第一幕【泥濘暗澹】②
圧倒的だった。
一目見たときから。
何もかも、破壊され、駆逐され、淘汰され、駆除され、殺され、作り変えられ、創り変えられ、生まれ変わらせた。
会ったことがなかった。
見ただけで、悍ましいと感じる存在に。
同じぐらい、執着したくなる存在に。
なんて酔狂なことなのだろうか。
なんて狂気なことなのだろうか。
なんて異常なことなのだろうか。
なんて愚昧なことなのだろうか。
このときの己は、畏れ、敬い、願い、縋り──そして恍惚としていた。
だからこそ、彼女に手が届かず、彼女の期待に至ることが出来ず、彼女の役に立てなかったことが、酷く悲しく悔しく憎たらしかった。
「アンタさぁ、自分のことを優秀だと思い込もうとしてるでしょ? 僕は優秀なんだ、あんな奴らとは違うんだ、必死にそう思い込もうとすることで、自分は落魄れていないって思い込もうとしてる。必死過ぎて泣けてくるねえ。本当は自分が落ちこぼれって自覚があるし、こんなことをすればするほど余計に惨めになっている自覚もある。なのに止められない。馬鹿だねぇ、ホント」
真っ正面から、薄々自覚していたが、見て見ぬ振りをしていた己の内心を、人に触れられたくない痛いところを、しっかりと言語化し、逃げ道を塞いで来た彼女を眺めながら、直感的に、本能的に、疑う余地なく、彼は確信した。
(この人が僕の、俺の──
これは理屈ではない。
一目惚れに近いと言えば良いのだろうか。それとも、恋に近いと言えば良いのだろうか。とにかく、彼女こそが己の人生の掌握する存在だと感じたのだ。
それが、致死に至るかもしれない猛毒であると分かっていたのに、彼は飲み込んでしまった。
彼女の駒となり、彼女に利用され、彼女のために生きて死ぬ──そのためだけに、彼女に付いて行ったと言っても過言ではない。
それぐらい、彼女のことを崇めている。
それぐらい、彼女のことを愛している。
最期まで利用してくれるのであれば、ボロ雑巾のような扱いを受けても良かったのに。
だが、それは、叶わなかった。
置いて行かれた上に、気付いたときには、彼女は一人地獄に旅立っており、しかもどこの誰が父親なのか分からない子供がいると来た。
このときの絶望を、
狂おしいほど絶望的な思いに苛まれたことは断言出来るが、それ以外の複雑怪奇な気持ちが
雑技団にやって来た彼女の娘を一目見た瞬間、否が応でも理解させられてしまった──この女は彼女に愛されている、と。
そして、間違いなく、彼女の娘である、と。
顔立ちが彼女と似ているという点を除いても、あまりにも似ているところが多過ぎた。
食の好みもそうだが、ジッとこちらを見ているときの表情、嫌いな相手に向ける目付き、考えごとをしているときの仕草──本当にそっくりで、髪や瞳の色が同じだったら、彼女のクローンが存在していると錯覚しただろう。
あの最悪さを真似することは出来ないだろうから、あくまでも錯覚であり、数分もすれば幻想だったと気付いてしまうだろうが。
彼女に良くに似た彼女ではない存在を見た彼は──猛烈な怒りに支配された。
こんなものを存在してはいけない。
そう思ったのだ。
浮舟因幡の遺品である彼女の娘は、この程度でしかないという事実が、どうして許すことは出来なかった。
半端に似ているからこそ、怒りを感じたのである。
誰がなんと言おうと──良く出来た偽物にしか見えない。
「そんな理由で狙われたら、こっちからしたら堪ったものじゃないよ」
太腿まである長い呂色の髪、紫水晶の瞳、垂れた目尻、眼帯で隠した左目、右目の下と左内太腿に一つずつある黒子──浮舟
彼の姿を認めた途端、
「私は偽物になったつもりなんてないし、お母さんもそんなつもりないと思うよ」
半ば脅される形で、屋上に移動させられた斬緒は、脅された人間とは思えぬ態度で反駁する。
「黙れ、お前があの人を語るな」
「私にとっては母親なんだし、語っても良いでしょ」
「
「だ、か、ら、贋作じゃないよ。贋作じゃなくて娘だよ」
「なら拙作か駄作だな」
「いや、強いて言うなら、忘れ形見ってところじゃないか?」
「忘れ形見という言い方は気に食わない。せめて遺物か遺品だろう」
「なんだその拘り……」
遺物遺品というより、遺児と表現した方が適切じゃないかと思う斬緒であったが、そんなことを口にすれば面倒臭い反応が帰って来ると思ったのか、他にも訊きたいことがあるのか、あくまでも心の中に思うに留めた。
「そんなことはどうでも良い。仮にも雑技団に所属しているお前が、独断で私のことを殺しても良いの? 雑技団から追われるんじゃない?」
「あの人がいないレヴェイユ雑技団に興味なんてないからな。別に構わない」
「ふうん」
「それより、歩く
歩く茫洋──フェドート・ドルバジェフの複数ある仇名の一つ。
「ドーチャとは今別行動なのよ。多分紅茶でも飲んでるんじゃないかな?」
「それは──良いニュースだ」
「私にとっても良いニュースだよ──こんなくだらないことに巻き込まれないんだから」
くだらないという発言に、彼は眉を寄せる。
「くだらないのは、お前の存在だろ」
浮舟因幡の贋作が、娘面して存在しているとしか思えない彼からすれば、圧倒的に彼女の存在の方がくだらなかった。口にしたら、彼女は贋作ではない、娘面ではなく、娘なのだと主張するだろう。
贋作ではない上に、娘であり、血が繋がっている愛された娘な訳だが。
「あの人なら、あのような男と一緒にいない」
「まあ、一緒にはいないだろうね……」
因幡はフェドートに大きなトラウマを残しているが、先に手を出したのは彼の方である。彼女基準で見れば、「そりゃあトラウマを植え付けるだろ」と、娘である彼女が得心してしまうほど酷いことをした。
この件に関しては、彼を擁護出来ない。全力で母親を支持する。
「お前と同じぐらいくだらない存在を歯牙に掛けたりしない」
「人間拗らせと無知がミックスすると、幻覚を見るんだね……」
浮舟因幡にとって、フェドート・ドルバジェフがくだらない存在である筈がない。歯牙に掛けないなどあり得ない。
「何か言ったか?」
「昨今の芸能人は大変だなって思っただけだよ」
娘だからこそ、浮舟因幡に大してなんの幻想も抱いておらず、彼よりはフラットな状態で見ることが出来るため──彼が知らない彼女を知っていることを抜きにしても、彼より彼女のことを正しく理解していた。
母親になる前、恋をする前の浮舟因幡しか知らない彼と、恋をして、母親になった浮舟因幡しか知らない彼女では、そもそも噛み合う筈がないのだが、彼は分厚いフィルターを通して見ているため、例え全く同じ情報を持っている状態で、同じ人間について語っていたとしても、全く別の人間を語っている状態になってしまうだろう。
すれ違いに気付かないまま会話をしている状態になる──とでも言えばいいのだろうか。まさにそのような感じだ。
「なあ、ヴァルテン」
目の前の人間のファミリーネームを呼ぶ。
「お前が母さんに執着していることは良く分かったよ。だけど、それと私は関係ない。お前からしたらくだらなくないんだろうけど、私からしたらくっだらねぇし、そんなんで命を狙われるなんて勘弁なんだよ。私のことが嫌いなのは別に構わないし、それ自体は仕方がない。生理的に受け付けない奴っていうのは、どこにもいるから。さっきも言ったけど、それとこれは関係ないでしょ」
「ベラベラ喋るなお前」
「命を狙われているんだから、そりゃあ多弁にもなるでしょ」
「時間稼ぎでもしているつもりか? トイレに行った二人が来るのを待っているんだったら無駄だぞ」
共輪のスイッチが入っていることに気付いていないため、彼はわざわざ解説しなくても伝わっていることを、煽るように解説した。
「……二人のところにも人をやってる? 人員を裂くだけだから、時間稼ぎにしかならないよ」
「それ、字が違わないか?」
「合ってるよ。特にシェーレの方はそう」
リアンは時と状況次第では裂かないでくれるだろうが、シェーレは時と状況など考えず、裂いてしまうだろう。
リアンが一緒にいれば、止めてくれるかもしれないが、あまり期待出来そうにない。
人を殺すこと自体には躊躇がないからだ。
斬緒を殺すことに躊躇したのは、レーヴェンに似ているからであって、人を殺すという行為に躊躇した訳ではない。
「そうかよ。だけど、アレらは時間稼ぎ。どうなっても構わないさ。というか、お前は、二人が殺される可能性は考えないんだな?」
「そう簡単に死ねるなら、苦労していないよ。あの二人は」
「……その自信がどこから来るのかは分からないが、まあ良い」
彼は、ポケットに突っ込んでいた手を出す。
その手は、炎を纏っていた。
ナルツィッセ・ヴァルテンの異能力──
「それ、死ぬほどおっかない異能力だよね。ええっと確か、身体から火を出すことが出来て、火の玉を放ったりも出来るとか。精神状態にも左右されるんだっけ」
「それと──お前を火達磨にすることが出来る」
異能力を使って人を殺した現場を目撃されると面倒な上に、他に被害が出てしまう可能性が高い異能力だから、わざわざ脅してまで、彼女を屋上に移動させたのである。
「それだけじゃない。本気を出せば、天候すら変えられる」
強制的に、天候を雨から晴れに変化させることが出来る。
「ただし──それにも限界があるんだよね」
スッと、斬緒は真上を、空を指差す。
「こんな風に、バケツを引っ繰り返したような雨は、どうにも出来ないんでしょ」
ポタポタと雨が降ったかと思えば、一気に大量の雨が降り出す。
「っ⁉」
「天気予報を聞いていなかったみたいだね」
「嘘だろ!? こんなに雨が降るなんて聞いてないぞ⁉」
「小雨程度しか降らないって言っているところもあったけど、この通りバケツを引っ繰り返したような雨が降るって言ってたところもあったよ。テレビではどう言ってたのか知らないけど、ラジオではそう言ってた」
“なんとなく恥ずかしくなり、シェーレの髪を梳かし終えたタイミングで、彼女は適当な理由を口にして、今日の天気について喋るラジオを消してから、部屋を出て行く。”
〈第一幕【泥濘暗澹】①より引用〉
「……クッソ」
悪態を付くナルツィッセだが、すぐに平静を取り繕う。
「だからなんだって言うんだ? マルグリットが雇った奴らと違って、僕はカウンターアイテムを持っているんだ。お前がレヴェイユ雑技団から借りパクした道具を使ったところで──」
「お前は殺すことは出来ないし、寧ろ死ぬ」
斬緒がレヴェイユ雑技団から盗んで私物化したアイテムの中で、唯一カウンターアイテムがない共輪と違い、相手を攻撃することを目的に作られた武器には、カウンターアイテムや防御アイテムがある。
浮舟因幡も浮舟斬緒も知らないマルグリット・オペラシオンと違い、浮舟因幡も浮舟斬緒のことも知っているナルツィセ・ヴァルテンは──そういうところは、しっかりと対策している。
「そうだ。異能力が使えない以上、僕に勝ち目はないが、しかし負けることもないんだ」
彼の身体能力はそこまで高くない。戦闘では異能力頼り。武器を扱うセンスが皆無なせいで、銃やナイフで応戦するということも出来ない。しかし、彼女が雑技団から持ち出した武器や、ただの銃や刃物出でダメージを負う心配をしなくても良い。
勝つことは出来ない、負けることもない。
「ここから、お前が勝利するということも──」
ない──と、彼が言い切る前に、彼女は回れ右して逃げ出した。
因幡の三年若く、斬緒より二四年老けている彼は、端的に言えば年相応の体力をしており、純粋な脚力と体力では、若いだけであって、斬緒の方に軍配が上がる。
そのことを理解している彼女は、勝ち負けがない勝負をするぐらいなら、確実に逃げれるのだから逃げようと考えたのだ。
「チッ……」
服が水を吸い、重りを羽織っている状態で、体力脚力の面で優っている相手を、視界に悪い雨の中追い掛けることはしなかった。
絶対に追い付けないのに、無駄な体力を消費して追い掛ける必要性はないと判断し、着替えて雨が止むことは待つことにする。
「どうせ逃げられっこない……あの女の執念は異常だからな」
そう言って、雨で濡れたキャメルの髪を掻き上げた。
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