第三幕【粘性崇拝】①

「裏切ったのか、アイツ」


 ネルケと連絡が取れなくなった彼は、なんとなくそう言ってみるが、なんの感慨も湧いて来なかった。


 言ったことを後悔するぐらい、空虚な言葉だった。白々しいにもほどがある。砂を食べたらこんな心境になるのだろうか。


 裏切るも何も、そういう関係なのだ。


 お互いにお互いのことを利用し合っているだけの関係で、己の目的達成のために必要だから、一時的に協力していただけである。


 決して、仲間と呼べるような関係ではない。


 だから、彼女がナルツィッセが予想している通り、斬緒の味方になっているとしても、それはなんら責められるものではないし、裏切りでさえないのだ。


 裏切る前に、異能力を使い、彼が失った血液を元に戻してくれたので、御の字だと思おう。


 斬緒を再び逃がした後、失った血液を戻してくれなければ、追い掛けることを諦めるしかなかったのだから。


(あの女のことをあの人と思い込むような狂った女と、一時とはいえ、協力することが出来ただけ──奇跡みたいなものだろう)


 今、ネルケが斬緒きりおと共にいるということは──灰も残らないように、一気に焼き殺すか、二人をどうにか引き剥がさない限り、斬緒を殺せないだろう。


 こんなとき、因幡いなばならなんて言うのだろうか。「やるねぇ、斬緒」と、言うのだろうか。それとも、「ネルケちゃんは、何が遭っても私の味方だよ? 斬緒の味方をするに決まってるじゃん。人選ミスじゃない?」と、飽きれたような声を発するのだろうか。


 どちらもあり得そうで、どちらもあり得なさそうだ。

 因幡はそういう人間である。

 なんでもありで、どんなこともあり得そうであり得ない存在。


(あの女なら分かるのだろうか)


 母親にしっかり愛され、母親の最悪さをそれなりに受け継ぎ、代わりに、彼女の最大の欠点であり、彼女の死因でもある、彼女の肉体の脆さは受け継がず、レヴェイユ雑技団を引っ掻き回した浮舟斬緒なら。


(きっと分かるのだろう)


 分かるとまではいかなくても、ナルツィッセよりも正確な予測を立てることは出来るだろう。


 どうしてなのだろうか。

 ──己の方が、あの女よりも彼女と長くいたのに。 


(何故あの女の方が、俺よりあの人のことをよく知っているのだろう)


 どうしてなのだろうか。

 ──彼女は死んでしまったのに。


(あの女がのうのうと生きているのだろう)


 どうしてなのだろうか。

 ──あの人の体は決して丈夫なものではなかったのに。


(あの女はどうしてあんなにも丈夫な肉体をしている?)


 浮舟うきふね斬緒を構成する全てが憎い。


 浮舟因幡に似ている顔立ちも、声も、食の好みも、ジッとこちらを見ているときの表情も、嫌いな相手に向ける目付きも、考えごとをしているときの仕草も。


 浮舟斬緒を構成する全てが憎い。


 浮舟因幡と違う髪色も、瞳の色も、話し方も、歩き方も、性格も、言動も、行動も、指針も、こちらに向ける眼差しも、こちらに向ける感情も。


 浮舟斬緒を構成する全てが憎い。


 浮舟因幡に愛されていることも、そのことを自覚していることも、己が知らない彼女のことを知っていることも、半分は彼女ではない人間の血が混じっていることも、彼女の最悪さを半端に受け継いでいることも、彼女好みの普通さを持ち合わせていることも、彼女は違う人間であることも、彼女の近しい存在であることも。


 とにかく、浮舟斬緒の全てが憎い。


 気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。

 間違っている。

 だから、殺して、壊して──それからどうしたいのだろう?


 彼女を殺して壊した後──己は、どうしたいのだろうか?


「眼鏡くんはさあ、馬鹿なことしているって思わないの?」


 そんなことを考えていると、昔、彼女から言われた言葉を思い出した。


「私のためだけに、自分が望むものをくれない私のために、人を欺いて嘲って殺して壊して、その果てに駄目になっちゃって、俺って馬鹿だなぁとか思ったりしないの?」


 分かっていて利用している人間の発言ではないが、彼女のそういうところが好いているので、全く腹は立たなかった。


「思いません」


「へえ、思わないんだ。眼鏡くんは馬鹿なんじゃなくて、愚かなんだね」


 悪口を言っている自覚はあるが、そこに悪意はない。悪気もない。彼女からすれば、ただ単に浮かんだ感想を口にしただけといった感じなのだ。


「愚かなのは最初からだったけど、悪化しちゃったねぇ」


 本当に悪意がない。

 このようなことを言っているのに。


「ネルケちゃん? ネルケちゃんはねえ、愚かではないよ。愚かというより、哀れ」


 それを貴方が言うのか──そんな返しをした気がする。


「いや、正直ネルケちゃんには悪いことしたなとは思うんだよ。ネルケちゃんに対しては、珍しく心から申し訳ないって思っている。信じられないって顔しているね? でも本当だよ。眼鏡くんは理解出来ないだろうけど」


 そもそも、この人のことを理解出来た試しがない。


 そう思っているのがバレたのか、「そういうことじゃないんだけどね」と言われ、的外れな存在を見るような眼差しを向けられる。


「眼鏡くんには分からないんだろうけど──分かって貰おうとか微塵も考えないけど、私って眼鏡くんが思っているほど薄情じゃないんだよ。友達に悪いことをしたら普通に悪いって思うし、姉が私だったって点では妹に同情したりもするしね」


 どうなのだろう。

 出鱈目でたらめを口にしているだけで、本心は違うのではないだろうか。


 仮にこの言葉が本当にだったとして、それは今この瞬間だけのことで、一秒後には嘘に変化するのではないだろうか。


 この人の性格を考えれば、こう考えた方が自然な気がする。


「眼鏡くん、私が子供が産んで、その子供のことを本気で慈しんだとしても、その考え方を捻じ曲げなさそうだよね」


 実際、その言葉通りになった。

 一目見た瞬間、彼女に愛されていると分かる斬緒を見ても、因幡が残したUSBに、斬緒の写真が保存されているのをその目で確認しても、彼は彼女が薄情で、慈愛を欠片も持ち合わせていない存在だと考えている。


「話を戻すけど、おかしな環境にいたせいで、ネルケちゃんが私のこと本気で崇めるようになったことは、本当に申し訳ないと思っているんだよ。ネルケちゃんは普通の子だったから、普通に狂ったし、普通に依存しちゃった。それをどうにかしてあげられなかったことは悪いと思っているんだよ。今更どうにかしようとは思わないけどさ」


 今更どうにかしようとは思わないという発言を聞き、やはりこの人は薄情な人なのだと、心の底から安堵した。


 しかし、そんなナルツィッセの内心を見透かしたように、「誤解しないで欲しいんだけど」と、因幡は話を続けたことを今でも覚えている。


 人の心を読むことも、それに近いことも出来ない筈なのに、何故かピンポイントに相手の心境を抉るような、相手の心を見透かしたようなことを言う。


「私が今更どうにかしようと思わないのは──どうにも出来ないところまでいったからってだけ」


 彼女がネルケのことを気に入っているのは、切っ掛けこそ性根が普通だからだが、それだけで特定の人物を長年傍に置くほど、彼女は風変わりな人物ではない。


 少し考えれば分かりそうなことだが、彼は性根が普通だから気に入られていると思い、それ以上深く考えることはしなかった。


 もし、考えることがあったとしても、便利な異能力を買われたという、損得勘定によるものと判断しただろう。


 多少は気にするが、損得をそこまで重視しない享楽的な性格であることは、よく知っているというのに。


 結局のところナルツィッセは、浮舟因幡という存在を崇めているだけで──浮舟因幡という人間を愛している訳ではないのだ。


 だからこそ、因幡に愛されていると分かっているのに、彼女の愛娘である浮舟斬緒のことを殺すことに躊躇ちゅうちょがない。


 逆恨みに等しい理由で殺すことを、全く悪いと思っておらず、それどころか、正当な行いだと胸を張っている。


 例え斬緒のことを因幡と思い込んでいなかったとしても、ネルケは彼女のことを殺そうとは思わなかっただろう。


 一瞬であるとも、考えなかった筈だ。


 人並みに慈しんでいたかもしれない。


 因幡の娘として、溺愛していたかもしれない。


 一度だけ、「お前、因幡さんに娘がいたらどうする?」と、問うたことがある。


 すると、このような返答をした。


「因幡さんに娘がいたらですかぁ? 恋の成熟のためにぃ、ここを出ていきましたからぁ、あり得るかもしれませんねぇ。あはっ。いるかどうか分かりませんけど、いたら大事にするに決まっているじゃないですか。だってぇ、因幡さんの娘なんですよぉ?」


 恐らく、本心からそう言っているのだろう。人を騙したりする人間ではない。本当のことは言わないことはあっても、あまり嘘は吐かないのだ。


 その言葉が本心からの言葉であると──頭では理解しているのに、心はどうにも受け付けなかった。


 斬緒を殺すことを、斬緒に対して憎しみを抱いていることを、責められているような気がして、なんとなく不愉快だった。


 悪いことをしていないのだから、別に不愉快になる必要はないと己に言い聞かせても、何故か不愉快だった。


 彼女を大事にするという感性が理解出来なかったからだろう。


 ナルツィッセにとっては、絶対にあり得ないことなのだ。斬緒を大事にするというのは。


 そんなことをするぐらいなら、死んだ方がマシだと──本気で思っている。


(……早くアイツを見付けよう)


 そして、即座に殺してやろう。


「チッ」


 そう思って足を一歩動かしたとき、仕事の携帯から着信音が聞こえてくる。私用の携帯ならば無視するが、仕事用は別だ。


 面倒だと思ったが、出ない方が面倒なことになるので、渋々電話に出る。


「貴方今どこにいるのかしら?」


 電話の相手は、副団長──ドロレス・グローリアだった。


 リーベ・シュトゥルムが斬緒に殺されてから、彼の後釜として副団長になった金髪碧眼の清楚な外見をした女性。


 顔立ちは非常に見目麗しく、体型は出るところは出ているが、引き締まるべきところは引き締まっており──見た目だけなら、本当に好みなのだが、中身があまり好きになれない。中身が好みだったとしても、年の差があり過ぎるので、そういう方面で好意を抱くことはなかっただろうが。


「今はトート国にいますが、どうかなさいましたか?」


「はぁ? なんでトート国にいるのよ? 国外に出るなら届を出す必要があるでしょ? ヴァルテン、届出していないわよね? こっちの記録ではそうなっているんだけど」


「…………すみません、出し忘れました」


 出し忘れたのではなく、わざと出さなかった。届を出すとなれば、確実に何故ここに行くのか、理由わけを訊かれるからだ。


「出し忘れた? 馬鹿じゃないの? 年齢のせいで、記憶力が低下したの?」


 四〇は、老化のせいで記憶力が低下するには早い気がする──と、心の中で思ったが、口にすると面倒なことになると分かっていたので、「申し訳ありません」とだけ口にした。


「まあいいわ。今説教しても仕方がないもの。そういえば、トレットもいないんだけど、何か知らない?」


 トレット──ネルケ・トレットマンから、トレットだけを取った仇名だ。


「いえ、知りません」


 ナルツィッセは堂々と嘘を吐いた。


 あるときは息をするように嘘を吐いたり、あるときは天地が引っ繰り返るほど事実しか陳列しない因幡ほどではないが──年齢を重ねる内に嘘が上手くなった気がする。


 彼女ほど自然に嘘を吐くことは出来ないが。


 昔の自分は、ここまで嘘を吐くのが上手くなかった。


「ふうん」


 どうでも良いと思っているのか、宛てが外れたと思っているのか、判然としない「ふうん」だった。


「トレットの件は別の人物に訊くことにするわ。例え知っていたとしても、貴方が知らないと言った以上、電話で聞き出すことは出来なさそうだもの」


 ナルツィッセがネルケの動向を知っていると解っているからそう言ったのか、知っているかもしれないと思って言ったのか、知っているかどうか分からないけど、一応訊こうと思っただけなのか──電話越しでは分からない反応だった。


 表情を見れば分かるのだが、声だけとなると、不思議と何を考えているのか分からなくなる。


「何をしているのか知らないけど、束の間の休暇を楽しんだら?」


 一方的に話したいことを話すと、ドロレスは電話を切った。


 相変わらず勝手な人だと思いながら、電話を仕舞う。どんな用件があったのか分からないが、仕事用の携帯に電話して来るくらいなのだから、仕事関係──雑技団関係であることは間違いないだろう。


 面倒な仕事を押し付けられたことだけは分かるので、ローゼリア王国にいなくて良かったと思った。


 さて、今度こそ──浮舟斬緒を殺そう。

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