第四幕【闇雲傘下】
ナルツィッセが死んだことを、フェドートから聞かされたことで知った
ことの一部を聞かされ、どうやってネルケがフェドートとコンタクトを取ったのかとか、いくつか疑問を浮かんだが、とりあえず、彼女には、あることを頼んで別れた。
拠点に戻ってきた四人は、斬緒とリアン、シェーレとフェドートの二組分かれる形で、お互いの目的の部屋に入った。
シェーレ・シックザール。
フェドート・ドルバジェフ。
シェーレは棚から取り出したお菓子を貪り、フェドートは紅茶を淹れた。
「アタシは、キリオさんのことが大好きです。貴方はどうなんですか?」
歩く茫洋という表現が、そう形容されているフェドートよりも似合うシェーレの考えていることは、よく分からない。
変に理解しようとするより、そういうものとして受け入れた方が楽だ。
だからこの問いも、そういうものとして受け入れ、急にどうしたのかなどと、無意味なことは言わない。
無視しても良かったのだが、気が向いたからなのか、彼はこのように返答をした。
「よく分かりません──この感情が肉体の制約によって生じているものなのか、それとも僕の本心なのか」
最初は肉体の制約から生じている感情だと考えていたが、最近は自信がなくなっていた。
愛情があるのかは分からないが、愛着はあるのかもしれないと思えて来たからだ。
それすら、肉体に課せられている制約のせいでそう思っているだけなのかもしれないが──判別する方法はない。
いや、あるにはある。
肉体の制約をどうにかすれば判別することは出来る。肉体の制約を失くす方法も知っている。
だが、わざわざそこまでして知りたいとは思わない。
肉体の制約が、彼の目的を邪魔するものであったのならば、既にどうにかしている。方法は分かっているのだから。
この世から異能力を消すという目的に、不都合が生じるものではないのなら、このままで良いだろう。
決して、この感情が、なくなることが、惜しいと感じているとか、そのような理由ではない。
「制約ですかぁ。面倒なんですか、それ?」
「面倒だと感じることが一度もないと言ったら、嘘になってしまいますが、日頃から面倒だと感じるほど厄介なものではありませんね。違う制約が課せられていたときは、毎日面倒臭いと思いましたが」
「違う制約?」
「一三年前まで課せられていた制約は、まあまあ面倒でした。僕の目的の邪魔をするものではありませんでしたが」
「二時間おきにご飯が食べたくなるとか?」
「……そんなことをしたら、生活習慣病になりますよ。というか、目的どころか生活に支障をきたすレベルで酷い制約じゃないですか」
「アタシの知り合いにはそういう人いましたよ? その人、死んじゃったんですけど」
「生活習慣病になって死んだのですか?」
「せいかつしゅうかんびょう? 普通に殺されたんですよ」
生活習慣病という言葉を知らないらしい。
「制約が、なんなのかは分かりませんけど、全部が制約によるものだったらどうしますか?」
斬緒に対する好意が、制約によるものだったら──制約がなくなった途端、何も思わなくなるのだろうが、少しだけ惜しいと思った。
今の今まで抱いたことがない感情だから。
「惜しいと今は思いますが、この惜しいという感情も、制約がなくなった途端に消えてしまうのでしょうね」
「面倒そうッスね」
「何度か繰り返せば、慣れますよ。そういうものと思って」
一応会話は成り立っているが、いつまで会話が成り立つのか分からない。先天的に、人間として成り立っていることが不思議に思える精神構造をしているからだ。
どれぐらい歪んだ制震構造をしているのかと言えば、改造人間でいる方が幸せに思える精神と言えば理解して貰えるだろうか。
気に入っている相手、斬緒関連の話題なので、この話が終わるまでは大丈夫だろうが。
「アタシはキリオさんのことが大好きです」
「さっきも言いましたね」
「だから、貴方の意見は分かりません」
そりゃあそうだろう。
そもそも、彼女が何かを理解することがあるのだろうか。
「アタシは、純心な人が好きです。だから、キリオさんもレーヴェンさんも、どっちも好きです」
純心。純粋な心。
レーヴェンに関しては当て嵌まるかどうかは分からないが、少なくとも斬緒には当て嵌まらないのではないだろうかと、フェドートは考える。
シェーレの基準の純粋な心が、一体何をしているのかは分からないから、あくまでもフェドートの主観の話だが。
斬緒の心が汚れていると言いたい訳ではない。けれど、純粋と呼べるほど綺麗かと呼ばれると首を傾げてしまう。年齢の割りには無垢な部分もある反面、年齢相応に無垢ではない部分もある。
「一途な人って純心だと思います」
「貴方の中の純心の定義が、一途なら、確かにあの子は純心でしょうね」
ある人物の願いを叶えることが出来るなら、例え死ぬことになっても構わないという気持ちは、確かに一途なものだろう。
一途というより狂気と表現した方が良い気がするが、一途と言えなくもない感情だ。
その人物の願いを叶えようとしている理由が、好意と、同情と、私怨が合わさったものであっても──一途ではある。
相手のために命を懸けているのだから。
(…………)
半年どころか、一ヶ月も付き合いがない相手のために、命を懸けている──何が彼女をそこまで突き動かしているのだろうか。
付き合いが短いからといって、相手に対する好意が薄いとは限らないが、たった一ヶ月で命を懸けても良いと思わせる何かがあったとは到底思えず、正直なところ、『何故』という疑問がある。
フェドートに対しては隠す理由がないため、斬緒は馬鹿正直に説明してくれたが、彼には理解出来なかった。
『お前は人の感情を操作し弄ぶ割りには、人の感情が分かっていないな』
その様子を見た彼女は、分かりきっていたと言いたげな様子で、このようなことを言ったことを今でも覚えている。
そんなことを言われた程度で傷付くような精神は持っていないが、哀れみでも同情でも敵意からでもなく、純粋な感想として、このようなことを言われたのは初めてだったせいか、やけに記憶に残っている。
「フィセルさんのことも嫌いじゃないですよ? 純心じゃないだけですから。別に好きでもないですけど」
シェーレの中の基準での話になるが、純心かと問われると、確かに純心ではないだろう。
斬緒に対する好意は本物だが、レーヴェンに未練があると言えばいいのか、未だに引き摺っているのだから、シェーレから見れば、純心な人間ではない。
苦手意識はあるものの、邪険に扱ってくる訳ではない、だから嫌う要素がある訳ではないが、好みに該当する部分がある訳ではないため、嫌いではないが好きではないのかもしれない。
「貴方は純心だと思いますよ。でも好きになれませんん」
「僕が純心?」
思わず疑問符を浮かべたが、目的に一途という意味では、シェーレのいう純心に該当するのだろうと考え、何故なのかとは問わなかった。
「アタシ、キリオさんのことが大好きです」
年相応の少女らしい笑みを浮かべて、もう一度そう宣言した。
そのタイミングで、斬緒とリアンが隣の部屋から出て来たので会話は中断された。
二人が会話している間、斬緒とリアンがどのようなことをしていたかというと、まず最初に、彼女が事の顛末について、いくつか誤魔化しながら説明した。
ネルケの存在は、リアンには伝えなかった。精神鈍化剤は、何かに使えると思って、レヴェイユ雑技団から抜け出す際に、武器と共に盗んだと誤魔化した。
キスについて言わないつもりでいたのだが、目敏く問い詰められた結果、キスの部分に関しては誤魔化し切れず、話さざるを得なかった。
他の部分を誤魔化せたのだから、それで良しとしよう。
そう考えることにした。
出来ればキスの件は、察して触れないで欲しかったが、それは誤魔化し方が下手だった己のせいだ。
フェドートには、リアン達と合流する前に軽く何が起きたのか話したのだが、キスの件に関しては微妙な表情を浮かべていた。
「…………お前なりに考えて行動したのでしょうが、どうしようもないとき以外、そんなことはしない方が良いと思いますよ? 精神的にしんどいでしょう?」
あらゆる方面で斬緒のことを利用している彼だが、一度として、性的な方面で彼女のことを利用したことはない。肉体の制約を抜きにしても、そういう面で彼女を気遣う気持ちはあるらしい。
フェドートの意外なリアクションに度肝を抜かれたが、怒っているのか驚いているのか分からないリアンのリアクションは、それ以上に度肝を抜かれるものがあった。
「はぁ? はぁ? はぁ⁈」
「そんな驚かなくても……」
「だって、お前、ファーストキスの相手があいつなんだろ? なんでそんなに平気なんだよ! 普通ショックだろ!」
「生きてるし……」
「はっ? 怒れよ? そんな目に遭わせたナルツィッセにキレろよ!!」
「えぇ……」
ファーストキスがナルツィッセというのは、それなりにショックではあったが、「死ぬよりマシだし」と、当の本人はそこまで深刻に考えていなかったりする。
リアンとの温度差に軽く困惑しながら、軽く流してくれたら良いのに、と思った。シェーレなら「へえ」とだけ言って、流していただろう。
「しかも深い奴だろ?」
「薬飲ませるんだから当たり前じゃん」
「…………ァ、なっ、ぅぁ⁉︎」
あっけらかんと言い放つ斬緒に、信じられないと言いたげな顔をし、その場に立ち尽くす。
「リアン?」
大丈夫なのかと問い掛けるように名前を呼ばれた彼は、意を決したような表情を浮かべると、彼女の頰に両手を添えると──己の唇を彼女の唇に重ね、口腔内に舌を捩じ込む。
二人しかいないから出来たことだ。
「んぐ、ぅ、っ、んぁ、んっ」
上書きするように、粘着質なキスをする。斬緒の呼吸が苦しくなった頃、漸く我に返り、唇を離す。そして、勢いで行動したことを後悔した。キスしたこと自体は後悔していない。しかし、このタイミングでキスをしたことを後悔した。
恐る恐る彼女の顔色を窺う。
困惑といった感情は浮かべているが、嫌悪などは浮かんでいない。羞恥はあるらしく、頰がほんのり赤みを帯びている。
(……可愛い)
そんなことを思っている場合ではないが、不覚にも、そう思ってしまった。
顔の造形自体は、可愛いとか、美人とか、そのように形容出来るものではない。決して不美人とか、そういう訳ではない。
整っているか整っていないの二択なら整っていると言えるだろうし、可愛いか可愛くないかの二択なら可愛いと言えるだろうし、美人か不美人かの二択なら美人と言えるだろう。
一番近い表現をするなら、整った顔立ちをしているけど、わざわざ褒め言葉が出てくるほどではない、だ。
だというのに、本気で可愛いと思った。
頬を紅潮させ、その頬を両手で包み込むように押さえ、「あ」だの、「う」だの、斬緒は鳴き声にすら鳴っていない声を発している。
「あの、これは、あれだよ」
慌てて言い訳の言葉を並べ立てようと、思考を巡らしながら口を動かす。
「なんつーの、その……上書きだよ、上書き。ナルツィッセとキスするより、俺とキスする方が気分的にはマシだろ? これで、ナルツィッセが唯一キスした相手にはならないし、感覚とか忘れられるだろ? まあ、その、そういうことだ。いきなりしたのは悪かった。本当に悪いと思ってる。お前の言うことなんでも聞くから許してくれ」
言ってから、「いやこれはねぇな」と思う。いくらなんでもこれはない、と。もっとマシな言い訳があるだろう、と。
「…………ぁ、いや、その……うん、そ、そう、そう、大丈夫?」
何故か最後は疑問形だった。
混乱しているのだろう。
「お前、結構
平気でナルツィッセにキスをした人間とは思えない。
「…………それとこれは話は別だろ」
ムスッという効果音が聞こえてきそうな表情で言った。軽く睨まれたが、頬が赤いせいで鋭さがない。
「せめて一言掛けてくれ……吃驚するだろ、いきなりキスされたら」
「えっ? 一声掛けたらキスしても良いのか?」
いきなりキスされたらの「ら」に、被せるように、そう言い放てば、更に顔を赤くした彼女に、「駄目に決まってるだろ‼」と、珍しく声を荒らげられる。
「だよな……」
訊いておいてこう思うのはかなり勝手だが、OKされたら、それはそれでショックを受けた気がする。
初心な斬緒は解釈違いではないが、恋人でもない男と、そうせざるを得ない状況以外でキスをする斬緒は解釈違いなのだ。
「そうに決まってるだろ……好きでキスした訳じゃないんだぞ、あれは。あんなのノーカンだ、ノーカン」
「ああ、そうだな。あんなのはノーカンだ」
「…………」
「…………」
頬を染めたまま、もじもじ体を動かしたかと思えば、黙り込んだ斬緒のことを、同じく黙ったまま見詰める。
黙って自身を見詰めるリアンに、「全く……」と、漸く口を開いたかと思えば、彼女は続けてこう言った。
「今回は許すけど、二度目はないからね」
「ああ」
時間が経って少し羞恥が引いていったのか、頬の赤みが薄くなっていた。
「なあ斬緒」
その場から去って行こうとする彼女の背中に、声を掛ける。
「何?」
「今訊くのかって思われるかもしれねえけど、タイミング逃したくないから今訊くわ」
このタイミングでと思われるかもしれないが、キスの件で有耶無耶になりそうだったが、ナルツィッセに狙われているときから訊きたかったことを、タイミングを逃す前に問うことにしたのだ。
「う、うん」
先程までの雰囲気と違い、どこか真剣さを帯びていたからなのか、斬緒の方も似た様子になる。
「お前は、何をしようとしているんだ?」
彼女の目的について、問う。
死にたくないからではなく──目的を達成するまでは死ねないからという理由で、ナルツィッセを殺そうとしていた。
目的が達成出来るなら死んでも良いという風に見えるその姿勢に、前々から浮かんでいたいくつかの疑問も相まって、訊きたいという欲を抑えられなかった。
「具体的に何をするのかは言えないけど──例え死ぬことになっても、ある人の願いを叶えたいんだよね」
全く教えて貰えないのではないかと思ったが、流石に何か答えなければ引き下がって貰えないと思ったのだろうか、彼女は少しだけ目的について教えてくれた。
「死ぬことになっても?」
「私はあの人の願いを叶えることが出来るなら、死んでも良いと思っている。そのためなら他の人も利用するよ……流石に相手は選ぶけど」
覚悟に満ちた声で──その覚悟は、どう足掻いても揺らがないのだと、確信させられた。
表情も瞳も真剣そのもので、本当に死んでも良いのだと思わせられた。
何故斬緒に対して、一部分嫌いだと感じているのか、
(そうか、俺は──嫉妬しているんだ)
例え死ぬことになっても叶えてあげたいと思うほど、その人物のことを想っていることが、ジェラシーと呼ばれる激しい感情が、とめどなく溢れて来る。
「ソイツとは付き合い長いのか?」
「全然。時間だけで見ればかなり短い。リアンの半分未満だよ」
つまり──半年未満の付き合いということか。
「付き合いを長さだけであれこれ言うのもアレだけどよ……半年も付き合いがない奴のために、命懸けられるのか?」
これは半分くらいは嫉妬から来る質問だった。困らせてやろうという意図もあった。残り半分くらいは、好意以外の理由があって欲しいという、彼の願望から来ていた。
身勝手という自覚はある。
「自分でも偶にそう思うんだけど……あの人自身が終わってしまった以上、私が続かなかったら、あの人が報われないでしょ?」
遠い目をしながら、そのように返されてしまったら、何も言えない。
下手に何か言えば言うほど、惨めになるだけだと感じた。
(あの人とやら本当に羨ましいぜ)
何をどうしたら、そこまで想われるのだろう。
その理由が分かったとしても、きっと己はここまで想われることはないのだろう。
特別枠。
代わりの効かない存在。
絶対に自分はなれないのだろう。
大事に思われることはあっても、代わりの効かない特別な存在なることは出来ないのだろう。
下手したら、フェドートよりも、その人のことを大切に想っている可能性すらある。
フェドートにすら敵わないのに、フェドート以上に大切に想われている相手に適う気がしない。
関係性が出来上がっていない頃に、彼女のことを散々利用した上、誰かに重ねられることが地雷な彼女に、レーヴェンのことを重ねているのだから──そうなれなくても仕方がない。
そう思っているのに、ショックを受けている自分がいる。
そのことに一種の自己嫌悪を覚えた。
「ソイツの願いを叶えるために、お前はどうするんだよ? どうするつもりでいるんだよ」
「まだ具体的なことが決まってないかな。必要な物とか、色々揃ってないし──けど、何年掛かろうとやり遂げるよ」
絶対に成功させる。
力強い声で斬緒はそう宣言した。
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