第一幕【灼熱汲々】②

 マルグリット・オペラシオンの依頼を受けて、フェドート・ドルバジェフのことを殺そうとしている人間は、既に死亡したカーサを含め、六人存在している。


 カーサが他のメンバーに、誤った情報を伝えたせいで、皆、斬緒きりおのことをフェドートと勘違いしている、幸か不幸か。


 もしも五人が結託して、斬緒のことを殺そうとしていれば、彼女はあっという間に死んでいただろう。


 不幸中の幸いと呼ぶべきか、彼ら彼女らは、仲間であると同時に競争相手だった。


 マルグリットは、前金は全員に同じ額を支払っているが、依頼を達成した分の金は、殺した相手に渡す──と、依頼した相手全員に伝えた。競わせたのは意図しての行いだったのだが、それが良かったのかと言えば、そんなことはない。相手がフェドートであったのならば、話は違ったのだろうが。


 競わせようとした結果だけを述べると、相手を出し抜いてフェドートを殺そうとするチームが出来上がった。


 最低限協力するものの、あくまでも最低限であり、お世辞にも良好な関係を築いているとは言えなかった。


 ただ一人、そこまで報酬を気にしていない男がいたが、その人物は先天的に協調性というものがない。協力しないことで足を引っ張らずに済んでいるという状態だ。


 カーサの次に、フェドートと勘違いされている斬緒のことを発見したのは──報酬のことをそこまで気にしていない協調性が全くない男、ユーベル・シュレッケンだった。


 漆黒の髪と、ハイライトのない濁った錫色の瞳が特徴的な、肌が青白く、痩せている、不健康そうな外見をした彼の存在に気付いた斬緒は、反射的に距離を取った。同時に、銃を持っていなかったことを後悔した。


 本能的に──確実に殺されると感じ取ったからだ。


 抵抗すら出来ず、窮鼠猫を噛むといったことさえなく、死ぬ──と。


 斬緒の姿を存分に眺めた後、ユーベルは、「何故こうなった」と呟く。


 それはこっちの台詞だと心の中で返す彼女に、思案顔の彼は思ったことをそのまま口にする。思考を整理するためだ。


何故なにゆえの様な手違いが起きた? 情報が正しいのであれば、フェドートは男。眼前の小娘よりも年嵩としかさの男。カーサの報告ではの娘がフェドートということになっているが……」


 そこで一度言葉を止め、思案顔から、剣呑な顔付きに変わる。目付きが悪いせいで、かなり凶悪な表情に仕上がっていた。


「貴様誰だ? っておくが、下手に誤魔化さない方が良い。僕は殺そうと思えばぐにでも貴様を殺せるのだからな」


 脅しではなく、ただ事実を述べているだけだと察した彼女は、ここで嘘を吐くのは得策ではないと判断し、降参のポーズを取って、自分はフェドートではないと白状した。


「私はフェドートじゃありません。フェドートって人と勘違いされただけで……」


「だが、無関係な人間では無いだろう? 何かしら関わりが有るのだろう? フェドートと」


「ええ、まあ……」


うか」


 それから少し考え込む素振りを見せ、ふと何かを思い出したような表情を浮かべる。


「貴様……浮舟うきふねという名を聞いた事が有るか?」


「………………ッ」


「有るみたいだな」


 わざわざこのような質問を投げ掛けて来るということは、母か祖母、もしくは叔母と因縁があるのではないかと考えた斬緒は、「どんな因縁があるのか分からないけど、確実に良くない因縁だろうし、これ結構不味いんじゃない?」という焦りが身体を駆け巡り、ついつい視線を右往左往させてしまう。


 目の前の相手は、本能的に、確実に己のことを殺せると思ってしまった存在──これで戦いになったらと考えるだけでゾッとした。


「ならば、僕はの件から手を引こう」


「は?」


 だが、予想に反し、彼はあっさりと手を引く。


「浮舟には関わるなと──かつて、浮舟因幡いなばという者に遭遇した友人から、強く警告され、推しの前で誓わされたのだ。推しに誓っている以上、僕は浮舟とは関われない。友人を裏切る事は出来ても、推しを裏切る事だけは出来ぬ」


 友人を裏切ることは出来るのか。

 推しのことは裏切れないのに。


「ちょい待て、は? えっ? どういうこと?」


 困惑驚愕怪訝が同時に襲っている彼女は、思わず彼のことを引き留めてしまう。先程まで感じていた本能的恐怖は既になくなっていた。困惑驚愕怪訝が、本能的恐怖を上回ったからだ。


「そのままの意味だ。僕は貴様にれ以上関わらない。まま回れ右して帰る。故郷に帰り、久し振りに妹に顔でも見せるつもりだ」


「いやいやいやいやいや、説明になってない!!」


 露骨に面倒臭いという雰囲気を出しながらも、一応説明してくれるらしく、「貴様が浮舟を、浮舟因幡を知っているなら分かる事だろうが」と、足を止め、顔だけは斬緒に向けてくれた。


の女は最悪らしい。僕の友人がっていた。の女に、なんと形容するべきか、命よりも大事な存在ものを奪われ掛けたから、う思うというのも有るだろうが、れを抜きにしても──色々な意味で最悪だったらしい」


「…………」


 母のやらかしの一部をこんな形で知ると思わなかった斬緒は、顳顬こめかみを指で押さたくなったが、ユーベルの前でそのようなことをする気になれなかったので、微妙な表情を浮かべるに留める。


(お母さん、本当にあちこちでやらかしているんだな……)


 寧ろ、やらかしていない案件を探した方が早い気がした。


 頭が痛い。


(今更だけど……なんていうか、とんでもない人から産まれて来ちゃったな。実父も、養父もだいぶあれだし……)


 溜息を吐きたい気持ちを堪え、「要はやべぇ奴だから関わるなってこと?」と、冷静に問い掛ける。


ういう事になるな」


「その考え方は、間違っていないと思います……関わらない方が良いと思いますよ、私以外の浮舟家の者とは」


 彼女の母親は勿論のこと、彼女の祖母も叔母も──出来る限り、関わり合いにならない方が良い人間だ。祖母は今、とあるマフィアの世話になっているらしいので、彼と関わることはないだろうが。


 これだけ聞くと、女だけがヤバいように感じるが、男の方もヤバい。叔父は比較的付き合い易い人間だが、祖母の夫であり斬緒の祖父である男性は、かなり癖が強い。


 浮舟家で一番危険な人物は誰なのかと言えば、地下に国を作った曽祖父と曾祖母だが。


「浮舟という名字の人間だけでなく、フェドートという男とも関わらない方が良さそうだな」


「浮舟家の人間よりも関わらない方が良いよ──アイツ、テロリストだから」


「らしいな」


 本当にユーベルは、彼は、この場所から去って行った。斬緒に傷一つ付けることなく、依頼を放棄し、去って行った。


 怪しいという感情はあるけれど、そこで追い掛けたり、背後から攻撃を仕掛けたりしようという気は──起きなかった。


 そんなことをすれば、死ぬと直感が訴えていたからだ。


 死ぬかもしれない行動は取れるが、死ぬと確定している行動は取れない。


 彼女には目的があるから。

 目的を達成するまでは、絶対に死ぬ訳にはいかないのだから。


 ユーベルが本当に手を引いてくれていることを祈り、他のメンバーを探しに行く。


 カーサと彼以外に、フェドートをことを殺そうとする者がいると疑うのではなく、断定して動いたのは──周囲の様子が元に戻っていなかったからだ。


 手を引くにしろ、手を引く振りをするにしろ、ユーベルが人気のない空間を作っている張本人であれば、空間を元に戻す筈だ──その方が油断を誘える確率が上がり、獲物が無防備になる可能性が高くなる。なのに、何もしないということは、彼ではない人間がこの空間を作っているからだろうと、斬緒は考えた。


 勿論、斬緒がそのように考えると踏んで、あえて空間を元に戻していないだけかもしれないが。


 母親のお陰でまた命拾いした彼女は、警戒しながらフェドートを殺そうとする存在を探し出そうと邁進まいしんする。


 それは邁進というより、狂信という言葉が似合う風体だった。


「えっ」


 警棒に見える物を持って町を徘徊していると、不意に手か何かが肩に乗ったような感触がする。


「ッ──」


 影が彼女に覆い被さり、何かが覗き込むような感覚がして、自然と彼女が上を向く。


「あ──あ、あ──」


 目が、合った。


「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ‼」


 今の今まで、どれだけ恐怖に苛まれても、それで体が震えたりすることはあっても、理性を完全に失くしたことがなかった──だが、今は違う。


 理性など一瞬で吹っ飛び、逃げるとかそのような思考すら出来ず、ただただ恐怖に突き動かされて足を動かす。


 恥も外聞も誇りも体裁も臆面も何もか意識することが出来ず──ただひたすら距離を離そうとする。


 転んでもすぐさま起き上がり、ひたすら足を動かし続けた。


「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ‼」


 走って走って走り続けた。

 喉が枯れること、喉が痛むことを意識せず、悲鳴を上げながら。


「ううううううううううううううううううぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……‼」


 髪がボサボサにになっても、泥だらけになっても、手足が擦り傷だらけになっても、痣だらけになっても、鼻血を流すことになっても、彼女は悲鳴と共に走り続ける。


(なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで──ヴィオレッティが)


 捕まったら、また、微温ぬるい悪夢に引き摺り込まれる──それだけは嫌だ。絶対に嫌だ。絶対に絶対に嫌だ。死んでもごめんだ。


 ガクガク震え、正気の部分が残っていない状態のまま──彼女はただひたすら走った。


 全速力で、息切れするほど駆けている彼女に反し、呑気に優雅に緩慢に歩いているヴィオレッティと瓜二つの外見をした存在。


 白菫色の髪、深紫色の瞳、横長の瞳孔、血の気のない真っ白な肌、細長い手足──人間に似ているけど、人間とは違う異形の男でも女でもない存在。


 比喩でもなんでもない、本物の悪魔。


 九歳のときにさよならを告げた──筈なのに、どうしてここにいるのだろうか。


 靴が片方脱げ、また転ぶ。

 ずっと走り続けていたせいで──全身が疲労に苛まれており、立ち上がるのに、時間が、少しだけ掛かってしまった。


「無様だね」


「あ、え──」


 という声が聞こえた瞬間──右腕の骨を折られる。


「んがっ、あ、が、ぁ」


 喉が枯れているせいで、悲鳴を上げることは出来なかったが──その代わりに、聞くに耐えない惨めな声が出る。


 腕が折られ、起き上がることも出来ず、無様に地面に転がっていると、思い切り脇腹を蹴られ、体を外壁に叩き付けられた。


 左側の肋骨が折れたのは分かった。足の骨は、奇跡的に折れていないものの、尋常じゃない痛みを発しているので、ひびは入っているのかもしれない。


「ぅ、ぐぅぅっぅううううっ‼」


 痛い、痛い、痛い、痛い、痛い。


 痛みでその場に縮こまっているが──契合棹けいごうとうは手放さない。


 武器だけはしっかり握り締めている。


「無駄なことを──」


 彼女の首根っこを掴み、持ち上げると──「ハハッ」


「は?」


 予想に反し、彼女は笑った。

 恐怖に苛まれ、狂ったのかと思い、拳を振り上げる。


「ハハッ‼ ハハハッ‼」


 隙だらけになった脇腹目掛けて、契合棹を振えば、それはすんなりと、呆気ないくらい綺麗に当たる。


「いいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃっっっ‼」


 綺麗に肋骨だけ折れたは、彼女から手を離す。


 そこには男でも女でもない異形の存在の姿はない。どこにでもいそうな普通の女がいた。


「ヴィオレッティは」息絶え絶え且つ、喉が枯れていることもあり、かなり聞き取り難い声で、振り絞るように彼女は告げる「私を物理的に傷付けることはしないんだよ」


「ぁ、が、が」


「じゃあな、クソ女」


 女の──レムレース・イマーゴー頭を契合棹で殴れば、彼女は絶命した。


 契合棹──殴ったものを過不足なく攻撃することが出来る警棒だ。レヴェイユ雑技団から借り盗んだ特殊武器である。


 骨を折ろうと思って殴れば、綺麗に骨だけが折れ、骨以外の部位は傷付かない。箱だけを壊すを殴れば、箱だけが壊れ、箱の中身が傷付くことはない。そして、眼の前の女のように、殺すつもりで殴れば、一回殴られただけで絶命する。


「イマジナリー効果を、反映させる異能力と言えばいいのか……相手の記憶の中から自分が求める条件に最も該当する存在と認識させて、その認識を確信を持って錯覚だと理解出来ない限り──その認識を覆すことが出来ないってところかな」


 折れた骨の両側の関節と添え木を布等で結び、骨折箇所を固定し、三角巾を使い、固定した腕を首から吊るして、支えた。片腕でこれをやるのは大変苦労したが、過去に何度も骨折したことがあるせいか、コツがすぐに掴めた。


 鼻血は既に止まっていたので、乾いた血を濡れたハンカチで拭う。


 人が居ないため、怪我だらけの状態で買い物をしても、誰かが口を挟むことはなかった。お金はレジのところに置く。


 手当ての道具を購入するついでに服を購入し、着替えることにした。


 泥だけな上に、あちこち破れている服を着続けるのは、流石に抵抗があったからだ。


 念のため、小型のナイフも購入した。パッ見で見えるところには仕舞わない。パッ見ただけでは分からないが、すぐに取り出すことが出来る位置に仕舞う。


 契合棹けいごうとうだけでは心許ないと思ったからだ。


「町の様子に変化がないってことは、アイツのせいでもないってことだろうし──他にもドーチャの命を狙う奴がいるってことだよね」


 ──じゃあ殺さないと。

 斬緒は休憩することなく、立ち上がった。

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