第二幕【奴僕奮励】①

「眼鏡くんはさぁ、死んだらどうするの?」


 いつだったか、浮舟うきふね因幡いなばが、なんの脈絡もなく問い掛けて来た。


 彼女は出会った頃から、ナルツィセのことを、眼鏡くんと呼んでいた。出会った頃は、眼鏡を掛けていなかった。ただ眼鏡が似合いそうという理由で、眼鏡くんと呼ばれた。


 彼が眼鏡を掛けるようになったのは、眼鏡が似合いそうだからと彼女に言われたからである。


 実際、伊達とはいえ、眼鏡を掛けるようにしたところ、「眼鏡くん、やっぱり眼鏡が似合うじゃん」と、珍しく本心から褒められた。


 そのことは嬉しかったが──一度として名前を呼んでくれなかったことを思うと、今は素直に喜べない。


 ファミリーネームの方で構わないから、一度で良いから名前を呼んで欲しかった。そう思うのは贅沢なことなのだろうか。


 もしもそのことを斬緒に伝えていれば、「名前を覚えるほどの価値を見出していなかった」という、彼が見て見ぬ振りしていた現実を叩き付けたと思われる。


「眼鏡くんが死んだら、じゃないよ? 私が死んじゃったら、だよ」


 その言葉に対し、「貴方が僕より先に死ぬ筈ある訳ないでしょう」と、返した。


 彼にとって、彼女が己よりも先に死ぬというのは、あり得ないことであった。あり得ない、支配者が、下僕より先に死ぬ筈がないと、このときは考えていた。


 下僕より先に死ぬ支配者を、沢山見てきたというのに。


「眼鏡くんはそう考えるんだねえ」


 何を考えているのか分からないニヤッとした薄ら笑いを浮かべたまま、続けてこう述べた。


「私の体はお世辞にも強いと呼べるものではないってこと、忘れてない? 人の心がないとか、人間とは呼べない最悪とか、色んな暴言を浴びているけど、一応生物学的には人間だよ?」


 楽観的な考えであると遠回しに非難していた訳なのだが、残念なことにと言えばいいのか、彼には少しも伝わっていなかった。


 因幡が死んでから何年も経過しているというのに、そのことに気付くことが出来ていない。


 盲目のまま、生き続けている。


 だからこそ、「一〇〇年の恋に落ちたので、雑技団辞めるね」と、サタナ・レーニョに言い放って彼女が雑技団を退職したことを、未だに信じることが出来ずにいるし──彼女の娘の存在を許容することが出来ないでいるのだ。


 自分の理想の浮舟因幡を守るために、斬緒を殺そうとしている──ことに、彼は自覚がない。


 中途半端に似ている偽物だから殺そうとしていると思い込んでいる。それも決して嘘ではない。彼女が全く母親に似ていなければ、きっと彼は殺そうとしていないから。だが、一番多くを占めているのは、己の理想を守る、だ。


 中身は似ていないが、見た目だけは似ている因幡の妹──出雲いずもに対しては何も感じないのに、どうして斬緒には常軌を逸した憎しみを覚えるのかを考えれば、分からなくもないというのに。


 ある意味では、彼の心情に一番理解を示し、共感するのは、浮舟出雲かもしれない。


 何故なら、彼女は因幡に対して猛烈なコンプレックスを抱いており、姉が亡くなってからもコンプレックスから開放されることはなく、今も呻吟しんぎんしているからだ。


 浮舟因幡という強烈な存在によって人生を歪められ、当の本人が死んだところでそれは変化しないという点では、二人は似ているのである。


 ただし、出雲は因幡のことが嫌いで、ナルツイッセは彼女のことが好きという──絶対に相容れることが出来ない大きな違いがあるが。


「要するに、お前は妄想の存在のために、こんな馬鹿げたことをしているのか」


 戦闘中、リアンが唐突にそのような言葉を投げ掛けて来た。


 シェーレと斬緒に逃げられてからは一言も言葉を発していないため、何故そのようなことを言われたのか分からず、一瞬だけ攻撃も手を止める。


 あくまでも一瞬だけであり、すぐさま攻撃を開始した。


「俺も人のこと言えねえか。アイツとキリオのことを重ねている訳だし……」


 攻撃を避けながら、彼は独り言を紡ぐ。


 中身がレーヴェン・トリーストに似ているからという理由で、斬緒に死んで欲しくないと思っているのだから、誰かを重ねているという点では、人のことは言えない。


 思わず重ねてしまうぐらい性格は似ているが、性質は似ていないと最近になって感じ始めているが──それでも重ねるのを止められないぐらいには、かなり似たところが多い。


「お前があの女のなんなのかは知らないが」


 炎を繰り出しながら、ナルツィッセは言葉を発する。


「命を賭けて守るほどの価値はないぞ」


「俺にはあるんだよ」


「あの女は必要なら人を殺すし、人を利用することに躊躇がない──僕が言えたことではないが」


「俺も人こと言えねぇな、その点に関しちゃあ」


 実際に彼女のことを利用した上に、殺す必要がない人間も殺したリアンは──ナルツィッセは、彼女の行いを非難することが出来る高尚な立場にいない。


「あの女は最悪の遺伝子を半端に引き継いでいるから、言い方は悪いが、ただ単に最悪なだけであるあの人よりも、遥かに面倒臭いぞ」


 フェドート・ドルバジェフの助言があるとはいえ、たった一人でレヴェイユ雑技団に深刻なダメージを与えたのだ。


 異常な両親の間に産まれ、異常な環境で育った結果──それなりに異常な存在らしいと言えばそうなのだが、そこは因幡の最悪さを引き継いだ結果とも評価出来るだろう。父親の災厄さも同時に受け継いだ結果でもある訳だが、それについてはナルツィッセは知らない。


 異常な両親の間に産まれ、異常な環境で育った普通の娘なら、こうなるだろうと言える存在に成った訳だが──親もしくは環境が普通ならば、本当に普通の娘になっていたのだろう。


 最悪と災厄に産まれたのに──普通になれる。


 あの母親の娘として産まれたのに、あの母親好みの普通さを持ち合わせているという事実が──ナルツィッセはどうしようもなく妬ましいのだ。


 鳥の子色の髪を持っていなければ、黒玉の瞳を持っていないのに、きっちりと彼女の最悪の一部を受け継いでいることも──彼女が気に入る普通さを持ち合わせていることも、全てが、存在が、とにかく妬ましくて、憎くて仕方がない。


「俺、レヴェイユ雑技団で何があったとか知らねえし……何もしなければ、アイツもそんなことしねぇだろうし、レヴェイユ雑技団側がなんかしたんだろ、どうせ」


 改造人間として、パグローム研究所の傭兵として、裏社会に全身を浸からせていた彼は、レヴェイユ雑技団の仄暗い部分を、多少だけだが知っている。


 レヴェイユ雑技団は、国という単位で見れば、確かに善側に属する組織だが、一個人という単位で見れば、善側の組織と首を縦に振ることは出来ない。


「否定はしないが、あの人の娘に産まれた以上、こうはもう仕方がないだろう。恨むなら雑技団ではなくあの人を恨むべきだ」


「だったら──お前もキリオを恨むの止めたらどうだ? キリオじゃなくて、キリオの母親を恨めよ」


「? あの人は何も悪くないんだから、あの人を恨む理由なんてないだろ」


「認知が歪んでいるにも程があるだろ」


「あの人は悪くない。これに関しては何も悪くない」


「お前の目は節穴か? お前の視野、どうなってんだよ」


「あの女が全て悪いんだ」


「言い方が浮気相手に対するソレなんだよ、アイツは浮気相手でもなんでもないだろ。お前よりもっと近い存在だぞ。娘だぞ」


「何を言っているのか分からない。そんなことは分かっている。何を分かり切ったこと言っているんだ?」


「俺もお前の視野と思考が何をどうなっているのか分からねぇよ」


 頭痛が痛いという感覚が、初めて理解出来た瞬間だった。


 情報を引き出すという目的がなければ、利用するという目的がなければ、基本的に対話せずに相手を殺したグランツ・テクストブーフは、どうやら正しいことをしていたらしい。


 少しだけのあの変態を見直した。


 斬緒に対して欲望全開で接したことは未だに許せないし、正直ドン引きしているが。


 きっとナルツィッセに何を言っても、幻想の浮舟因幡しか見ずに、浮舟斬緒が悪いという認識を変えることはないのだろう。


 人間、見たいものだけを見ると言うが、ここまで盲目を極めている者はそこまで多くない筈だ。


 これで実は結構いますと言われたら、リアンは頭を抱えただろう。


 こんな奴が世の中に沢山いるとか世も末だと、研究所にいたとき同様に、世を儚んでいた。


「話を戻すが──俺の感情を抜きにしても、あの女は危険だ。本当に危険だ。いつか大きな混乱をもたらす」


「だからなんだよ──俺にとっては関係ねぇよ」


「お前も死ぬかもしれない」


「アイツより強いから、アイツのせいで死ぬってことはねぇよ」


「世の中、戦闘力だけで生き延びることは出来ないぞ……あの人自身にはなんの戦闘能力もないが──あの人が負けるところを、僕は見たことがない。そして、あの人でさえ──死という生命の仕組みには抗えなかった」


 生きている限り、人は死ぬ。

 そのような当たり前の仕組みに、浮舟因幡ですら抗えなかった。


「死にたくなければ、あの女と関わらない方が良い」


「死にたくなければ──か」


 死にたくない。死にたいか死にたくないかで言えば、絶対に死にたくない。絶対に──死にたくない。


「まあ死にたくねえけどよ、今の日常を手放すぐらいなら死んだ方がマシだな」


 しかし、死ぬ方がマシだと思えるぐらい、今の日常を好ましく思っている。それはひとえに斬緒のお陰である訳だが、この男はきっと理解しないだろうと思い、リアンはそのことを口にしなかった。


 もしもここで、口にしなかった内容を口にしていたら──リアンからすれば意外なことになるが、彼は半分くらいは理解しただろう。


 例え死ぬことになっても、その人に付いていきたいという感情は、斬緒の母親である因幡に対して、彼が抱いた感情に似ている部分があるから。


 半分理解を示すと同時に、「お前はあの女をそこまで理解していないんだな」と、憐憫の情を向けられただろう。


 彼ほど斬緒と過ごした時間は長くないが、伊達に彼より二四年も長く生きていないと言うべきなのか──積み重ねた人生経験のお陰で、彼よりは彼女のことを理解していた。


 追求する気がないから分からないだけで、真剣に彼女の目的がなんなのかを考えていれば、彼は一時間ぐらいで細部まで導き出せるぐらいに──浮舟斬緒という人間のことを分かっている。


 因幡関係で認知が歪んでいる部分以外は、正しく認識しているのである。


 その因幡関係で認知が歪んでいる部分があることが、非常に厄介な訳だが。


 浮舟斬緒を殺すのを、止められない理由である訳だが。


「ああ、なんつーか、面倒臭ぇな」


 考えることが面倒になった彼は、そのように言葉を発した。面倒臭い。つまらない。退屈。なんとでも言えるが、これ以上、コイツと付き合いたくないと思ったのだ。


 炎を繰り出す彼と、洗脳した一般人にリアン達を襲わせた人間がおり、少なくとも彼の行動に加担している存在がもう一人いると踏んでいた彼は、可能なら聞き出せないかと思った。


 何か有益な情報を、話してくれるのではないかと思ったのだが、そのような都合の良い展開は起こらない。


 会話だけは、相手のペースに呑み込まれている。


 慣れないことはするものではない。パグローム研究所で思ったことと同じことを思う。ニュアンスはだいぶ違うが。


 なので、大胆な行動を取ることにした。


 その大胆な行動を今の今まで取らなかったのは、情報を聞き出そうという企みがあったからというのもあるが、単純に騒ぎが大きくなると後で面倒だからというのもあった。


 それ以上に、彼を相手にすることが面倒になったので──リアンは近くの建物を拳で殴る。


 思い切り加減せずに、殴り付けた。


 何をしているのだと思いながら、炎を彼に向かって放とうとするナルツィッセだが──数秒もしないで、そんなことをしている暇はなくなる。


 何故なら、リアンが殴り付けた建物が倒壊し始めたからだ。


 それはナルツィッセが恐れていたことでもある。火力を抑えていたのは、この異能力を使うと血液を消費するため、火力が強いとうっかり死ぬかもしれない上に、長期戦になったら耐えられないからというのあるが──建物が倒壊するかもしれないから、というのもあった。


 というか、それが一番の理由だ。


 火傷で死ぬこともなけれが、炎による酸欠で死ぬこともないが、血液に関しては工夫すればどうにかなるものの、建物の倒壊に関しては──過去にそれで一度死に掛けたことがあるため、建物が倒壊させないことに関しては、神経質なほど気を遣っていった。


「ああ! クッソ!」


 間近で倒壊する建物から逃れる術はなく、彼は抵抗する間もなく──瓦礫の下敷きになった。

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