第一幕【泥濘暗澹】③

 雨で全身がびしょびしょになった斬緒きりおは、ナルツィッセから逃げ切れたことを確信すると、太腿に身に着けているきょうりんのスイッチを切った。


 同時に表情を取り繕うのも止めた。ナルツィッセに、共輪が使われていることを悟らせないためにしていた行為であり、彼がいなくなった以上、もうする必要がないからだ。


 フェドートのところに戻るか、リアン達の安否を確認するか、どう行動するべきなのかを、慎重に考える。


(ドーチャのところに戻るのはよそう)


 が、すぐに、フェドートのところに戻るという選択肢を、頭から消す。


 戻れば確実に、彼を巻き込む。

 それは避けたい。


(死ぬつもりなんて更々ないけど、もし私が死ぬとしたら、せめてドーチャと関係ないところで死にたい)


 絶対に死にたくないが、死んだときのことを考えない訳にはいかない。


 フェドートの迷惑になる死に方だけは避けなければならない。


 例え、あの愛情が欺瞞というか──幻覚に近いものであっても、嫌いだと言えないぐらいには、彼のことが好きだから。


(…………嘘ではないけど、嘘みたいなものだよなあ、あれ)


 今はそのようなことを考えている場合ではないため、頭を横に振り、邪念を振り払う。


 予報が正しければ、数時間もしないで、雨が止んでしまう。


 雨が上がってしまえば、ナルツィッセは異能力を使える。異能力を使える彼と対峙すれば、今度こそ死んでしまうだろう。あのときお喋りに付き合ってくれたのは、斬緒の存在が気に食わないが故に、文句を言いたかったであり、雨さえ降らなければ文句を言ってからでも余裕で殺せるぐらい実力があったからだ。


 予報より雨が止んだ場合、スプリンクラーがある屋内に入ろうかと思ったが、スプリンクラーから放出される水量によっては、干上がらせてしまうかもしれない。


 このレベルの豪雨はどうにか出来ないが、もう少し雨量が少なければ、干上がらせることが出来るかもしれない。


 異能力で天候を変えているところを、一般人に目撃されたら不味いという意識があるみたいなので、普通に雨が止むのを待つとは思うが──


「どの道、時間がないことには変わりないんだよなぁ」


 雨で冷えた体を擦りながら、独り言を呟いたとき──「ッ‼」と、長時間共輪を使用としていたせいか、激しい頭痛に襲われる。


 共輪のスイッチを切ってからも、頭が痛い状態が続いていたが、いきなり脳味噌に直接針を突き立てられたような痛みが走ったせいか、足を止めて頭を押さえてしまう。


 その場で蹲りたくなったが、そんなことをしている余裕はないため、一歩一歩無理矢理足を動かす。


(数時間は共輪使えないな……)


 可能ならば、今日はもう使いたくないレベルだが、ナルツィッセをどうにかしない限りは難しそうだ。


 ふと、顔を上げると──見知った顔が視界に入る。


「キリオ……?」


「リアン……シェーレ……」


 二人共、彼女同様に服が濡れているが、濡れていることを除けば、いつもと変わったところはない。


 寧ろ、斬緒の方が酷い状態であった。


 外傷こそないが、共輪を使用したせいで、顔が青く、頭痛で顔を顰めているのだから。


 しかも、その上、汗を掻いている。


「お前、顔色ヤバいけど、大丈夫か?」


「全然……だいじょばない」


「駄目じゃねぇか、良く生きてるな……死人みてぇな顔してるぞ」


「そっちもなんかあったんスか?」


「まあ、ね……移動しながら話すよ」


「お前それで歩けるのか?」


「なんとか……」


 絞り出すような彼女の返事を聞くと、一〇秒ほど、彼女の顔を眺めてから、「俺が背負った方が速いな」と言って、半ば強引に彼女のことを抱える。


 先に斬緒から、何があったのか説明する。事情を知ったリアンは、露骨なまでに顔を顰めた。


「キリオとキリオの母親は別人だろ。贋作っつーか、ただの別作品だろ。作品って言い方もあれだけどよ……」


「まあ、そうだね」


 そう返事をすると、頭痛が緩和した彼女は、続けてこう言った。


「そこは、ヴァルテンも分かっているんだと思うよ。ただ、頭では別作品だって分かっていても、精神はそうじゃないんだと思う。半端に完成度が高い偽物ぎぶつが存在しているようにしか思えないんだろうね」


 改めて口にすると、本当に理不尽な理由だ。


 斬緒の存在を否定することは、因幡いなばの気持ちを否定することとイコールと言っても過言ではないのに。


 良くも悪くも独善的な理由で、浮舟うきふね因幡に心酔しただけのことはある。


 心酔している因幡以上に自分勝手だ。


 因幡もかなり自分勝手で理不尽でどうしようもない人間だが、娘と愛する男に対しては、僅かに誠意が存在している。


 どちらがマシなのかと言えば、どちらも方向性が違うだけで関わり合いになりたくない人種なのだが、斬緒的には母親である因幡の方がマシだ。


(だって、お母さんは、絶対に私のことを殺さないし)


 その母親のせいで、今現在──ナルツィッセに命を狙われている訳だが、それでも、自分はきっと死なないだろうと思っている。


 母親と父親が絡む形で死ぬことはないと、半ば確信に近い感覚を抱いている。


 理由は、「お母さんとお父さんは、絶対に私のことを殺さないから」──だ。


「それで、そっちは何があったの?」


「端的に言うと、明らかに洗脳されている武器持った一般人に襲われた。しかも、そこそこ人数がいた」


 死線を潜り抜けた経験がない一般人が相手ならば、一〇〇人いようとも二人が負けることはないだろうが、洗脳されていたらしい一般人はどうなったのだろうか。


「生きてはいるぞ……。怪我はしているだろうけど、重傷ってほどではないだろうし、多分大丈夫だろ、多分」


「そうなんだ……」


 そのことに安堵する気持ちはあったが、安堵していられる状態ではないため、すぐに頭を切り替える。


「それで、キリオ、お前はどうしたいんだ?」


「どうしたい……」


「アイツのことを殺すのか? それとも逃げることに徹するのか?」


「……十中八九どころか、十中十、交渉は無理だと思う。私がレヴェイユ雑技団にいた頃、アイツと少しだけ会話したことがあるんだけど、かなり嫌悪剥き出しの対応されたし……」


「レヴェイユ雑技団……お前の経歴ホントどうなってるんだよ」


 リアンの感想を無視して、というか、考え込んでいるせいで聞こえていないため、結果として無視する形で、このように言葉を続けた。


「…………地の果てまで追い掛け回されると思うしな。個人的には殺すしかないと思う」


「じゃあ殺すか」


「殺しましょっか」


 躊躇混じりの斬緒の発言に、二人は即座に返事をする。


「ナルツィッセだっけ? アイツのこと、どこまで知っているんだ? あの異能力、雨以外の弱点ねぇのか?」


「まあ……あるよ。知っている限りの情報を話すけど、実際に目で見て確かめた訳じゃないから、あくまでも参考程度にね」


 彼の異能力について、知っている限りのことを話した。豪雨が弱点であること以外は、あくまでも文章や伝聞で得た情報であるため、本当かどうか分からない。


「割りと弱点あるんだな」


「それでも私は余裕で死ぬから……」


「参考程度とはいえ、情報がねぇよりはマシだ」


 豪雨が降らなければ、死んでいただろう。それぐらい強力な異能力でもある。殺傷能力という点では、かなり優れているのだ。


(だからやらかしまくっても、首が飛ばないって若葉わかばが言っていたんだよな……)


 あんなんだが、レヴェイユ雑技団内では、それなりに優秀と評価されている。誰かの上に立つという行為に、絶望的に向いていないせいで、年々給料は上がっているのに、地位だけは上がっていないが。


「俺なら殺されねえけどな。……炎への耐性も、普通の人間よりはあるし」


 再生能力もただの人間より優れているため、例え燃やされたとしても、火傷の痕が出来ることはないだろう。


 腹を焼いて止血した結果、腹に大きな火傷の痕が出来た斬緒と違って。


 パグローム研究所で全身に特殊な改造を施されているため、リアンもシェーレも一般的な人間より優れた肉体を有している。


 体力、筋力、治癒力、あらゆる点で、一般的な基準を遥かに上回っているのだ。


 だから炎を喰らっても、斬緒ほど問題にならないと伝えたかった。だが、伝える際、声に躊躇が出てしまったのは、パグローム研究所内での出来事や、それに結び付くようなことは、暗黙の了解でNGワード扱いされているからだ。あえて傷を抉ってくることがあるフェドートと違い、斬緒の方はかなり配慮してくれている。失言してしまうことは、偶にあるが。


「だから、その、あれだ……俺とシェーレの心配はそこまでしなくて良いぞ」


「全く気にしないっていうのは無理かな」


 炎ではなく、氷だが、彼と似た系統の異能力を持った相手と対峙し、一歩間違っていたら死んでいたかもしれない状況を経験しているため、どれだけ大丈夫だと言われても安心することが出来なかった。


「お前と炎野郎が知り合いで、炎野郎がお前の母親のことが好きで、結果、炎野郎はお前に対して狂った嫌悪感を抱くようになったことは分かったけどよ──分かったっつーか、分かったことにしたって感じだけど」


「分からなくて当然だよ」


 それが正常なのだ。

 正しい反応である。

 分かると言われた方が怖い。


「なんで炎野郎は、あんなに拗らせてるんだ?」


「……なんでと言われてもね。私にもよく分からないんだよね。強いて言うなら、相手が浮舟因幡だったからとしか言いようがないよ」


 彼が己の支配者カイゼリンだと思う相手が浮舟因幡でなければ、ここまで拗らせていないことは用意に想像出来る。


 言葉では説明出来ない異様なカリスマ性があると言えば、求心力だけはあるのだ──あの最悪の権化は。


「分かり易い言葉で表現するなら、私のお母さんに惚れて、惚れた相手のために尽くしていたら、ある日突然捨てられた挙句、行方が分からない状態になったかと思えば、どこの誰なのか分からない男の子供を産んでおり、気付いたときには死んでいた──その結果、元々拗らせていた感情を、更に拗らせてしまったって感じじゃないかな?」


「…………俺、ちょっとだけ炎野郎の気持ちが分かったわ」


「分かるんだ……」


 ある日突然、斬緒の行方が分からなくなったかと思えば、どこの誰なのか分からない男の子供を産んで死んでいた──と、考えた瞬間、リアンはナルツィセが拗らせてしまう気持ちが理解出来てしまった。


 分かりたくなかったが、分かってしまった。


「拗らせるのは分かるけど、私からしたら関係ないし、ぶっちゃけそんな理由で殺されたら堪ったものじゃないよ」


 こんなことで時間を潰している場合じゃないのに──と、心の中で悪態を付く。


「それはそう」


 実際に命を狙われている身からすれば、「思うだけなら個人の自由だが、実行するするんじゃねぇよ」という気持ちにしかなれない。そっちの事情なんか知ったこっちゃねぇ──でしかないのである。


 少なくとも、大人しく殺されてやる理由にはならない。


「あれッスかねぇ……僕の方が先に好きだったのに的な?」


「ヴァルテンの心情にピッタリな言葉だよ……それ」


「そんな言葉、どこで覚えて来るんだよ」


 少なくとも、パグローム研究所で聞くことはないだろう。きっとテレビかラジオで聞き齧った言葉を使ってみたくなっただけで、実のところ意味なんて良く分かっていないのかもしれない。


「僕の方が先に好きだったのに、別の男に取られた……しかも、別の男との子供を産んだ……だから、その子供である私のことが許せないって感じなのかもしれないね。お母さんは既に死んでいるから、お母さんに怒りはぶつけられないから、私に八つ当たりしているって部分はあるだろうね」


 浮舟因幡が生きているのであれば、このようなことにならないだろう──全く誠意が籠もっていなくても、彼女が謝罪の言葉を述べれば、ナルツィッセは斬緒の存在をすんなり許したのかもしれない。


「雨が止んだらさ、ヴァルテンはすぐに、こっちに来ると思うから……本当に、申し訳ないんだけど、アイツが来たら……お願い」


「ああ」

「はぁい」


 直後、雨が止む。

 雨が止むのを待っていたかの如く──キャメル色の髪をした男が、曲がり角から現れる。


「ヴァルテン……」


 ロイヤルパープルの瞳は、斬緒のみに向けられている。


 懐から取り出した黒縁の伊達眼鏡を掛けた。


 それから、「若いっていいよな」と、声を掛ける。


「体力もあれば、持久力もあって。お陰で、雨の中、わざわざこの近くまで、僕はバイクで移動する羽目になった。最悪だ。流石、あの人の娘だ。よ、ホント。瞬間移動の異能力が欲しいと思ったよ。その異能力を持つ相手はお前に殺されている訳だけど」


 彼の言う最悪は、最高と同義であり、褒め言葉である。


「無理するなよ四〇歳。もう若くないんだから。大人しく雑技団に帰って寝てろよ」


「お前を殺したら、そうするつもりだ。お前を殺したら、な」


 二人が話している間に、リアンは抱えている斬緒を地面に下ろす。


「言っても無駄だと思うが、一応言っておく。僕はその女を殺せれば、それで良い。その女を差し出せば、お前達のことを殺さない」


 その発言に、リアンは柳眉を逆立てる。


「それ結局キリオが死ぬじゃねぇか。意味ねえだろが」


「目的を達成した後ならともかく、達成前に死ぬは遠慮したい」


「目的?」


 斬緒の発言に反応するヴァルテンに、「お前には関係ねえよ」と、彼女は一蹴した。


 どうせ死ぬ相手の目的を聞き出す必要はないと思ったのか、彼は追求することはせず、「それもそうだな」と言って、手から炎を出す。


 その炎は、三人に向かって放つ。


 直撃することは避けられたが、近くを通っただけなのに、火傷するのではないかと思うほど、強い熱気を感じ、斬緒は冷や汗を掻く。


「シェーレ」


「分かってますよぉ、フィセルさん」


 自分より上背のある斬緒を軽々と抱え、そして人を一人抱えているとは思えないほど軽やかな足取りで、ナルツィッセに背を向けて走る。


「…………」


 逃さない。

 そんな思いを込めて、シェーレに向かって炎を放つが、あっさり避けられてしまう。


「そっちにばっか意識向けてんじゃねぇよ‼」


 ナルツィッセの心臓目掛けて、リアンは拳を繰り出す。


 炎の壁で拳は防がれるが、衝撃だけは伝わったらしく、痛みを感じたように、少しだけ顔を顰めていた。


「素手で炎に触れている癖に、何故余裕な顔をしていられるんだ。お前の異能力者か?」


「異能力者なのは当たっているけど、これは俺の異能力によるものじゃねぇよ」


 肉体を改造されたせいである。


「…………」


 納得していない様子だったが、突っ込んで訊いて来ることもなく、無言でもう一度炎を放つ。


 シェーレ相手に炎を放ったとき同様に、簡単に避けられてしまった。


「お前なんなんだよ」


 忌々しいと言いたげに端正な顔を歪めながら、ナルツィッセは問い掛ける。


「俺もよく分からねぇんだよな。生物学的には人間だろうけど」


 何を言っているのか分からなかった。けれど、理解しようとも思わなかった。


 ナルツィッセからすれば、どうでも良いことだったから。


 リアンを殺して、斬緒を殺す。

 それ以外のことは、どうでも良いのだ。

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