからこそ、依織が一般的に見れば『悪いこと』に値する行いをしても気しないことが出来て、態度を変えないで接することが出来るのだろう。
(俺は天音に甘えているのかもしれない……)
歳下の、小柄な体格の、少女に。
一方的に執着し、一方的に寄り掛かっている相手に。
絵面もそうだが、倫理的にもおかしい。
おかしいことだと、異常なことだと、悪いことだと、狂ったことだと、認識しているのに、彼女に縋り付きたい、彼女にしがみ付きたい、そのような気持ちが溢れ、止まらない。
(コイツには人を狂わせる力があるんだろうな)
ネガティブな意味で──彼女を人を狂わせる、否、終わらせる。
およそ人間とは呼べない精神構造をしていること、人を終わらせる精神を抱えていること、その他諸々の理由から、死んだほうが良いと大して交流がない空蝉淳に言われている人間だ。
その点では、身内の妹すら擁護出来なかったりする。
死んだ方が良いか良くないで言えば、死んだ方が良いと言うだろう。それはそれとして、死んだら悲しいと伝える。「お姉様は悪質な人間ですが、それでも
人間的な感情はあるが、人間的な心はない。
生物学的には間違いなく人間なのだが、およそ人間と呼びたくないと言われたほど、致命的に終わっている──決してゲスではないが、下手なゲスよりも悪質な存在なのだ。
だからこそ、手を伸ばしくなってしまう。
著しく、狂った存在に──手を伸ばし、しっかりと掴んでいたい。
(なんで俺ばっかり、こんな思いをしているんだろうな)
しっかりと掴んで、それからどうしたんだろう? 引き摺り落としたいんだろうか? 分からない。
(コイツには、幸せとか、不幸せとか、そういう概念がないんだろうか?)
幸せそうに見えないのに、不幸せにも見えない──人間として終わっているのに。
充実した人生を歩んでいる筈の自分より、非常に満たされたジンセを歩んでいることだけは間違いない。
「俺はどうしたいんだろうな……」
「そんなこと僕に言われましても……分かりませんよ。貴方のことなんて全然知らないんですから」
「お前が俺のことを知らない以上に、俺はお前のことを知らないよ」
「そうなんですね」
自分のことすら他人事というような反応だ。
彼女にとっては自分のことさえ、他人事なのかもしれない。
自分のことすら、他人事として流すことが出来るのなら──
(俺も幸せに生きれたのだろうか?)
いや、無理だろう。
少なくとも、自分のことが人間であるという認識がある以上──無理だ。
いつもの場所に移動すると、誰にも邪魔されない場所に移動すると、あることを頼んでみた。
「俺のことを壊してくれよ」
「え、嫌です」
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