第三幕【虚辞遁走】③
左手首を捻っているため、怪我一つない右腕だけで、シェーレのことを支えないといけない。人を一人抱えて、階段を昇るというのは、かなりの重労働だ。良く落とさなかったと、誰かに褒めて欲しい。結構頑張ったと思うんだよ。
エーレさんから貰った物を手に持ったまま、おんぶした状態で階段に昇ることは出来ないので、シェーレを抱える前に、それは仕舞った。どこに仕舞ったのかって? 胸の谷間。仕舞うというより挟むって感じだけど。
その場面は、しっかり、ねっとり、テクストブーフに見られていた訳だけど、それはもう仕方ないと割り切った。そういうもんだと、諦めた。奴は性欲の権化だから仕方がないと、自分に言い聞かせた。
「いるとするなら、この辺りね。この辺りしかいないわ」
そのため、テクストブーフの言葉に、返事をする元気がない。「……そう」と、呟くように言うのが精一杯。マジで疲れたよ。
「流石に、少しは動けるようになっているでしょうし──」
「ねえ」
呼吸を整えていると、不意にある疑問が舞い降りて来る。反射的にそれを口にして、結果的に彼の言葉を遮ってしまう。
構わず続けることにした。
変態を慮るほど、私は性格が良くないので。
「人、少なくない?」
「パクスのような一部の例外を除けば、研究員は地下に避難しているし、改造人間──警備員と戦闘員達も、相手がリアンだから、怖気付いているのよ。全員が全員そうという訳じゃないのだけれど、殆どは使いものにならなくなって。どうしたものかと思ったわよ」
「そういう事情なのか」
研究員、改造人間が、果たしてどれだけ存在するのか分からない。だけど、一部の研究員以外は避難していて、改造人間も殆どが使いものにならないのが、本当のことなら、これだけあちこち歩き回っても、人と出会わないでいることも一応納得出来る、のかな? 研究所とか良く分からないから、なんとも言えないけど。
「確認したいんだけど、研究員と改造人間、合わせて何人くらいいるの?」
「正確な数は私も把握していないわ。五〇くらいはいるけれど、改造人間は、ここにいない奴もいるから、今は五〇もいない、多分三〇以上三五未満ってところかしら?」
それなら、パグローム研究所の広さ、私の知らない隠し通路、地下室とかの存在を考えれば、あり得なくはないのかな?
「急にどうしたの?」
「いや、別に。少し気になっただけ。でも、もう大丈夫」
しんどくなって来たので、一旦シェーレのことを下ろすことにした。
下ろす前に、彼女に「ごめん、しんどくなって来たから、下ろすね」と言う。
おんぶされることに飽きたのか、素直に離れてくれた。
「それで……これから、どうするの?」
疲労困憊の右腕を労りながら問い掛ける。
「この辺り──正確にはもう少し進んだ先なんだけど、そこにリアンはいるわ。訊かれる前に、先に根拠を述べておくと、彼の性格と状態を鑑みた結果よ」
「そう……」
なんて心の通わない会話。
互いの腹を探り合いながら、利用しようとしながら、時に嘘を吐き、騙し合い、誤魔化し合い、相手を欺こうとしている。だから、心なんて通わなくて当然だけど──こんなことを四六時中ドーチャはしているのかと思うと、一気に気が重くなる。
まともな人間は、一時ならばまだしも、四六時中こんなことをするなんて、とてもじゃないが、耐えられないだろう。
こんなことを続けていたら、精神的負担がとんでもないことになる。
こんなことをコンスタントに続けていたら、絶対に限界が来るよな。どんなことにも終わるがあるっていうけど、それはその通りで、テクストブーフは、
テクストブーフは、立場上、失敗しちゃいけない訳だから、失敗を補う方法は考えていても、本当に駄目になったときのことは考えられない──というか、考えちゃいけないんだろうな。
そうなったとき、本当の終わりを迎えるだけなんだから。
テクストブーフのことなんかどうでもいい。とにかくリアン。リアンだよ。そっちの方が大事。
「ねえキリオ、今からアンタ一人で、リアンがいるであろう場所まで向かって貰うわ。アンタは特別なことは何もしなくて良いの。上手いことアタシから逃げ切れたということにして、リアンと接触してくくればそれで良いの。後はアタシが上手くやるから」
「別にそれは構わないけど、私がリアンに寝返ったら──とか、考えないの?」
「想定しているに決まっているじゃない。裏切っても全然構わないけど──やめておいた方が良いわよ」
そりゃ、考えているに決まっているよね。考えてない方がおかしいぐらいだ。
「やめておいた方が良い……拷問でもされるのかな?」
「拷問、ある意味そうかもね。アタシ好みの可愛い女の子だから、肉体的苦痛はあまりないわよ。精神的な苦痛を味わうことになると思うわ。アタシはきっと
「…………ぅぇ」
テクストブーフに微笑まれた瞬間、全身に悪寒が駆け巡り、反射的に数歩距離を取った。
凄く綺麗な微笑みなのに、絶妙な気持ち悪さが襲ってきた。人の笑顔を見て吐きそうになったのなんて、今の今までなかったよ……初めての経験だ。
見た目だけは凄く上品な笑みなのに、どうしてこんなに気持ち悪いんだろ。最早天才でしょ。そういう才能の持ち主でしょ。じゃないと、ここまで気持ちの悪い綺麗な笑顔を作ることなんて出来ないって。
「裏切らない限りは、それなりにキモチイイし、イイ思いはさせてあげるから」
「へぇ……」
見た目がどれだけ良くても、気持ち悪い台詞を沢山吐いていたら、生理的に受け付けなくなるんだな。
「とりあえず、リアンと会ってくるよ……会った後、どうするかは、リアンを見てから決める。裏切ったりはしないけども」
嘘です。裏切ります。お前を裏切ります。
「いってくるよ」
返事を待たずに、私は歩き出す。
慎重に慎重にリアンがいるであろう場所に移動する。途中で扉を開けては室内を覗くということを、各部屋で繰り返し、最奥の部屋の扉の前に辿り着く。
答え合わせをするように、扉を開ければ──上からリアンが振って来る。
「ッ、リアン」
「あ、悪い、驚かせたか?」
「いや、まあ、そりゃ、驚くでしょ」
「足音が聞こえて、誰が来たのか分からねぇし、天井に張り付いてたんだよ。お前だと分かったから普通に降りて来たけど」
「そうなんだ……」
天井を見上げる。掴まれそうなところはあるけど、結構力がないとキツイと思う。
「てか、お前、グランツからよく逃げ切れたな。肩の怪我、大丈夫か? グランツの奴に──」
「うん、まあ、色々あったけど……なんとかね」
純粋に心配されると、裏切った振りを続けるか本当に裏切るか考えていたことへの罪悪感が湧き上がり、不思議と声に気不味い調子が現れてしまったのだけれど。
「まあ、なんだ、深くは、聞かねぇよ……」
リアンはそれを違う意味に解釈したらしく、気不味そうに視線を逸らされた。
どんな風に捉えたんだろう。テクストブーフにアレなことされたとか思っているのかな? 実際アレなことはされたけど、それが原因ではない。
「まあ、とりあえず、その、思っていたより大丈夫そうで安心したわ」
「……リアンは大丈夫?」
「情けないことに、まだ本調子って言えるほど回復してねぇけど、大丈夫だ。頑丈に作られているお陰でだな……あんま嬉しくねぇけど、これに関してはお陰としか言えねぇだよな……あんま認めたくねえけど」
「普通に話せるぐらいには回復しているんだね。良かった……」
私が選んだ選択肢は、裏切った振りをする、だった。
リアンを裏切ってデクストブーフに付くのではなく、リアンにずっと付く──だったことに、少しだけ安堵を覚えた。
目的を達成するまでは、死ぬ訳にはいかないから、流石に生きるか死ぬかの瀬戸際になったら、生きれる確率が高い方に付くつもりでいるけど、それでも、やっぱり、助けてくれた相手を裏切るのは避けたい。
出来る限り裏切りたくない──なんて、全力な人間みたいなことを言えるほど、清廉潔白じゃないし、テロリストに飼われている現状に甘んじている身分で、そんなことを言う権利はないんだろうけど……。
雑技団から逃げて、あんな結末を迎えてしまった時点で、そんなことを思う権利もないんだろうけど……。
「無事に解毒出来たことは分かったけど、解毒の作業を行なった後は、私が来るまでどうしていたの? あ、長くなるなら、ここを出てからでいいよ」
「手短に話せるから今言っちまうよ。ある程度マシになるまでは、こことは違う部屋で、大人しくしていたな。いつでも動けるようにはしていたけど。で、ある程度マシになってからは、あちこちを転々としていたぞ」
「なるほど」
「お前がどうなっているのかが分からなくて、あんま派手に動けなかったんだよな……」
「それは仕方ないよ。変なところで、テクストブーフと遭遇よりはよっぽど良いだろうし」
「グランツの奴とは、出来れば万全の状態で相手してぇからな。結果論になっちまうけど、これで良かったのかもな。てか、グランツ、どこに行ったんだ? 振り切る前どこにいたのかとか分かるか?」
「必死だったから。ちょっと覚えてない」
出来れば裏切りたくないと思っている癖に、リアンに付くと決めている筈なのに──裏切った振りをしていたことを、出来るだけ言わないようにしている。
ドーチャとの取引、死んだ仲間、そういった理由があるのかもしれないけど、私のことを守ってくれた相手なのにね。
そういうところ、ドーチャに似たよな。
一緒にいる内に、似てしまったんだろうなぁ。
九歳のときから一緒にいたんだから、仕方ないのかもしれないけど、なんかやだな。
「そうか……。気にはなるが、まあ、分かったところで、俺がアイツの行動を正確に予測することなんて出来ねぇし、結局やることは変わらないだろうしな。ずっとこの部屋に留まっていても仕方ねぇし、ここから出て……テクストブーフと遭遇しなかったら、このまま研究所の外に出るのもありだな」
「いいの?」
予想していなかった発言に、ついつい問い掛けの言葉を口にしてしまう。
「テクストブーフのこと、あれだけ警戒していたのに……」
「アイツが生きていたら、地の果てまで追い掛けられるだろうから、出来れば殺したいとは思っていたよ。だけどよ、ここを出て、体勢を立て直して、それからアイツを殺すって方法もあるにはあるだろ? あんまり選びたい手段じゃねえけど、このまま戦っても俺が死ぬかもしれねぇ。俺が死ぬだけなら俺のせいで済む話だけど──キリオが死んだりするのは、色々違うだろ?」
「リアンが、それでいいなら構わないけど……」
「さっきも言った通り、今の俺は万全の状態じゃねえ。この状態で畳み掛けられたら、結構不味いぞ」
そんな会話をしながら、部屋から廊下に出る。テクストブーフとシェーレの姿は見えない。どこかに隠れているんだろう。一体どうやってリアンを倒すつもりでいるのか。
階段を下り終えたタイミングで、上からゴトッという音が鳴り、つい足を止めて、音がした方向を向いてしまう。つい最近、似たようなことをして、リアンが殺されそうになったのに。学習しない奴だと思われるかもしれないが、こんな状況で不審な音が鳴ったら、そちらを見ずにいられないものなのだ。
「キリオ?」
「今なんか、音が……」
上から聞こえた音について言及しようとしたとき、ダッダッダッと、隠す気がない大きな足音が聞こえ、私の意識はそっちに方向転換し、足音がこっちに近付いて来たので、足音の方向──後ろを振り返れば、内側と外側に刃が付いた鋏を持ったシェーレと目が合う。
瞬間、右手に持っている鋏をぶん投げる。
それは私に当たることはなく、横を通り過ぎたのだけど、投げられた鋏の方に視線を向けたのが良くなかった。
一気に距離を詰められ、左手に持った鋏を、大きく振り被り、斬られると感じた私は、致命傷だけは避けようとする。
ガチャンという重めの音と、バンッという鈍い音が、同時に響く。
予想していた痛みが襲って来ない。
皮膚や筋肉ではなく、服の一部が裂けている。スカートにスリットが入るように切れている。スカートの下。銃を固定するために、太腿に巻かれた紐が、切れていた。
そして切れた紐が、切れた同時に、鞭みたいに動き、シェーレのことを突き飛ばした。
「……ああ、クソ……」
数秒の沈黙を壊したのは、リアンだった。
すぐに起き上がったシェーレは、右手で私の腕を掴む。左手に持った鋏の先端を、リアンに向けたまま、紐から引き剥がすように私のことを引っ張る。マガジンを固定していた紐も奪われ、ヒョイと遠くに投げられた。
されるがままの私を、虚ろな瞳でジーッと見詰めたリアンは、悲しそうな表情を浮かべ、大きな溜息を吐く。
「俺、考えるとか、計画を立てるとか、暗躍するとか──そういうのに、向いてないんだな」
「リ、リアン?」
「──出来れば、こんなことしたくなかったけどよぉ、仕方がない。シェーレだけじゃなくて、お前のことも殺すしかねえ」
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