第三幕【粘性崇拝】③

 浮舟うきふね斬緒いなばがナルツィッセ・ヴァルテンにキスしたのには、それなりに理由がある。


 決して、好き好んで、こんなことをしたのではない。


 彼女の名誉のために述べておくが、必要でなければ、絶対にこんなことはしない。


 彼女はかなり初心うぶな女性のだ。

 必要がなければ、このようなことが出来ない。


「私の唾液に溶けた精神鈍化剤の味はいかが?」


 普段なら絶対にこのようなを言わないが、散々嫌な目に遭ったので、その鬱憤を晴らすように、唾液に溶けたと、かなり気持ち悪い表現をした。


「せ、精神鈍化剤?」


「普段なら焦るのに、焦れない……普段なら困惑しているのに、困惑出来ない──激情に駆られたのに、激情に駆られることが出来ない」


「お前……!! 俺の異能力について、そこまで知っているのか? まさかあの人から聞──」


 ──いていたのか? と、続けようとしたのだが、それに被せて、最後まで言うことを、斬緒は許さない。


「お母さんは、私に、お前の話をしたことは一度もない」


 ならば、ネルケから聞いたというのか? しかし、ネルケはそこまで知らない筈だ。まさか自力で気付いたのか?


 冷静にさせられたがゆえに、様々な方向に思考を巡らすことが出来てしまい、それ故に彼女の行動力の凄まじさに驚いてしまう。


 その驚きは、精神鈍化剤によって緩和されているが、完全になくなっている訳ではない。


 薬がもう少し効けば違うのだろうが、飲んですぐはそこまで効果は望めない。


 異能力が使えない状態になれば、濃いとは言えないが、勝ち目はある。


 冷静になったが故に動揺している彼に、思い切り千枚通しを振り下ろす。


「ッ、ガ、ガッ‼」


 業火プロクスを使うには、精神が荒ぶっている必要がある。精神が荒ぶっていればいるほど、高火力の炎を放てるのだ。


 斬緒に対する激情が抑えられた彼は、異能力に頼らない方法で彼女をどうにかしなければならない。


 己の肩に千枚通しを刺した彼女を、思い切り突き飛ばす。


 お互いにお互いを攻撃し続けるが、どれだけ攻撃しても、怪我を治して貰える彼女と違い、怪我が増え続けるナルツィッセは、死を強く感じる。


 ネルケも攻撃に加わっていたら、既に死んでいただろう。


 彼女が攻撃することに加わっていないのは、九九パーセントあり得ないことだが、万が一にでも彼女が死ねば、斬緒の勝ち筋がなくなってしまう──だから、治癒に専念させている。


 異能力頼りとはいえ、ナルツィッセも戦闘員。


 身体能力自体はそこまで高くないが、通常ならば、己より戦闘経験値が低い少女に負けるということはない。


 あくまでも、通常ならば。


 だが、彼女は浮舟斬緒だ。

 浮舟因幡いなばの娘だ。

 彼が自身の支配者カイゼリンと認めた女の娘なのだ。


 そして、彼女には、ネルケ・トレットマンという協力者がいる。


 浮舟因幡が、己にとって特別であると認めた存在──ネルケ・トレットマンという協力者が。


 お互い髪を振り乱し、服が汚れるのを厭わず、なりふり構わずに殴ったり刺したり繰り返す。


 自分がいくら怪我しようと厭わない動作が、千枚通しを持った手を振り回す斬緒を、まずどうにかしなければならない。


 そうでなければ、己は死んでしまうと、ナルツィッセは確信した。


 強く強く確信した。


 だから、千枚通しをどうにかしようと、それを持っている方の手首を掴む。


 骨が軋ませる勢いで握り締める。


 千枚通しを持っていない方の手首を掴むと、同じように、骨が軋ませる勢いで握り締めた。


「ッ〜〜‼」


 本当に骨が軋んでいるかどうか分からないが、確実に痣は出来ているだろう。それすらも、ネルケの異能力で治っているのだろうか。治っては傷が出来てを繰り返しているのだろう。


 肩が貫かれているとはいえ、力だけなら細身の少女である斬緒より筋力はあるのだ。


 というか、年齢を考えれば、平均的な四〇代の男性よりは筋力はある。


(…………)


 ジッと、彼は間近にあるその顔を見詰めた。


 浮舟因幡にそっくりな顔が苦痛で歪むところを間近に見るのは、正直気分が良くない。だけど、斬緒が苦痛を味わっていると思うと、非常に爽快な気分になる。不思議な気持ちだ。


(あの人に似ているのか似ていないのか──本当によく分からないな)


 拘束を振り解こうとする斬緒と、振り解くことを許さないと言いたげに、その手首を握り締めているナルツィッセとの攻防は、まだ続いているのだが、そんな状況であるというのに、そのような感想を抱いてしまった。


 精神鈍化剤のせいで脳内が冷静になっているからそんなことを考える余裕があるのか、単純に彼がおかしい奴だからなのか、恐らく両方だろう。


「クソ女」


 悪態を付くが、今までのような圧はない。抱えている激情を、精神鈍化剤のせいで鎮静化されているからだ。


 いつ終わるのか分からない攻防の終わりは──すぐに終わった。


 このままでは死ぬと思ったナルツィッセが、勢い良く斬緒を蹴り飛ばし、この場から逃げ出したからだ。


「ッ! 逃げんな!」


 追い掛けようとしたが、彼が懐から取り出した閃光爆弾のピンを抜き、流れるような動作で投げたせいで──距離を取られてしまい、彼がどこに逃げたのか分からなくなってしまう。


「ああ、クッソ……‼」


 その場で地団駄を踏む。


 無理矢理追い掛けようと思ったが、そんなことをするよりシェーレ達と合流した方が良いと判断し、追い掛けようとする足を押さえ付ける。


 斬緒からどうにか距離を取ることが出来たナルツィッセは、ここは一度体勢を立て直すことを決めた。


 今日斬緒を殺すことは諦めよう。


 そんなことを考えながら、千枚通しで刺された肩を手で押さえる。出血はある程度収まっているが、傷口がジクジク痛む。


(──次こそ絶対に殺してやる)


 そう決意したタイミングで、浮舟斬緒でもなければ、シェーレ・シックザールでも、ネルケ・トレットマンでも、リアン・フィセルでもなく、当然ナルツィッセ・ヴァルテンでもない声が──銃声と共に響いた。


「貴方がどう言い訳するつもりでいるのか知りませんが、貴方がどう言い訳しようと、貴方がレヴェイユ雑技団から追われることは避けられませんよ」


「ッ⁉ ぁ⁉ っ‼」


 振り向けば──フェドート・ドルバジェフが視界に入る。


 フェドート・ドルバジェフ。

 シェーンハイト人男性。

 浮舟斬緒の飼い主。

 テロリスト。


 その手には、拳銃が握られている。


 見た目こそ、どこにでもありそうな銃に見えるが、ナルツィッセの知識にあるどの銃とも合致しない。


 そもそも、普通の銃なら──銃弾が彼の肩を貫通する訳がないのだ。


 レヴェイユ雑技団が用意した特殊防弾チョッキを貫いている時点で、普通の銃ではないことが明らか。


 今、フェドートが手にしているのは、斬緒がパグローム研究所から持ってきた銃──対改造人間用拳銃。


 改造人間を殺すことに特化した銃であるため、防弾チョッキを来た程度の人間ならば、普通に殺せる。


 そんな銃から発せられた弾丸が、肉体を貫いたのだから、ただ銃弾が肉体を貫通した程度では済まない。


 撃たれた肩が一部吹き飛び、肩だけでなく、口から大量の血液を流し、その場に蹲る。


 焼いて止血するということも、異能力のせいで出来ない。


 炎で焼かれない体質である以上、以前斬緒が行ったように、傷口を焼いて強制的に止血するという荒業を使えないのだ。


「先程、グローリアさんから電話が掛かって来たと思うのですが、用件は言っていましたか? いなかったと思いますよ。どこにいるのかは訊かれたでしょうが」


 薄く微笑みながら、彼は言う。


 飄々としたその笑みが、己を嘲っているように感じ、ナルツィッセの眉間の皺は深くなる。


「どうして休暇を取っている貴方に電話を掛けたのでしょうね? 緊急の案件であれば、電話を掛けたグローリアさんは、焦ったり慌てたりしている筈です。少なくとも、貴方がトート国にいたからと言って、あっさり引き下がったりはしないでしょうね」


 言われてみると、かなり不自然な点がある。相手がサタナ・レーニョなら、そういうこともあり得るが、ドロレス・グローリアは違う。人並みに焦るし、人並みに腹を立てる。


 届を出さずに国外にいたら、「ふざけてるの? ぶっ殺されたいの? 帰国したら無事でいられるとは思わないことね」ぐらいは言うだろう。しかも声を荒らげながら。


「僕が言っていることが本当かどうか確認するための電話ですから、貴方の居所が確認出来た時点で、それ以上話すことはなかった──だから、グローリアさんは、とっとと会話を切り上げた。そう考えたら色々納得出来ると思いませんか?」


「仮に……全て本当のことだったとして」


 ナルツィッセは口を開く。


「貴様、のようなテロリストが……どうやって、雑技団の人間と連絡を取ることが出来たんだ? 仮に、連絡を取ることが出来たとしても……長年雑技団にいた俺より、お前の方が、簡単に信用される筈、がないだろう。お前が、テロリストでなければ、話は別だが……」


 無理矢理口を動かし、問い掛ける。


「連絡を取る方法なんて、探せばいくらでもありますよ。貴方よりも、貴方曰くテロリストである僕の言葉が信じられたのは、単純に貴方の人望がないからでは? 電話で居所を確認したみたいですし、半信半疑だったのでしょうが……。まあ、僕が、をいくつか送り付けたから、貴方より僕のことを信じたのかもしれませんね」


「証拠?」


「貴方が勝手なことをしている証拠ですよ。斬緒の居場所を探るために、己の立場をかなり悪用したでしょう? 中には殺されても文句が言えないことをしていますし──雑技団から死ぬまで追われ続けることになるでしょうね」


「…………」


「僕の庇護下にいる斬緒と違って、彼にはなんの後ろ盾もありません。つまり、追わないが存在しないということです」


 レヴェイユ雑技団が、組織として、斬緒に手出しすることが出来ないのは、フェドートを刺激したくないからという理由があるのだ。


 ローゼリア王国以外で被害が出るなら良いが、ローゼリア王国に多大な被害が出れば、面子が丸潰れという事情があり、彼の助言のせいで、雑技団に多大な被害を出したという実績を斬緒が作ってしまったことで、下手なことが出来ない状態になっている。


「雑技団の立場を悪用した──これは雑技団の面子に関わる問題ですからね。面子を気にするあの組織に喧嘩を売っているに等しい行為。おいそれと許して貰えると思いますか?」


 許されないだろう。


「ただでさえ許されないことをしているのに、斬緒を殺したらどうなるのでしょうね? 命はないでしょうね。雑技団のトップは、この子を捕まえたいと思っていますから」


 何を考えているのか分からない薄い微笑みを崩さず、フェドートは言い放つ。


「斬緒は、本当に優しい子なんですよ」


「はぁ?」


 突然の話題転換に、彼は眉を顰める。


「愚かさにも繋がるほどの優しさを持っているのですよ。だから律儀に僕とした約束を守ろうとしますし、己に対して殺意を向けて来た大量殺人犯と一緒に居るという選択を選んでしまいますし、よく分からない相手と分からないまま一緒に居れますし、出会って間もない人間から託された願いを叶えようとしてしまう。託された願いを叶えるためならば、全身炎で焼かれることになっても、奥の手を使わない。健気ですよねぇ、本当」


 律儀に僕とした約束。

  ──浮舟斬緒の奥の手。


 己に対して殺意を向けて来た大量殺人犯。

  ──リアン・フィセル。


 よく分からない相手。

  ──シェーレ・シックザール。


 出会って間もない人間から託された願い──彼女が果たそうとしているのことを、指している。


「斬緒に死なれたら困るんですよ。僕の肉体に課せられ制約のせいで、その子が死ぬと不都合なことが起きるんです」


 課せられた制約──それが何を意味しているのかは、本人であるフェドートと、斬緒だけしか知らない。


「ああ、そうそう。どうして貴方が斬緒のことを殺そうとしていることを、僕が知ったのかについてなのですが、トレットマンさんがご丁寧に教えてくれたんですよ。伝手という伝手を利用して、僕にコンタクトを取って、あの子のことを殺そうとしていると奴がいると、罠なのか疑うぐらい暴露してくれました」


 ネルケは斬緒のことを因幡と思い込んでいるため、最初は何を言っているのか理解することが出来なかった。既に死んでいる相手を殺そうとする人間がいると言われているのだから、悪戯かと思った。


 途中から斬緒のことを因幡と思い込んでいる気付いたので、どうにか理解することが出来たが、気が短いリアンなら、最後まで話を聞くことはないだろう。


「あの子が気にしますし、貴方があの子を殺そうとすることを教えてくれた恩もありますので、トレットマンさんにはなるべく累が及ばないように配慮していますよ」


 話すだけ話すと満足したのか、引き金を引き、もう一発撃つ。


 今度は、肩ではなく、心臓が吹き飛んだ。


 こうして──ナルツィッセ・ヴァルテンは息を引き取った。

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