第23話:吉田朱音について

 青城祭まであと18日 2022年9月12日am 18:01:吉田朱音


 丁度やってきた電車に乗り込むと、過剰に冷やされた室内の空気が私を包み込んだ。祝日のこの時間帯ならきっと混んでいるだろうと覚悟していたけれど、意外とそうでなく、パラパラと空席がある。

 私は、少し車内を歩いて角の空席に座り、自分の頬に触れてみた。


「熱いなぁ……」


 緊張から真っ赤になっている頬はまるで火をつけられたかのように熱い。この頬を先輩に見られてないかは、もう本当に運次第だ。

 私は緊張しいだから、少しでもプレッシャーがかかる場面に出くわすと、すぐに顔が赤くなってしまう。小学校の頃、この赤面症と朱音という名前を男の子からよく揶揄われたっけ。


 最寄り駅まで、文庫本を読もうかとも思ったけれど、このまま、体の熱に身を委ねるのもいいかなと思った。そのまま、背もたれに重心を預け、目を閉じる。

 ————今日は、夢のような時間だったなあ。

 先輩の大きな力強い手の感覚を思い出しそうになる。私は慌てて雑念を取り払った。まあ、色々トラブルはあったけれど、上手く誤魔化せたはず。

 結局、あの秘密を打ち明ける勇気は、最後まで出なかったけど。

 私はゆっくりと箱の鍵を開き、あの日の、赤い世界の思い出を考える。


 部活動を引退した中三の夏、読んだ青春小説にこんな一文があった。物語は終盤、卒業式のシーン。


『あっという間の3年間だった。その間に色々な出来事があったけれど、この日々を生涯忘れることはないだろう』


 それまで心に訴えかけてくるノスタルジックな表現が素敵で気に入っていたのに、急に夢から覚めてしまったような、違和感を感じた。けど、自分でも何故引っかかっているのか判らない。


 そこで私は、お母さんとお父さんに聞いてみることにした。

 二人の『高校生活で忘れられない思い出』って何?と。


 母は、

「そうねぇ。当時付き合っていた彼氏と制服で遊園地に行った事かしら」

 得意料理のカレーを調整しながら、お母さんはゆっくりと語り始めた。


「当時は今の子達みたいに制服で遊園地なんて文化なかったから、周りの視線がすごかったんだけど、彼がそんな事気にせず目を輝かせていたのを凄い覚えてる」

 ゆっくりと、カレーの入った鍋をかき混ぜるお母さんの視線の先には、淡い、遠い日の思い出が浮かんでいるのだろう。


「懐かしいなぁ。この事、パパには内緒よ」

 悪戯っぽく笑うお母さん。その顔は楽しそうで、すこし寂しそうで、私の友達みたいな無邪気さがあった。


 父は、

「父さん野球部だったろ?だから春夏秋冬全部グラウンド周辺にいた記憶ばかりだなぁ」

 居間で、犬を撫でつつテレビを見ながら、お父さんはぶっきらぼうに語る。


「あ、ただ高三の春に一度、彼女と制服で遊園地に行ったな」

 犬を撫でる手をとめ、お父さんは語り始めた。


「練習終わりに制服で直行したんだけど、学校に通報されないかって冷や冷やしてたよ。でも、彼女にカッコ悪いところ見せられないと思って毅然としてたんだ」

 がははと笑うお父さん。


 揃いも揃って同じ思い出をあげるなんてうちの両親は本当に仲がいいなと思う最中、例の違和感がについて、少し分かった事があった。

 私が、あの小説の一節に違和感を覚えた理由は、ある一つの考えが影響していた。

 それは、


『一生残る思い出なんて存在しない』


 というものだ。


 お母さんも、お父さんも共通の美しい青春の思い出を語っていた。

 けれど、それらは永遠に残るとは思えない。美しい宝石のような思い出も、ゆっくりと現実に侵食されて錆び始めるのは避けられないと思う。


 思い出の人物の顔が、現在の物にアップデートされ、発言や行動は誇張され、自分がそうであって欲しいものに脚色されて行く。

 テセウスの船のように、一つ一つの要素が代替品によって変えられた思い出。

 歪に変化したそれは、果たして、元の思い出と同じだと言えるのだろうか。

 そんな事を、カレーの食べた後、眠気を覚えながらベットの上で考えた。


 当時の私が、中学校生活を振り返っても浮かんできたのは、県大会2回戦で女子サッカー部が負けた事。当時好きだった同級生に彼女がいることを知った夏のこと。台風で延期になるかの瀬戸際で敢行した修学旅行のこと。左足首の靭帯を断裂した、事故の瞬間。


 そんな思い出も薄らぎ始めている。

 試合の会場はもう思い出せないし、何故あの同級生が好きだったのかも判らない。

 怪我の事は、もう思い出したくないな。


 きっと今後の人生も同じ。誰かを好きになったり学校のイベントだったり。そんな思い出も、日常の些細な記憶も、色あせて消えていく。

 

 ————————


 私の母校である旧豊島区立中学校は、公立としては珍しく、文化祭にある程度力を入れる中学校だった。


 あの日も丁度、文化祭準備で学校に遅くまで残っていた。

 クラスの男子どもが、勉強を言い訳にまるで仕事もしないで帰宅するから、私はイライラを踏み潰すように、校舎をぐるぐる巡っていた。

 部活を引退して以降、帰宅時間が早くなったこともあり、夕焼け色の校舎を見るのは結構久しぶりで、妙に新鮮な気分だった。


 折角だから、一階にある自分の教室の周りだけじゃなくて、学校全体から、この美しい赤い世界を見てみようと思い、私は軽やかな足取りで校舎を進む。

 幾つかのクラスから、トンカチとかテープを伸ばす音が響いているけれど、三階に行くと、聞き覚えのない音が響いていた。コツコツと、まるで、ヒールを履いて歩いているような音が三階の奥から聞こえてくる。


 私はその音に釣られるように、三階の奥、生徒も滅多によることのない屋上へと続く廊下の一本道へと進んだ。

 真紅に染まったクリーム色の廊下。そこで私は、に出会った。

 リュックサックを背負って、力なく歩く黒い運動着姿の男子。私よりもずっと背が高くてがっしりとしているのに、直ぐに折れてしまいそうな、空虚な弱さと物悲しさが全身に溢れていた。


 私は、以前に読んだ死神の登場する復讐劇を思い出した。死神が実在するのであれば、きっと目の前の彼のような、幽鬼な姿をしているのだろうと思った。

 その男子が一歩歩くたびに、先程の、コツコツという音がなる。


「止まりなさい!」


 私は、自分でも気付かぬ内に、彼に話しかけていた。そうしないと、そのまま屋上に進んで飛び降りそうな気がしたのだ。

 私の声に気づくと、男子はゆっくりとこちらに振り返った。


 流麗な黒髪に、目鼻立ちのクッキリとした端正な顔立ち。その神秘ささえ感じさせる風貌が夕暮れによって茜色に輝いている。

 私は、その光景の美しさに思わず息を呑んだ。


「校内でスパイク履いてるなんて信じらんない」

 頬が真っ赤に染まるのを感じながら、私は目の前の男子に語りかける。


「ごめん。すぐに脱ぐよ」

 私の指摘に大人しく従うと、男子はスパイクを脱いだ。

 その動作を眺めながら、私は確信した。

 この人は、うちの学校の生徒ではない。こんな人がいれば、私の周りの女子達はまず、黙っていないだろうし、それに、この品のある雰囲気は中学生男子のそれではない。最低でも高校生以上であるだろう。


「昨日は、文化祭か何かだったのか?」

 スパイクを片手に持つと、見知らぬ男子はゆっくりと語りかけてきた。


「何言ってるの。文化祭は明日。それで皆、こんな遅くまで残ってるんじゃない」

 やっぱりそうだ。この学校の生徒なら、最大のイベントである文化祭について知らないはずもない。


「そうだった。互いに楽しもう」

「もちろん。明日、私のクラスでたこ焼き売るから、絶対来てよね」

「それは良いな。楽しみにしておくよ」

 優しい笑顔を向ける男子。


 私は何故だか、この不法侵入者を先生達に突き出す気にも、恐怖に叫び声を上げる気にもならなかった。それに、その顔は悲壮感などなく、ただ、美しい景色を見にきた観光客のような好奇心に溢れているように思えた。だから、彼が行きたいのであれば、このまま屋上に行かせてあげたい、そう思った。


 そのまま男子生徒を見送ると、夕焼けに体が温められるのを感じながら、私はずっと、廊下から空を眺めた。


 すると、数分後、眩い光が夕暮れを飲み込むと共に、

 私は、


————————


 その後、私は、度重なる事情聴取や身体検査を施された。

 まるで、私があの事件を、旧豊島区立中学校透明化事件を起こしたのではないか、そう疑われているかのようだった。しかし、私がありのままの事を伝えると、警察は渋々と納得したようだった。そもそも、あんな異常現象を人間に起こす事などできないと思う。


 以降、私は、あの日の思い出に蓋をした。

 あの日見た男子の事も、透明になった校舎も。そして空を飛んでいるような浮遊感と体の芯が冷えていくような恐怖。全てに、固い、二度と開く事のない蓋をした。


 担任の勧めで志望校のレベルを一つ上げた私は、高いレベルの勉強に苦戦したけど、都内の有名私立に入学することができた。

 担任は、『女子サッカー部での内申点が活きた』と語っていたけど、今思えば、あの事件に巻き込まれた被害者に対する補償が大きかったのかな、とも思う。


 青城高校へは電車通学となる為、中学時代の友人たちとは離れ離れになってしまった。でも、あの鼠色に沈んだ街から外れ、違う地域の高校に通える。そう思うと不思議と寂しくはならなかった。


 オリエンテーションも終わり、部活動見学の時期になった。クラスの友人になるかもしれない女子に誘われ、あまり興味のないサッカー部へ、マネージャーとして見学に行く事になった。まだ4月が終わるか否かだというのに、イケメンと噂の先輩に、見学と称してお近づきしようという魂胆らしい。


 学校指定のジャージに着替え、校庭に出た。部活動の時間を校庭で過ごすなんて、いつ以来だろう。

 見学者が整列させられると、女子マネージャー志望者が4人だったのに対して、選手としての入部希望者は25人とかなりの数だった。

 そこで、紅白戦を行い、部活動のレベルを知ってもらう事にしたらしい。

 準備も終わり、紅白戦が始まった。2、3年生混合チーム対1年生チーム。

 例の先輩が中盤でボールを持つたびに横から沸き立つ声に苛立ちながら、試合経過をベンチから見守る。


 今までは選手として参加するだけで、観戦は代表戦くらいだったけど、実際に目の前で見ると、これが面白い。目まぐるしく動き回る選手達、スピード感のある個人技。女子と男子の馬力差に惹かれたのもあるけれど、何よりも魅力的だったのがゴール際の白熱。

 先輩達の熱気は凄まじく、ゴール付近にボールが入ると選手達のギアが一段上がるようだった。


 その中でも、2年生の攻撃選手に目を奪われた。

 身長は180位だろうか。大きな体格を最大限に生かし、ディフェンスの壁を掻い潜り、ゴールをあげる。後輩だろうと、その力強い肩で吹き飛ばし、右足を振り抜く。


(何があの人をあんなに駆り立てるのかな)


 紅白戦で新入生相手にも関わらず、手加減一切抜きで点数を重ねる彼はまるで、『点をあげないと死ぬ』。そんな強迫観念に駆られているようだった。


 紅白戦が終了した。結果は7対1。先輩チームの勝利。新入生達の様子を見ると、諦めたように項垂れ切っている。

 まだスポーツが出来る身体があるだけでも幸せなのに、途中で諦めるなんて贅沢な奴等。

 翌日、例のクラスメイトがバスケ部の見学に行かないかと誘ってきたけれど、

 私の高校生活の捧げ先は決まっていた。誰かが、あの軟弱者達を支えてあげなくちゃ。


 ————————


 梅雨が去り、夏の大会が始まった。高校サッカーインターハイ県大会準決勝。3年生にとっては最後の大会。大会が近づくにつれて、部活動内には破裂寸前の水風船のような、張り詰めた緊張感が現れ始めた。

 だから、先輩マネージャー達から聞いたあの話が再浮上するのは、まあ、避けられないものだったのだろうと思う。


『大澤夏樹が長谷川稔を故意に負傷させ、選手生命を奪った』


 馬鹿げていると思う。こんな噂を本気で考える人間は、およそ、本気で何かに取り組んだことのない人間だけだ。自分の利益の為に、努力している人間を蹴落とす。ましてやそれをチーム内で行うことができる人間は、一部の異常者だけ。


 私が話した先輩は、いつも仏頂面をだけれど、小根は優しく臆病な朴念仁。その自信の無さを埋める為に、必死に努力する不器用な人。そんな人に、人を傷つける行動は取れるはずがない。


 帰り際、明日までの課題を教室に忘れてきたことを思い出して、友達と駅で別れ、学校へと向かった。


 すると、茜色に染まりかけた校庭で動き回る人影が目に止まった。影は大きく見えたけれど、その色は酷く薄く、今にも消えてしまいそうだった。

 気配を殺して近づくと、影の主は、夏樹先輩だった。


 ————泣いている。


 泣きながらひたすらにボールを追いかけ、マーカーを抜き去り、右足を振り抜いている。練習が終了してからもう3時間は経っているのに。


 悲しそうな顔をして、夕焼けに照らされた先輩。私は、その姿をどこかで見たことがあるような気がした。


 自分に罰を与えるかのように、一連の動作を繰り返す先輩。

 その愚かさすら感じる直向きさは、サッカー部のキャプテンだった頃の私を思い出させた。自分の価値がわからないから、ひたすら研鑽を重ねて勝利を求めた。


 ボールを蹴る音。


 その為だったら他人の気持ちなんて関係ない。そう思っていた。


 ゴールネットを揺らす音。


(男子も女子も似た音なんだな)


 ミスをした後輩を叱る私。


(あの子、あの時泣いてたっけ。もう名前も思い出せないけれど)


 グラウンドを削る、スパイクのグリップ音。


 明らかにチームメイトから避けられているとわかった、あの練習試合の日。

 帰り道、迫りくる車。


 突然、ぱあん、という大きな破裂音が響いた。先輩のシュートが外れ、壁に当たったようだ。その音を聞くと、私の脳は大きく揺さぶられた。


 ずっと蓋をしていた、あの日の記憶が思い出される。

 少しずつ透明になっていった校舎。そして、その直前に会った、泣きそうな顔の青年。再度、泣きながら、再びボールを蹴り込む先輩。


 ————あれは、あの日に会った男子は、夏樹先輩だったんだ。


 膝に手を当て、肩を上下させる先輩。 茜色に紫色が混じり、このまま世界が終わってしまいそうな空。鼻を刺す砂煙の匂いに、この世界に二人しかいないような錯覚を覚える。


 先輩のシュートが大きく外れると、私のすぐ近くに飛んできた。私は、少し歩いてボールを拾うと、先輩の元に歩み寄って、ある賭けを持ちかけた。



『西新井〜西新井』


 疲れ切った車掌の声で、微睡から覚める。まだ、私の最寄りまでは少しある。再度目を閉じ、私は物思いに耽る。

 ————ねえ、先輩。

 先輩は、あの日、明光との試合の前日にした賭けを覚えていますか?

『私の秘密を一つ教える』って。


 先輩はきっと、朴念仁だし、アホだから、『本の交換相手が私である事』を、その秘密だと考えているだろうけれど、本当は、もう一つあるんだ。


『私はずっと、貴方の事が忘れられないの』


 それが、私の秘密。

 私は、揺れる電車に身を預けて、そのまま少し眠りについた。

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