忠愛なる存在──浮舟斬緒 15歳 6月

第零幕【克己牙城】

 肩甲骨の下まである錆利休さびりきゅう色の髪、おっとりとした垂れ目、柔和な若緑の瞳、薄く白い肌をした少女──裏切り者『若紫わかむらさき式葉しきは』が、レヴェイユ雑技団に戻って来た。


 ボロボロで最初は誰なのか分からなかったが、顔の汚れを拭えば、見覚えのある顔──若紫式葉と瓜二つの顔が現れた。


 生きていると思っていなかったため、最初はただのそっくりさん説が濃厚だった。しかし、式葉と同じ位置に、左鎖骨の下に黒子があったため、もしかして本人なのではないかと騒がれ始めたのだ。


 もしも本人だとしたら、裏切り者が何を抜け抜けと──と、言いたいところだが、何の因果か、彼女は記憶を失っており、辛うじて自分の名前と年齢は覚えていたが、それ以外に関しては全く記憶にないそうだ。


 記憶喪失の振りをしている──とかではない。


 嘘を吐いているか否か判別することが出来る異能力を持つ者曰く、本当に名前と年齢しか覚えていない、とのこと。そんな状態でレヴェイユ雑技団に来れたのは、ぼんやりと残っている記憶のお陰らしい。既視感を覚える道をふらふら歩いていたら、辿り着いたと語っていたそうだ。


 黒子の件があっても、若紫式葉の姿をした別人なのではないかと当初は疑う者もいた。だが、DNA鑑定の結果、若紫式葉であると言われてしまえば、引き下がるしかない。


 記憶喪失の影響なのか、トカドール・ファルセダーの知っている式葉と違う人物という印象を受けたため、式葉と呼ぶのは、精神的に抵抗があるが──証明されてしまった以上、個人の感情を持ち込む訳にはいかない。


 彼女のことを、『若紫式葉』として扱うことにした。


「私、これからどうなるの?」


 浮舟うきふね斬緒きりおと共に、レヴェイユ雑技団を裏切り、レヴェイユ雑技団から抜け出そうとした彼女の処遇が決まるまで、彼女は隔離部屋で過ごすことになっている。


 裏切り行為を許す訳にはいかないが、元々人手不足だったところに、更に人手を減らされるという大打撃を受けたことで、深刻な人手不足に陥っており、猫の手でも借りたい状況。


 元々人手不足という状態になったのは、浮舟因幡いなばのせいであり、そこから更に人手不足になったのは、その娘である斬緒のせいである。


 正直、裏切り者であっても、戻って来てくれるならウェルカム状態。


 記憶を失っている──それはつまり、叛意はんいを失っているということ。


 叛意がないなら、今まで通り使うことが出来るのではないかと、一部の者達は考えている。とはいえ、一度逃げ出した相手だ。何かの拍子に同じことをしないとは限らない。そのように考えている者もいる。結果、話が複雑化している。


 記憶がない、それが判断に困るところだった。


 事態を分かっていない彼女は、不安そうに、トカドールに視線を向ける。


 若緑の瞳と目が合うと、今の今まで、記憶がない彼女に違和感を抱き、若紫式葉として扱うことに抵抗を覚えていたことが──紛い物か何かだと感じていたことが、非常に申し訳なくなった。


 記憶を失くし、保護されたと思ったら、事情も説明されずに隔離。


 不安になるだろう。

 怖いと思うだろう。


 若紫式葉は、言い方は選ばない表現をすると、臆病な部類に入る少女で──普通の少女が、環境に適応するために、無理に頭の螺を外した、否、外された人物であり、精神はかなり繊細な部類に入る。


 両親の死後、己の面倒を見てくれる後見人が、レヴェイユ雑技団にいなければ、今頃故郷の紅鏡こうきょうの国幸せに暮らしていただろう。


 紅鏡の国にある実家で過ごすことが出来たかもしれない。


 そのことを知っていたのに、気遣えなかった。


 雑技団に来たとき、彼女の服はボロボロで、体には怪我があった。一応、雑技団の方で応急処置をしているが、重症でこそないが、軽症というほどでもないらしい。


 今は、彼女の部屋に放置された服を着ているため、顔や手の傷以外は服で隠れており、身形はかなり綺麗だ。


 遠目から見る分には、痩せている以外は、以前と大きく変わらない姿だった。


 手と顔の傷は、そこまで深くなく、大きくもないため、近付かない限り、あまり目立たない。他の場所にある傷は、かなる酷いが、服で隠れている。


「皆さんは、私のことを、知っているみたいだけど……あの、私、記憶を失う前、何かしちゃったの? とんでもないことしちゃったの?」


 自分のことばかり考えていたと、自分の心情を猛省し、「詳しいことは言えないが」と、前置きしてから、こう言った。


「悪いようにはしないから、安心して欲しい」


 口下手なりに安心させようと言葉を投げ掛けたのだが、却って不安になってしまったのか、俯いてしまい、「そうなんだ」と、小さな声で呟く。


 一体、どのような言葉を投げ掛けるべきだったのだろうか。


 掛ける言葉が何も見付からず、沈黙は金ではないが、下手なことを言うよりは良いと思い、彼は黙り込むことにした。


 彼女の処遇が決まった二週間後──レヴェイユ雑技団とは関係ないところでのフェドートと斬緒の身に、危機が訪れようとしていた。


 これは、飼い主が飼い犬に愛されていることを自覚する物語であり、飼い主を大切に思っている飼い犬の物語である。

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