2.タバコ一本分


 人を好きになるって、なんて簡単なんだろう。私はたったあれだけの会話で、横川よこかわくんを好きになってしまったんだと思う。前より通学が楽しみになったから。水曜日、歴史学の授業の日は特に、朝目が覚めた瞬間から心が浮き立つ。


 六月下旬、梅雨時期にしてはそれほど雨に見舞われず、私はほぼ毎日通学にバイクを使うことができている。水曜日だけだが――彼は水曜日だけ三時限で授業が終わるため、早い時間からバイトに入っているそうだ――帰りにあのコンビニに寄ることも。


「CBR250R、いいな。普通二輪じゃないと乗れないんだよね」


 そうして、初めて話した時と同じように、コンビニの軒先のスモーキングスタンドのそばで彼のタバコ一本分だけ話をする。


「うん。十六歳になってすぐに取ったの」


「すげえ、そんなに乗りたかったんだ」


 目を見開いて驚いてから、横川くんは短く切られている前髪をかき上げてタバコを一口吸った。


「子供の頃から憧れてたから。両親は病弱な兄にかかりきりで、でもその代わりにお金は何にでも出してくれたから、それなら、って」


「それでも免許取るのは大変だっただろ。夢が叶った、いや、夢を叶えたってことか」


「そうなのかな。ふふっ」


 ゆるやかな潮流のように、彼が燻らせる紫煙のように、静かに続いていく会話が心地好い。この時間はなくしたくない。


「……ああ、もう行かないと。じゃ、気を付けて」


「うん、ありがとう」


 五分間の逢瀬を楽しんだあと、薄曇りの空の下でヘルメットをかぶると、髪に少しタバコの匂いがしみているのが感じられた。



 ◇◇



「まこちゃん、今日行ける?」


「うん。ヘルメットもう一個持ってきたよ」


「うれしい。私も長袖カーディガン持ってきたよ。楽しみだなぁ」


 今日は、あきらとラーメン屋に行こうと約束した日だ。目当ての店は電車だと行きづらい場所にあるとのことで、それならバイクで行こうということになった。「金曜日だから、明日のこと気にしなくていいね」と、晶はうきうきした表情で隣を歩く。


「晶、バイクの後ろに乗るの初めて?」


「うん。色々教えてもらわないと」


「そっか。まあでも大丈夫だよ、ヘルメットも長袖もあることだし、安全運転で行くしね」


 一時限目は、晶とは別の授業だ。「またあとでね」と言って廊下で別れ、一人で歩いていると、知らない女子学生と横川くんが廊下の突き当りで話しているのが見えた。肩より長いカールされた髪の女子学生は、晶のようなふわふわとしたかわいらしいタイプだ。二人の間に深刻そうな空気が漂っているように思えて目をそらしてしまったが、あれは誰だろうと心に引っかかりができてしまい、落ち着かない気分になる。


 四時限目の授業が終わり学生たちがぞろぞろと学内を歩く夕方、私と晶が向かった正門近くの駐輪場入口に、大きな体の男子学生がいるのが見える。横川くんだ。


「あれ? どうしたの?」


「……ああ、富田とみたさん。何でもないよ」


「まこちゃんの知り合い?」


 晶が私を見上げながら尋ねてきて、「ごめんごめん、横川くんっていう人で、この間知り合いになったの」と説明をする。


「……何か横川くん、泣いてるように見えたけど……」


「う、バレたか。さっき振られたばかりでね」


「えっ、振られたって……彼女? もしかして朝、廊下で話してた人?」


 涙声で答えてくれた彼に、質問を重ねてしまう。さっき見た女子学生のことが気になって、つい口から出てきてしまったのだ。


「見られてたか。そう、元彼女、だけど。合コンで知り合った男の方がいいって」


 あはは、と明るく笑う横川くんの眉尻は、かなり下がってしまっている。きっと無理をしているのだ。


「ね、まこちゃん、私じゃなくて彼と一緒にいてあげたら?」


「え、何で? ていうか、待たせちゃっ……」


「そうしてくれると助かる」


 「えっ?」と聞き返した私に、横川くんは「悪いけど、誰かと一緒にいたい気分なんだ」と告げた。


「ほらね。ラーメン屋はまた今度でいいよ。じゃ、私は歩いて帰るから。またね」


 そんな風に朗らかに言うと、晶は大きく手を振って正門を出ていってしまった。


「ごめんな。愚痴聞いてくれないか」


「う、うん、でも私、バイクで来てて飲みに行けないから……どうしよう」


「適当にファミレスにしないか?」


「えっと……、それならおすすめの中華料理屋にでも行く? ここからだとちょっと遠いけど、うちの近くなの」


 私の提案に、彼は「そうしよう」と乗ってきてくれた。まだ午後四時半で夕食という時間帯ではないから遠くてもいいだろう。それに、その方が長く一緒にいられるかもしれない。


 ホンダCBR250Rの後ろに人を乗せるのは久し振りだ。晶のために持ってきたヘルメットを渡すと、彼は受け取ってすぐ、ずぼっとかぶった。


「けっこうきついな」


「顎のベルトも締めてね。本当は長袖の上着があると、もっといいんだけど」


「ああ、そうか。でもさすがに長袖は持ってないな……。そうだ、悪いけどどこかコンビニに寄ってくれる? タバコ買いそびれてて」


「バイト先の?」


 横川くんは、器用にベルトを装着してからフェイスシールドを上げる。「そこじゃないところ」と、ヘルメットに挟まれた頬を歪めながら笑うその表情は、さっきよりも少し明るく見えた。


「ん、わかった。じゃあ乗って。ここに足かけて、ここをしっかり持っててね。たぶん曲がる時とかに体が左右に振れると思うけど、自然に体重移動させていれば大丈夫だから」


 薄手のパーカーを着てヘルメットをかぶると、私は二人乗りの注意事項を横川くんに説明した。本当は晶に言うつもりだったんだけど、などと思うと不思議な気分になる。


「わかった。よろしくな」


 突然の二人乗りデートは、こうして始まった。

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