第三幕【相互厚誼】

 マルグリット・オペラシオンは、本来死んでいる筈の存在を、双眼鏡越しに発見したことで、依頼が失敗に終わったことを理解した。


 ここは一旦引いて、別の手段を講じよう──と判断し、一度レヴェイユ雑技団に戻ろうと足を動かす。


 マルグリットにこの任務を与えた上司も、成功するとは思っていないだろう。成功したらいいな程度にしか思っていないだろう──と、分かり切っているからこそ、このような態度を取っていられる。


 任務が失敗したというのに余裕な態度でいるのは、失敗が目に見えていたのと、失敗したとしてもそこまで叱責されないことを、正しく理解していたからだ。


(傷一つぐらいは付けられると思ったのだけど、見た感じ、怪我をしている様子はないわね。全員返り討ちにしたのかしら?)


 まさか──人違いをした挙句、人違いした相手に殆どが殺されたとは、夢にも思わないだろう。


 途中までは町中を歩いていたが、ある地点まで移動すると、人っ子一人いない道を歩く。レヴェイユ雑技団が用意した帰宅用の移動手段を用いるために、人気の多い場所を避けようと思っての行動だったのだが、これが間違いだった。


「あー? みぃ〜っけ?」


 バラバラの長さをしたランプブラックの髪と、ボトルグリーンの瞳、そして幽鬼のような雰囲気が特徴的な少女が、進路を塞ぐように曲がり角から現れた。


 しかも、その両手には、内側にも外側にも刃が付いた鋏を持っている。


「えへへへ」


 と、笑ったかと思えば、次の瞬間にはマルグリットに飛び掛かっており、彼女が声を発する間もなく、全身を切り刻む。


 時には突き刺したりして、とにかく彼女のことを攻撃する。


 一分もしないで、マルグリットは絶命し、数分彼女の遺体を眺めた後、用が済んだと言わんばかりの態度で、少女──シェーレ・シックザールは去って行く。


 シェーレは人間と形容するより、動き思考する災害のような存在と形容した方が正しいぐらい、己の意思や自我が希薄だ。


 しかし、感情がない訳でも、思考しない訳でもない。


 感情があるから、斬緒きりおに懐く。

 思考をするから、人気のないところで殺す。


 何故、斬緒に懐くのか、それは誰にも分からない。誰かの心を推し量るなど、ただの人間には過ぎた行いだが、それを抜きにしても、彼女という人間は、あまりにも難解で、苛烈なまでに不可解なのだ。


 人の心を読むことは出来なくとも、それに近いことが出来るフェドートですら、彼女に関しては何も分からないと断言している。


「予想することは出来ますが、分かることはありません」


 ということらしい。


 マルグリットを殺したシェーレは、フェドートがいる場所に戻って来た。そして、ある人物が帰って来るのを待った。


 鋏を仕舞い、大人しく椅子に座り、ただただ待った。


 大人しく椅子に座っているシェーレを気味悪く思いながら、しかし声を掛けて面倒事になるも嫌なので、リアンは早々に奥に引っ込んだ。


 何せ彼女は、お互いに有利も不利もない状況で──リアンのことを殺せる可能性が普通に存在している人間なのだ。


 仕舞っている二本の鋏がいつ取り出されるか分からない上に、本当に言葉が通じない相手であるシェーレと、コントローラーになってくれる斬緒がいない空間で、一緒にいたいとは思わない。仕事とかなら割り切れるが、これで仕事ではないので無理だ。


 二人共、斬緒に拾われ、フェドートの世話になっている身なので、完全に離れることは出来ないが、同じ部屋にいないぐらいのことは出来る。


 なので、彼は、隣の部屋に入り、斬緒がこの部屋に入ってくることを、待つことにした。


 七〇分くらい経過した頃だろうか。


「ただいま」


 斬緒が帰って来た。

 ボロボロの状態で。


「おかえりなさい」


 ドーチャは言葉を返した。


「おや、かなり酷い状態ですね。明日病院に行きますか?」


「そうさせて……今日はもう眠いから」


「そうですか。お茶でも飲みますか? それとも寝ますか?」


「お茶飲む……紅茶が良いなあ。後、なんか食べたい、お腹空いた。いっぱい食べたい。がっつり食べたい」


「そろそろお前が帰って来ると思って色々用意しておきました。好きなだけ食べなさい」


「食べる……食べて寝る」


「寝る前に、歯は磨いて下さいね」


「うん」


 ファーストフード店でテイクアウトした品々を持って来ると、斬緒は机の上に広げ始める。


「シェーレはご飯食べた?」


 その問いに、彼女は首を縦に振る。


「リアンは?」


 彼女は首を縦に振る。


「そうなんだ。オッケー」


 二人が食事を取ったことを確認すると、チキンナゲットを食べる。美味しかった。


「リアンどこにいるの?」


 シェーレは隣の部屋の扉を指差す。


「ベッドがある部屋か。寝てるのかな? まあ、いるならなんでもいいんだけどさ。あ、そういえば、シャワー浴びた?」


 彼女は少し間を置いてから、首を横に振る。


「うん、じゃあ、体洗って来て。私、この状態だからさ、私がシャワー浴びてからだと時間掛かるだろうし」


 彼女は首を縦に振り、服を取りに行くために、リアンがいる部屋に入った。三分もしないで部屋から出ると、服とタオルを抱えてシャワールームに足を運んだ。


「何があってそんな怪我をしたのか、大体想像することが出来ますので、それについては訊きませんが──」


 二人になったタイミングで、フェドートは話し掛ける。


「どうして逃げなかったのかについて訊かせて下さい。逃げようと思えば逃げられたでしょう? お前は足が速いですし、そもそも逃げ方については多少とはいえ覚えがあるのですから、不可能ということはない筈です」


「まあ、そうなんだけどさ……」


 彼女は一呼吸置く。


「けど、心配じゃん。ドーチャなら多分大丈夫だと思うけどさ──万が一ってのが、世の中にはあるんだし」


「絶対に大丈夫であると、お前は知っているでしょう? それに、僕が死んだところで、お前はそこまで困らない筈です。お前は僕が死んでも生きていく手段をいくつか有しているのですから、死んでくれても問題ないでしょう。お前の目的を達成するには、僕という存在はいた方が良いのでしょうが」


 生きている方が、都合が良いのだろうが、死なれたら絶対に困るという訳ではない。


「さっきも言ったけど、万が一があるから」


 それに──。


「困る困らないとかじゃなくて、私はドーチャに死んでほしくないんだよ。ドーチャに死んで欲しくなかったから、アイツらを殺した。それだけ」


 何を考えているのか分からぬ表情になったかと思えば、彼は五分間黙り込んだ。指先一つ動かさず、眉一つ動かず、瞼以外動かさず、ジッと、桔梗の瞳で斬緒を見詰めたまま黙った。


「お前くらいですよ──僕のことを本気で、心の底から心配するのは」


 ピクリッと愁眉しゅうびを動かしたかと思えば、感情を読み取ることが出来ない声を発する。


「どうして、そこまで心配するのですか」


「ん?」


「そんなことをしなくても大丈夫だと、今はもう知っているじゃないですか」


「えぇ……ただ心配だからじゃ、駄目なの?」


「駄目です」


 きっぱり言われた。

 納得出来る答えを用意しろということらしい。


「…………ドーチャのことが好きだからじゃ、駄目なの? 好きな相手心配するのって普通のことでしょ?」


 改めて口にするのは恥ずかしい。しかも、本人の眼の前でとなると。


「………………」


 目を少し瞠らせ、愁眉を大きく動かすと、口元に手を当て──それから、視線を下に向け、顔を僅かに俯かせる。


「変わった子ですね」


「そりゃあ両親がアレだからね。養父もだいぶアレだし」


「僕とお前の関係を、どう思っているのですか? 虚心で答えなさい」


「飼い主と飼い犬じゃない?」


「そんな露悪的な表現をする癖に、僕のことを好きだと言うのですね」


「それとこれは別じゃん? 大好きなものは大好きなんだから」


 それに──と、続けようとした言葉は呑み込んだ。言ったところで、どうにもならないからだ。


「……そうですか」


 聞かせる気があるのかないのか分からない声だったが、二人しかいない静かな空間だったので、ちゃんと斬緒の耳に入った。


「馬鹿ですね、ホント」


 胸の前で手を組んだかと思えば、組んだ手の上に額を乗せる形で俯くと、吐き捨てるようにそう言い放つ。


 呆れているというより、どこか困っているといった感じだ。


「ねえ、斬緒」


「何?」


「目的があるのでしょう?」


「うん」


「目的があるのなら、そんな馬鹿なことは止めなさい」


「うーん……時と場合によるかも」


「はあ……」


 珍しくフェドートは溜息を吐く。

 珍しく本当に困っているらしかった。


「僕はお前のことが理解出来ません」


「私もお前のことが理解出来ないよ」


「僕のことをそんな風に好きだというのは、お前ぐらいです」


「うん、そうだろうね」


「僕の身を、利害なく案じるのは、お前ぐらいです」


「知ってる」


「どうせお前が死ぬことはないだろうと思っていましたが──そう頻繁に怪我をされるには困るのですよ」


「まあ、そうだよね」


「だから、馬鹿なことはやめなさい」


「だから、時と場合によるんだって」


「じゃあ出来る限りでいいから、怪我しないで下さい」


「分かった」


 話が終わり、食事を終えた彼女は、ふと母の姿を思い浮かべた。


 幻影の母親を、アルマ・コラソンを殺すことが出来たのは──偽物の母親であって、彼女の母親本人ではないから。


 ただ勝てないだけの存在でしかないからだ。


 絶対に勝てない存在である偽物の母親を殺すことは出来るが、本物の母親なら殺すことは出来なかった──と、思う。


 大好きだから。

 母親だから。

 自分を愛してくれたから。


 相容れないし、理解不可能だし、分かるようで分からないし、正直いない方が世界のためだと思うが──それでも、家族でいたかった、母娘でいたかった、一緒にいたかった。


 叶わなくて、敵わなくて、適わない願いだが。

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