赤い帳に染みる青
祐里
1.夕立
冷めている、しっかりしている、何でもできる、そんな評価をもらいながら、私は育ってきた。二十歳になった今は、大学に通うために実家を離れて一人暮らしをしている。
「おはよ、まこちゃん。今日もバイク?」
「おはよう。うん、バイクで来たよ」
大学の駐輪場付近を歩いていたところで、同じ学科の友人の
「夕方から雷雨の可能性って、天気予報で見たけど」
「えっ、嘘……。あー、濡れたら嫌だな」
「やばそうなら、うちに雨宿りに来ればいいよ」
「ん、ありがと」
晶は大学のすぐ近所で一人暮らしをしている。一方、海に近いからという理由で選んだ私のアパートからは、大学までバイクで二十分から三十分ほどかかる。そのせいで、通学が天候に大きく左右されたりするのだ。
今日は一時限目から晶と同じ、一般教養の歴史学の授業だ。広い教室に後ろ側から入るとすぐ、いつも一番前の真ん中の席を陣取っている高身長で肩幅が広い人物が目に入る。
「えー、前期テストまであと一ヶ月、気を引き締めていくように。ではまた来週」
講義を終えようとする教授のマイク越しの言葉を聞き、学生たちが揃って席を立ち始める。広い肩幅の主は、さっさと教室を出て行ってしまったようだ。あんなに大きな体で一番前の目立つ席にいれば顔も覚えてしまいそうなものだが、私は彼の顔を見たことはない。後ろ姿を見るたびに『大きいなぁ』と思うだけだ。
四時限目の授業が終わり、廊下の窓から外を見ると、既に雲行きが怪しくなってきている。悩みどころだが、雨合羽を買ってさっさと帰ることにした。
「まこちゃん、うちに来たら?」
「今日は大丈夫そうだから、すぐ帰るよ。これから雷雨の季節になったら晶の家にお世話になるかもしれないけど」
「そう? もし雨になったらスピード出さないように気を付けて。事故っても驚異的な運動神経とかスキルとかで何とかしちゃうのは、少年漫画の中だけだからね」
「えっと、そうね」
「安全運転を徹底するのも勇気なのよ」
「う、うん」
晶はその外見とは裏腹に少年漫画の熱い展開が好きな熱い層で、時々こういうたとえを会話に入れる。言いたいことはわかるが、私はその熱さに乗り切れなくて返答に困ることが多い。
大学の正門近くで、まだ心配そうな表情をしている晶にお礼を言って別れる。近くの百円ショップで雨合羽を買って店を出ると、自分の力ではどうにもならない分厚い雲を、私は忌々しげに見上げた。
雨合羽を着てから駐輪場のバイクを押して外に出る。私のホンダCBR250Rは、とても頼りになる相棒だ。エンジンをかけると右手でスロットルグリップを回す。走り出したら、クラッチレバーを握りながら足でシフトレバーを操作して徐々にギアを上げていく。この瞬間が、好きでたまらない。
『ますは車体を起こすところから。これができないと、先に進めないよ』
『一本橋では、車体を下半身で固定して遠くを見るように意識しないとだめだ』
『ずいぶんふらついてたぞ。何考えてた? 相棒のバイクのこと考えろ』
十六歳になり、普通二輪免許を取得するために自動車教習所へ通い始めた私が、若い男性教官に言われた言葉だ。今でもバイクで走り始めると頭の中に声が響き、彼のタバコの匂いが漂ってくるような錯覚に陥る。厳しい人だったが、とても上手に導いてくれた。
どれだけ辛辣な言葉を投げられてもその教官を指名して通い続けた私に、最後の実地教習の日、彼は言った。『不器用なのに、よくがんばったな。これで最後だと思うと寂しいよ』と。
黄色い雨合羽は赤い車体と赤いフルフェイスのヘルメットに不似合いだな、などと考えながら走っていると、途端に大粒の雨がものすごい勢いでフェイスシールドを叩きつけ始めた。少々の雨なら気にしないが、豪雨では視界が悪くなる。走り続けるのは自殺行為だと判断し、左ウィンカーを出していつもは通り過ぎるコンビニの駐車場へと入った。
「ふぅ……、やられたなぁ」
コンビニの入口、かろうじて
私が店内でタオルの棚を探している間に、男性店員は奥に引っ込んだようだ。女性店員が担当するレジで買ったタオルを握りしめながら、しばらく雨宿りさせてもらおうと庇の下で土砂降りの雨を見つめている私の隣に、すっと誰かが来た気配がした。視線をそちらに移すと、さっき目が合った男性店員だった。
「タバコ吸っていいかな? きみは吸わないよね? ごめん、ここにしかスモーキングスタンドがなくて……」
「は、はい。私は吸わないけど、どうぞ」
「ありがとう。雨はすぐに止むみたいだよ。雨雲レーダーによると」
「あー、そうか、雨雲レーダー……スマホにアプリ入れておけばよかったです」
彼の少しかすれた低い声が耳に心地よく響いて、初めて会う人なのに、私は躊躇いなく話し始めてしまった。少々人見知りの
「くくっ、意外と抜けてるところあるね」
「意外と?」と驚く私に、「ごめん」と彼は言った。たぶん私は訝しげな表情をしていただろう。
「大学で同じ授業一つ取ってるんだよね。有名だから、名前も知ってるよ。
「有名? 何で……」
「完璧なクールビューティーって、男どもが騒いでたんだ。俺は、いつも一番前の席にいるデカいヤツって言えばわかるかな」
「あ! わかります! でも顔は見たことがなくて、わからなかった、です」
「同い年だから、ですますじゃなくていいって」
そう言って笑う彼の眉尻と目尻は下がり気味だ。一面に広がる海のような大らかな笑顔から、目が離せなくなる。
「う、うん。あの……、クールビューティーって、そんなことないと思うんだけど」
「自分じゃ気付かないものなんだよ、きっと。でもやっぱり、意外だったな。もっとしっかりしてるのかと思ってたから」
「え、いや、全然。けっこうドジでぼんやりしてるの。今日も友達に言われなかったら雨合羽も買ってなかったと思う」
「あはは、そうなんだ。もう六月に入ったし、雨合羽は常備しておいた方がいいかも」
「うっ、そうだよね」
「しかし、長身の女子がバイク乗ってるってのは、本当に格好いいな」
「そうかな? そんなに褒められると照れくさい……あっ、名前……」
彼のことを前から知っているかのようにすらすらと話すことができて、うっかり名前を聞きそびれるところだった。雨が弱くなってきていることに、名残惜しさを感じる。
「ああ、俺は
慌てて名前を尋ねた私に、胸ポケットから出した名札を見せながら、彼はゆっくりと答えてくれた。
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