第二幕【究竟憂患】③

 スパティウムが亡くなったことで、異能力が解除されたのだろう。気付けば、斬緒きりおは、人気のない路地に立っていた。少し離れた位置に、彼の死体も存在していた。


 共輪きょうりんのスイッチは切った。

 頭痛が酷くなり、これ以上使用するのは限界だと、本能が警鐘を鳴らしたからだ。


 傍目からは寝ているように見えるスパティウムの死体だが、呼吸や脈などを確認されたら死んでいることは分かってしまう。


 死体と一緒にいるところを誰かに見られたら、面倒なことになってしまうため、契合棹けいごうとうを拾い上げると、すぐさまその場から離れる。


 人に姿を見られたりしないように。

 防犯カメラに姿が映らないように。

 慎重に。


 人混みに紛れるかどうか迷ったが、人気のない場所に行くことにした。今の己はかなり目立つ上に、依頼人がレヴェイユ雑技団の者である可能性が高いからだ。


 フェドートを殺そうとする人間が他にいるかどうか、この時点の斬緒は分からない──だが、万が一、まだ存在している場合、一目を気にせず動けるところである方が良いだろうと、判断したのだ。


 レヴェイユ雑技団は、ローゼリア王国にある公の組織。


 雑技団の人間を騙っているのか、雑技団の人間が組織の名前を利用して個人的に依頼しているのか、雑技団が組織として依頼をしたのか分からないが──もしも組織として依頼している場合、十全にバックアップを受けている可能性があり、最悪の場合は人目を気にせず、殺戮行為に及べる可能性がある。


 そのことを知っている斬緒は、せめて人気のない、民間人を巻き込まない場所で戦おうと思ったのだ。


 彼女の予想は当たっている。


 出来るだけ穏便に、という注文を受けているから、人目のあるところで殺すのは避けられていたが──空間製作の異能力者が死んでいる以上、その出来るだけを守るのは難しい状況になり、それならば、ある程度民間人を巻き込んででもフェドートを殺そうと企んでいた。


 最後の一人、アルマ・コラソンは企んでいた。


(あー、やっっべ、マジで動きたくねえ……)


 そんなことを知らない斬緒は、可能ならば横になりたいとか思いながら、この後どうしようと思考を巡らす。


 這う這うの体で人が居ない場所まで逃げ、ボロボロになった体を労ることなく、動き続けているため、今なら幼児相手にも殺されてしまう自信しかない。


 全部を放り出して、逃げる体力さえないのだ。


 人気のない大量の石が敷き詰められた河原で、大きな溜息を吐く。


「ボロボロじゃん」


 いつからそこにいたのか気にならないほど、その声を聞き、その姿を見た瞬間──驚愕してしまう。


 腰まである鳥の子色の髪。

 全ての闇が詰まった黒玉の瞳。

 自分と瓜二つの顔立ち。

 邪悪という言葉が肉体を得ているとしか思えぬ雰囲気。


 彼女が良く知っていて、良く知らない──唯一の人物。


「お母、さん……」


 あらゆる人間から最悪と称された──女。

 彼女の、世界でたった一人の母。

 ここにいる筈がない存在。


「お母さん……なんで……」


「私、アンタのお母さんじゃないわ」


 母の声で、母の口調で、否定される。


 絶対に、彼女が、他の者と間違えることのない声と口調で、眼前の人物は否定する。


「けど、アンタには、私が母親に見えているんだねぇ。そっかそっか」


 ポケットから小さな鏡を取り出すと、「アンタとそっくりな顔しているわねえ、今の私。そっかぁ。なるほどねえ」と、呟く。


相手の姿に変身しているんだけど──あのフェドート・ドルバジェフも、母親には勝てないのか。面白いことが分かったよ。ふふ、なるほどね」


 娘のことを赤の他人と間違えるほど薄情な人間ではないと知っているため、その発言を本来不自然なものと感じなければならないのだが──斬緒は全くそう思えなかった。


 違うとハッキリ認識しているのに、眼前の人物を母と思ってしまっている。


(ヴィオレッティ──と、私が思い込んでいた相手に近いかも)


 あくまでも──異能力が、だが。


(ドーチャなら、絶対に自分が勝てない人物と聞いて、誰を思い浮かべるかな──案外、私と同じかも)


 過去に一度、根負けして、斬緒の母の願いを聞き入れたことがあるそうだ。


 その過程で散々トラウマを植え付けられたらしく、名前を聞くだけで顔を顰めるほど嫌悪している。彼が特定の個人に嫌悪感を抱くのは、かなり珍しいことなので、最初は吃驚した。だからという訳ではないが、気を遣っている訳ではないが、彼の前では自身の母親の話は、なるべくしないようにしている。


「私の異能力は謂わば真似っ子。異能力とかはコピー出来ないけど、スペックとかは本人と同等なんだよね。姿も声も口調も頭脳も本人と同じ。結構凄いでしょ?」


「ああ、ホント……母さんそっくりだよ」


「いいことを教えてあげる──これで最後だよ、アンタを殺そうとする人間が現れるのは」


「それはアンタが私のことを殺すから?」


「それもあるけれど、単純に他のメンバーが死んだり離脱したりして、私しかいなくなったからよ。まさかユーベルが離脱するなんて、アンタ、アイツに何したの?」


 ユーベルと聞いて、一瞬だけ、誰のことを言っているかと思ったが、すぐに漆黒の髪をした不健康な外見をした男を浮かべる。絶対に殺されると思った相手だ。あくまでも、絶対に殺されるであって、絶対に勝てないではないから、眼の前の人物は、彼の姿になっていないのだろう。


 今お前が変身している奴が原因だぞ──と、言おうかと思ったが、何故か言う気になれず、「さあね?」と答える。


「ユーベル。ユーベル・シュレッケン。アイツは人格的に問題がある男だったけど、仕事はそれなりに出来る方だったからねえ。いなくなったのは残念だったわ。一応一言連絡を入れてからいなくなってくれただけありがたいと思うべきなんだろうけど……あーあ、マァジ残念」


 人格的に問題のある男──彼以上に人格的に問題があるであろう母の姿を言われると、なんだか違和感がある。


 表情まで母そっくりだから、本当に母がそこにいるみたいに思えてしまう。


「ホント残念だわぁ、もう。うふふ」


 実際の彼女(もしかしたら、彼女ではなくても彼かもしれないが、今の姿は、どこからどう見ても女性であるため、彼女と表記する)は、このような喋り方をする人物ではないだろうが──笑い方までそっくりであるため、母親が自分に会いに来てくれたのではないかと錯覚しそうになる。


 本当に母がここにいるなら、一目見ただけで、当然フェドートではないと気付き、斬緒と呼ぶだろう──そういう違いがあるお陰で、完全に母だと思い込み、抱き着こうせずに済んでいるが。


「本当に運が良いんだねえ」


「悪運が、だけどね」


 最悪と呼ばれた母も悪運が強かったので、遺伝かもしれない。


 死因が病死であることは、彼女の悪運の賜物だろう。間接的に殺されたようなものだが、直接的に誰かに殺されなかったのは、彼女の数々の悪行を思えば、かなり幸運なことだ。


「アンタには通用しているみたいね、この真似っこ。過去に三人だけ、これが通用しなかった相手がいるから、内心では不安だった部分はあるんだけど──結局はあのフェドート・ドルバジェフも人の子ってことね」


 自分のせいでフェドートの評価が落ちているのは複雑な気分だ。面白おかしく笑いたくなる気持ちと、ちょっと申し訳ないという気持ちが同居している。


(アイツも一応は人なんだろうけど──人の子って表現するのは躊躇われるなあ)


 何せ彼は、過激な行いも辞さないテロリスト。血も涙もないと言われても否定出来ない。


「ねえ、フェドート・ドルバジェフ、アンタから見た私はどう見える? 本物そっくり? さっきそっくりって言ってくれたけど、今もそう思うのかな?」


「──そっくりだよ」


 本当にそっくり過ぎて、涙が出そうだ。

 偽物だとすぐに分かっていなかったら、確実に泣いていたと思えるぐらい──よく似ている。


「それだけ精度が高い真似っこなのに、通用しなかったのよねえ──胡散臭い雰囲気を醸し出している白髪緑眼の背の高い男で、あー、えっと、にこなんとかって名前の奴。ヴォルデコフツォ家の御令嬢も駄目だったし、ペリコなんちゃらっていう男も駄目だったわぁ」


「完璧じゃないんだね、その異能力も」


「そうね。あのとき思い知ったわ。ああいう連中もいるんだ〜って。中々面白い体験だったよ」


 嬉しそうな目付き、本心から愉快そうな口元、今にも笑い出しそうな声──彼女が想像し得る母親の態度と、全くズレがない。


 幻想の母をジッを見詰め、それから、彼女はゆっくりと目を閉じ、思い出の母の姿を脳裏に思い浮かべた。


 母と過ごした時間に反し、覚えていることはあまり多くない。記憶の窪地や谷間を必死に探しまくっても、思い出せる記憶は欠片を無理矢理繋ぎ合わせた継ぎ接ぎなもの。


 もしも母がここにいたら、こんな風に話し掛けてくれるのではないかと──想像してしまう。


 あり得ないと分かっていても、考えずにはいられない。


 意味のないことを考えたところで、そこから意味のあることが生まれることはないと、とっくの昔に学んだ筈なのに。


 IFの己と母の姿を思い浮かべ──「ああ、こうなれたら良かったのに」と、言いたくなった。


 母と過ごしていた日々が恋しいかと言えば、イエスとしか答えられない。


 らしくもない郷愁が胸を満たす。


(もし、母さんがここにいたら、昔の私を懐かしんでくれたりしたのかな?)


 例えあり得ない未来であっても、考えてしまうのが人間という生き物らしい。


 今の生活に不満がないと言えば嘘になる。

 嫌という訳では──ないとは言えない。

 正直、こんな生き方をしないで済むのならば、それが良いと自覚しているからだ。


「さてと」


 母の姿をした誰かが足を動かす。


「お喋りはここまでにしよっか」


 それは、戦闘の合図だった。


「自分の中の幻影に殺される気分を味わって死んでよ」


 お母さんらしい台詞だな──と、思いながら、昔から存在する攻撃を行った。


 それは、非常に単純なものだ。

 拾った石を相手に投げた。

 真っ直ぐに、一直線に、彼女に向かって投げ付けた。


 それから大きめの石を手にすると、それで相手を殴り付けた。片手でしか使えないため、片手で持てるサイズの石しか使えなかったが、それでも充分だった。人間を攻撃するには充分だった。


 契合棹を使えば、確実に殺されただろうが──あえて彼女はそうしなかった。


 この武器は、良くも悪くもぴったり攻撃することしか出来ないため、じわじわ苦しめるのには不向きだ。


 こんな気分にさせた奴があっさり死ぬのは腹が立つと思った斬緒は、別の手段で相手を攻撃することにしたのである。


 母の姿をしたものを殺すのに、躊躇ちゅうちょしたからではない。


 寧ろ、余裕で殺しに行ける──何故なら、彼女が本当に斬緒の母ならば、絶対にこの程度では死なないからだ。


 斬緒が投げた石は、斬緒が殴り付けるのに使った石は、全て幻想の母に命中する。


「ああああ! ああ! ああ! あああああああああ! ああああああ! あああああ!」


 石が体に当たる度、情けない悲鳴を上げるアルマ。


 息も絶え絶えになった頃、斬緒は石で殴ることをやめた。


「何故だ、何故なんだ、どうして」


 瀕死になり、声を上げることすら辛くなったというのに、彼女からすれば理不尽で、あり得ない状況に、必死に抗議しようと、喉を酷使する。


「私の真似は完璧だった! お前には通用していた筈だ!」


 それは最早、斬緒が知っている声と姿ではない──どこの誰なのか分からない女性の声と姿。


「勝てない相手を選んだからだよ。あくまでも勝てないだけで、殺せない訳じゃないし、確実に私を殺せる対象って訳じゃあない。つまりはそういうことだよ」


「へ、屁理屈だ! 屁理屈だそんなのは!」


「屁理屈も理屈の親類だし、そもそも、その屁理屈で死に掛けているのはどこの誰だよ。説得力って知ってる?」


 彼女の母親の真似をしたことで、彼女の母親の影響を受けてしまったのは、何も彼女だけではない──真似をしている本人もそうだ。


「勝てない相手にしたのは、私に負けない──要は殺されないようにってことなんだろうけど、私を確実に殺したいなら、私を確実に殺せる相手の真似をするべきだったんだよ。確実に殺せる──だと、殺しと勝敗は別者だから、殺せるからといって、私が勝てないとは限らない、つまり、自分が怪我を負う可能性があるとか思って、避けたんだろうけど、勝てない相手になれば、傷一つ負わずに済むって勘違いしたんだろうけど、それは間違い。少なくとも私相手には通じない」


 綿のように疲れているため、正直喋るのもしんどかったが、言ってやらねば気が済まないため、彼女は滔々と喋り続ける。


「あのね、私はお母さんに勝てないと思ったことはあるけど、殺されると思ったことは一度としてないんだよ」


 最悪な人間でも、最低な母でも──娘のことは本当に大事にしていた。


 掠り傷であっても、娘が怪我をすればしっかり心配する母親だった。


「お母さんは絶対に私を殺さないの──私の友達を死に追いやっても、私の人生の一部を滅茶苦茶にしても、私の生活環境を破壊しても、私の幸せをぶち壊しても、私を不幸に追い込んでも、絶対に私を死なせることだけはしなかった」


 現に、偶然という形であれ、今回彼女は母親に命を助けられている。


 ユーベルに殺されなかったのは母のお陰だ。母がいなければ、彼女は確実に、彼の手で葬られていた。


「あの人は私を傷付けることはしても、命を奪うことはしないんだよ──私のお母さんの真似をした時点で、お前は私を殺すことは絶対に出来なかったよ。心理的な働きまでは真似していないんだろけど、それでも絶対に無理だよ」


 フェドート・ドルバジェフ本人ならば、狙い通りの効果を発揮しただろうが──浮舟斬緒相手では、そうはならなかった。


「だって、私、お母さんの大事な娘だし」


 きっと母は、娘に死んで欲しいと思ったことがないのだろう。一瞬たりとも考えたことがないのだろう。


 母のせいで最悪な思いをする度、本気ではないが、嘘ではない気持ちで、死ねと思ったりした彼女と違って。


「私のお母さんはね、最悪な人間だけど、最悪な母親ではなかったのよ──どれだけ最低でも、私のことは大事にしてくれたよ」


 ありとあらゆる最悪を抱え込んでいた母の内面など、推し量れない部分が殆どだが──それでも、娘である己のことを大事に思っていたのは、一度として疑ったことがない。


「本当に最低としか言いようがないことをされても、本気でお母さんのことを嫌いになれないぐらい、大事にされた。だから、私の人生そのものは最悪になっていない。最悪の娘として、最も最悪の近い存在でありながら、最悪になっていないのは、そういうことなんだよ」


 一時的に最悪な気分になっても、永続的に最悪な気分になることがないのは──愛されていたからだ。


「こんな理屈を他人に説明したところで、理解されるとは思っていないけどね」


 石を持った腕を、明確な意思を持って、思い切り振り被る。


「お母さんが私のことが大好きだったように、私もお母さんのことが大好き」


 どんなに酷い目に遭っても。


「私がお母さんのことが大好きって気持ちは変わらなかった──これからもずっと変わらない、これは断定出来る」


 それぐらい、お母さんのことが好き──彼女は石を持った腕を振り下ろした。


 アルマは完全に息を引き取った。


 鼻血を流し、痣を作り、片腕が骨折し、左側の肋骨が折れ、腹を刺され、火傷を作り、しんどくなるぐらいに頭痛を味わい、痛みという痛みを体験させられた浮舟うきふね斬緒。


 不当な代償を払い、命からがら生き延びたというのに──あまりにも細やかで、とても割に合わない報酬しか得られなかった。


 だけどそれは──掛け替えがなくて、何にも代え難くて、お金や寿命や人生よりも貴重な報酬だった。

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