第14話:すみだ水族館にて

 青城祭まであと18日 2022年9月12日am 14:11:大澤夏樹、吉田朱音


「お待たせしました。コロンビアスプレモとカフェオレです」


 祝日休みの昼下がり、夏樹と吉田の前に、暖かな飲み物が置かれる。店員は、夏樹にコロンビアを置こうとしたが、吉田が慌てて自分のものだと促す。


「申し訳ありません。お食事はもう少々お待ち下さい」


 配膳のミスも含めて頭を下げると、女性店員はテキパキと厨房へ戻った。満席の店内だが、その立ち振る舞いは落ち着いており、余裕が感じられる。


 老舗の喫茶店は、外の賑やかな街並みと分断された、時間がゆっくりと流れる異世界のようだった。

 静けさが漂う店内は豪華絢爛なシャンデリアが天井から下がり、柔らかい光を落としている。エンジ色の絨毯は深みのある色合いで、長年にわたり人々の足音を吸い込んできた証がその上に刻まれている。


「残念。ケーキと一緒に写真撮りたかったな」

「少し待てばすぐに来るだろ」

「じゃあ、待ってようかな」


 年季の入ったアンティーク調のテーブルを挟んで向かい合う二人の周囲には、多くの客のざわめく声と、食器の重なる音が鳴り響いている。


 夏樹は、金色の縁のついたカップを摘むと、カフェオレを口に含んだ。

 絶妙に混ざり合ったミルクの甘みとコーヒーの苦味が滑らかに流れる。この計算された味は、およそ自宅では味わえない。


 ————いつ、切り出すべきだろうか。

 数ヶ月続いた本の交換相手は、吉田なのか?、と。

 チラリと吉田に視線を向けては、夏樹は震える指でカフェオレを啜る。


「今更ですけど、私服姿で会うのって変な感じですね」


 吉田はケーキの到着を待つようで、未だコロンビアに口をつけずに真っ直ぐに夏樹を見つめている。


「確かに」

「先輩は、もっとキレイめな格好だと思ってた」


 前髪をいじりつつ、吉田はさらに続ける。


「そうか?」

「はい。まさか古着系男子だとは思ってなかった」

「正確には違う。トラッドコーデと言ってくれ」


 吉田は、「うわーめんどくさ」と苦笑いする。


 夏樹は、白いリネンの開襟シャツに紺のチノパンツを合わせ、その足元は、先日復刻された、アディダスのサンバを合わせている。伝統的な要素と流行を混ぜた普遍的なスタイリングだ。


「それはこっちも同じだよ。吉田はもっとカジュアルな服装だと思ってた」

「えー、なんか嫌だな」


 吉田は、不服そうに頬を膨らませると、身につけたワンピースをつまみ上げ、


「どうです。似合ってます?」


 困ったような照れ笑いを見せた。

 夏樹は、目の前の、着飾った少女を眺める。茶髪のセミロングヘアは丁寧に巻かれ、柔らかなカールが肩にかかっている。その髪はシャンデリアを反射して、淡い光を纏うようだ。

 ワンピースは淡いクリーム色で、清楚ながらも大人っぽさを感じさせるデザイン。胸元にはさりげなくレースの装飾が施されており、女性らしいシルエットが際立っている。


「まあ……似合ってるんじゃないか?」


 夏樹は、部活動の姿とはまるで違う彼女に、目を逸らしつつ答えた。


「なんですか、それ」


 カップを両手で抱え、ブラックのまま飲む吉田の耳元は、ほのかに赤く染まっている。


 きっかけは、一通のメッセージだった。

『先輩、生きてますか?』

 暴行の後悔と自責にくれた夜、夏樹は、吉田からのメッセージに返信をした。

 すると彼女から、賭けの催促が来たのだ。


 賭けの内容は、夏樹の得点でチームが勝利すれば、吉田が自身の秘密を教え、チームが敗北すれば吉田の命令を一つ聞くと言うものだった。

 接戦の末、夏樹達、青城高校は敗北し、それにより吉田の勝利となり、彼女はその報酬として、祝日の休校日に外出を要求した。


 そのまま彼女に導かれ、駅ビルでショッピングをした後、昼食を適当に済ませた。そして今、登り切った太陽から逃れるように、二人は喫茶店で休憩をしている。


「このお店、ずっと気になってたんですけど、客層が悪いから中々一人で来られなくって」

「確かに、女子高校生が一人で来る場所ではないかもな」


 夏樹が視線を巡らすと、店内には、ホスト風の若者や、虎柄のスーツを着た男など、明らかに堅気ではない人間達が散見された。


「お待たせしました。自家製チーズケーキとチョコレートケーキです」

「来た来た。ありがとうございます!」


 吉田は笑顔のままニューヨークチーズケーキを写真に収めると、即座にそれを口へと運ぶ。スプーンが彼女の柔らかな口に消えると共に、頬が緩んだ。


「美味すぎ! 先輩も一口食べてよ」

「俺のチョコケーキ食いたいだけだろ。まあいいけど」


 夏樹は、差し出された皿からチーズケーキを一口分裁断して口へ入れた。その最中、吉田は夏樹のチョコケーキを二口頬張る。


「確かに美味いな……っておい。食い過ぎだ馬鹿」

「隙を見せる方が悪いんすよ。あ、チョコケーキも最高だ」


 口に含んだまま、忙しそうに話す彼女を見て夏樹が笑う。


「この後はどこに行くんだ?」


 吉田が、チョコレートケーキをコーヒーで流し込むのを観ながら、夏樹は質問をした。


「私、水族館観たいです。すみだ水族館」

「いいな。水族館なんて小学生以来だ」

「それは行かなすぎですよ。水族館は心の洗濯なんですから」

「それは『風呂は命の洗濯』じゃないか?」

「そうでした。あはは」


 夏樹はチョコケーキを貪っては、カフェオレを流し込む。数ヶ月ぶりの菓子と砂糖は、優しい甘さで、体に欠けていた栄養素が満たされていくようだった。


 外国人観光客でごった返す浅草寺前を避けて、二人は静かな道を進む。

 周囲の賑わいとは対照的に、二人の進む道は落ち着いていて、時折聞こえる車の音だけが聞こえるだけだ。


 やがて、爽やかな風が吹く、「すみだリバーウォーク」に出た。高架線の下に設けられた隅田川を横断する短い橋は、数人の歩行者がいるだけだ。

 依然として日差しは強く、川面が光を反射して白く輝いていたが、時折吹く風が二人を涼ませる。


 吉田の茶髪が風に揺れる。夏樹は前を歩く彼女から視線を外し、隅田川を眺める。すると、太陽光で輝く白く隅田川を、遊覧船がゆっくりと横断していった。

 その光景に感嘆の声を上げた後、吉田は吐き出すように語り始めた。


「でもよかったです。先輩、意外と元気そう」

「……そうか?」


 ぼんやりと答える夏樹に頷くと、吉田は意地の悪い顔になった。


「私、てっきり部屋で蹲って泣いているとばかり思ってましたもん」


 一瞬、夏樹の顔が固まる。


「え、もしかして当たってた……?」

「……吉田は小説とか読むのか?」

「うわ、はぐらかした」


 吉田は、けらけらと笑う。


「結構読みますよ。先輩も?」

「ああ。よく読むよ」

 がたん、という大きな音と共に橋が揺れる。二人のすぐ上を電車が通り過ぎたのだ。

 吉田は電車が通り過ぎるのを待ってから、ゆっくりと口を開いた。


「いいですね。最近何読んでます?」

「『風の又三郎』だな。ノスタルジーと身に迫る恐怖が良い」

「……そんな怖い話でしたっけ?」

「俺にとっては、とても怖い小説なんだよ」

「ふーん」


 吉田は興味を示しつつも、その理由を深く追及しなかった。

 やがて橋を渡り終えると、二人の目の前に、一際大きな公園が現れた。中央にある芝の広場で幼稚園の黄色い帽子を被った子ども達が走り回り、エプロンを着た教員達が彼らを追いかけている。

 二人は信号を渡ると、子供達を眺めながら、ゆっくりと公園に入る。


「先輩知ってます?『風の又三郎』って、旧作版と新作版があるんですよ」

「そうなのか?」

「宇田先生が言ってました。宮沢賢治って、一度、死の瀬戸際を体験したんですよね。それが影響して、旧作と新作で内容が少し変わってるんですって」

「へえ。相変わらず詳しいな、あの人は」


 強面で厳格なサッカー部顧問であるにも関わらず、宇田の担当科目は現代国語。更には、文学作品に対して造詣が深く、夏樹は、彼が時折語る豆知識が好きだった。


「それで、どんな違いがあるんだ?」

「旧作は、詩的な表現が多いフワッとした文章だったのに対して、新作はより写実的な描写が増えたんです」 


 こちらに向かって手を振る幼稚園生達ににこやかに手を振り返しつつ、吉田は続ける。


「宇田先生が言うには、死がより明確になった事が、作中描写の明確さに繋がってるんじゃないかって」

「なるほど」


 公園を抜けると、年季の入った住宅街の後ろに、スカイツリーが姿を現した。夏樹は地図アプリの案内を止め、勘を頼りに行動を進んでいく。


「先輩はどっちの方が好みですか?」

「写実的な方だな」

「えー、なんで。詩的な方がロマンチックで良くないですか?」

「ロマンチックなのは、どうも俺には合わない」

「なるほど。先輩らしいや」


 そうして批評を続けていると、二人はいつの間にかスカイツリーに到着した。

 エスカレータで上階に登ると、手早く手続きを済ませ、すみだ水族館へと入場する。


 外との明暗の差に目が慣れ始めると、薄暗い照明の中に浮かぶ、淡水魚の水槽が二人を出迎えた。

 真紅のラインが入った小さな魚、が水草の間から顔を出している水槽。

 彩色の小さな海老が、岩の影で只管に腕を動かしている水槽。

 一つ一つの水槽を観察しつつ、二人は足を進める。

 祝日の水族館はやはり人が多いが、身動きが取れないほどではなく、余裕を持って観覧できる。


 幻想的な室内音楽を耳にしながら、二人はゆっくりと薄暗い室内を歩く。冷房に冷えた空気も相まって、夏樹はまるで、深い海の底を歩いているかのように思えた。


「あ、クラゲだ」


 少し進むと、一際暗い空間に無数の水槽が佇む、クラゲの展示コーナーへと至った。

 足早に進むと、屈んで水槽に指を触れる吉田。その横に夏樹も屈む。

 二人の視線の先では、青いライトに照らされたクラゲが、楕円形の水槽をゆっくりと、揺蕩うように浮かんでいる。


「透明なのに、ちゃんとそこにいるのが不思議ですよね」

「まるで水が生きているみたいだよな」

「なんか今日ポエミーですね。先輩」


 青いライトに照らされた水槽の中、ミズクラゲがふわりと浮かび上がる。まるで水そのものが生命を持ったかのように、幽玄な輝きを放つ透明な体がゆっくりとした動きで漂う。


「クラゲ、好きなのか?」


 頷く吉田。そのまま、浮かぶクラゲの流れを視線で追いながら、続ける。


「好きですけど、少し怖くもあるんですよね」

「なんでだよ?」


 夏樹は、吉田に視線を向ける。彼女はそれにも気付かぬまま、魂が抜かれたようにクラゲを見つめている。


「ここまで透明だと、周りとの区別がつかなくなって、まるで自分が存在していないって錯覚してしまいそうだなって」

「……確かに」


 夏樹は、吉田の言葉を聞いて、透明人間のことを思い出した。自分も、更には建物さえも透明にできる彼女には、この世界はどう映るのだろう。

 水と区別がつかない透明なクラゲのように、彼女にとってこの世界は、そもそも存在しているかどうかすら、認識できないのではないだろうか。


 淡水魚にクラゲ、そして海水魚の鑑賞ゾーンを抜けると、二人は中央広場へと至った。


 大きな間取りの空間には、巨大な海水魚用の水槽とペンギン達が住まう居住区が設けられている。二人は、二階からゆっくりと坂を下って、海水魚用の巨大水槽を目指した。

 ペンギン達の獣のような香りや、オットセイの鳴き声を感じながら、ゆっくりと歩く。


 その最中、夏樹の手を、柔らかな手が包んだ。

 ぎょっと驚いて視線を下に移すと、吉田が、夏樹の長い指を握りしめている。


 ————おいおい、おいおいおいおい!


 張り裂けそうになる鼓動を聴きながら、夏樹はゆっくりと坂を下る。全身の神経が、手のひらに集中する感覚と共に、汗が滲む。

 すると夏樹は、吉田の手が小刻みに震えている事に気がついた。緊張によるものかと思ったが、その震え具合は常軌を逸している。恐る恐る吉田に視線を巡らすと、彼女の肌が普段よりも一層青白くなっていた。


「おい、大丈夫か?」


 夏樹は、はやる気持ちを抑えて、あくまでも平生を装って質問する。


「ご、ごめんなさい。坂を下るまででいいので……」


 夏樹は無言で頷くと、彼女の震える手をそっと握り返し、慎重な足取りで坂を下った。


 10メートルはあるだろう青い水槽。その巨大な箱の前には、青く揺れる水のカーテンが静かに広がっている。天井から注がれた、幻想的な光が水槽の底にゆらめき、魚たちの影を映し出した。


「ほら。飲み物」

「あ、ありがとうございます」


 吉田は、夏樹の手渡した飲料水を受け取ると、ゆっくりと喉を動かした。

 夏樹はそのまま、水槽前に備え付けられた柔らかな席に腰を下ろす。他の座席は騒ぐ子供やカップルで埋め尽くされており、おそらくは一人用の小さな椅子しか空いていなかった。

 その為、ソファは少し狭い、肩が触れ合う距離感だが、どちらもそれを気にする様子はなかった。


「すみません。急に……その、手を握ってしまって」

「気にするな」


 申し訳なさそうに項垂れる吉田。数分すると、病的な白さも温かみを取り戻してきた。


 ————ガクだったら、もっと上手く返せるのだろうか。


 沈黙の間、夏樹は堂々と泳ぐシロワニを眺めつつ、気の利いた返しができない不甲斐なさを恨んだ。


「……前に話しましたっけ。私、高所恐怖症なんです。それも重度の」

「いや、初耳だ」


 夏樹と吉田は、視線を交わさずに水槽を眺める。ナポレオンフィッシュがゆったりと泳ぐと、周りの小魚達が逃げるように動き回った。


「中学生の頃に大きな事故に巻き込まれて以降、高い場所が怖いんです」

「そうだったのか。ごめんな、気付けなくて」

「いいんです! 私も確認不足だったし」


 水槽の中には、赤や黄色といった極彩色の魚たちがゆったりと泳ぎ、時折その動きが水面に反射して、幻想的な帯を作り出している。時間がゆっくりと流れる水槽に反比例するように、夏樹の心臓の鼓動が早まる。


「なあ、ひとつ聞いていいか?」

「……なんですか?」


 優しく答える吉田の声には、その内容を確信しているような雰囲気があった。


「え……っと」


 吉田は水槽を優雅にかき分けるシロワニを見つめる。

 その穏やかな動きに合わせるかのように落ち着いたまま、吉田は夏樹の言葉を待った。


「本の交換相手って吉田か?」

「……っぷ、あはは!」


 吹き出す吉田。


「……おい。なんで笑うんだよ」

「ごめんなさい。あまりにもまっすぐな質問だったから。でも、先輩らしいや」


 夏樹は吉田を見つめた。薄暗い藍色の光が、クリーム色のワンピースを水色に照らしている。アジの大群がソファ前を横切り、しばしの静寂が訪れる。

 すると吉田は、水面で息継ぎをするように、ゆっくりと口を開いた。


「はい。私です。ずっと隠して、すみませんでした」

「そう……だったのか」


 夏樹はその言葉を聞くと、心臓の鼓動がおさまっていくのを感じた。


「幻滅しました?」

「まさか! 違かったらどうしようと思っただけだよ」

「そうですか。よかった」


 それきり二人は、黙って水槽を眺める。

 小笠原諸島の生態系を模した藍色の水槽に、多くの魚達が踊るように周回している。


 この魚達はここが小笠原諸島を模している事を知っているのだろうか。それとも、外に海がある事さえ知らぬまま、この快適な、競争も存在しない世界で死んでいくのだろうか。

 ————けれど不思議と、それも悪くないと思えた。


 夏樹は、吉田の手元を見る。先ほど触れた、柔らかく儚げな手。


 無防備に差し出されたこの手にもう一度触れたら、彼女は一体どんな反応をするのだろう。怒るのか、気味悪がるのか、それとも————


「あーもう、心臓止まりそう!」


 頭を掻きむしる吉田。夏樹は、その態度の急変にギョッとして、手を引っ込めた。


「あの先輩が勇気出して聞いてくるってことは、何か、本題があるんでしょう?」


 吉田は、震える声のまま、夏樹に向いて語りかける。いとも簡単に考えを見透かされ、夏樹は力無く笑った。

 こいつには、やはり敵わない。


「ああ。大正解だよ」

「じゃあ、何が聞きたいんです?」


 部活時のような快活な雰囲気に戻った吉田に安心感を覚えつつ、夏樹はカバンを漁り、『風の又三郎』を取り出した。


「この暗号に見覚えはあるか?」


 その背面に油性ペンで書かれた、数字の羅列を見せる。


「ないです。本に落書きなんて絶対にしません。私」

「それもそうだよな」


 夏樹は改めて、文庫本の裏を眺める。無作為にマジックペンによって雑に描き殴られた暗号は、おどろどろしい、書き手の感情が込められているようにも感じられた。


「というか、酷くないですかこれ。なんでこんな悪戯をするんだろう」

「悪戯だと良いんだけどな」

「え、どう言うことですか」


 夏樹は暗号である事とそれの解読方法、さらには『女子更衣室にはカメラが設置されている』という内容を表していることを説明した。その間、吉田は黙ったまま真剣な顔つきで聞き入っていた。


「先輩。正直な感想を言って良いですか」

「ああ」


 目を瞑り、溜めを作る吉田。


「滅茶苦茶にワクワクします! 推理小説みたい」

「そう言うと思ったよ」


 苦笑する夏樹を、青い光が照らす。


「私にも、調査、参加させて下さい」

 吉田は、ずい、と夏樹の方に身を乗り出した。

「それは……」

 逃げるように仰反る夏樹を逃すまいと、吉田は、捲し立てるように続ける。

「もしかして先輩達、二人で女子更衣室を調べるつもりなんですか? そんな事、青城高校に通う女子生徒の一人として許せません」

「ぐ……」


 ————吉田の主張は尤もだ。女子更衣室に侵入するリスクは俺もガクをずっと懸念している。特に俺は、すでに停部処分を下されている身、侵入がバレれば、停学、いや退学処分を下されてもおかしくは無い。


「ほら黙った。先輩も判っているんでしょう? 女子の手伝いが必要不可欠だって」

「敵わないな、吉田には」


 夏樹は破顔した。ほんの一年の差しかないだけなのに、何で俺達は先輩と後輩などという区分に分けられているのだろうか。彼女の方が、よっぽど俺より理知的だし、冷静な判断ができているというのに。


「じゃあ、私も参加させてくれるんですね?」

「ああ。寧ろお願いしたい。手を貸してくれ、吉田」

「ま、まあ、わかれば良いんですよ」


 吉田は自分が思ったよりも夏樹に近づいていた事に気づき、体勢を戻した。見た目にたがわぬ、楚々とした雰囲気を纏った彼女は、髪を指先で弄びながら続ける。


「そしたら今日はもう帰りましょうか。明日から文化祭準備期間で部活動も短縮されるので、午後からなら参加できると思います」

「ありがとう。追々、時間帯を決めようか」

「はい!」


 二人は水族館を後にしようと立ち上がり、退場口へと向かう。すると、若い女性の声をした場内アナウンスが響いた。


『これより、ペンギンショーを開催します。中央のペンギン広場にご注目下さい』


 その声を聞くや否や、吉田は夏樹の裾を引っ張った。


「先輩、ペンギンショーだって、ペンギンショー!」

「見てから帰るか」


 夏樹は必死に平生を装いながら返す。しかし、その返事を待つ前に吉田は裾を掴んで、ペンギン広場へとぐいぐい進んで行く。夏樹は笑いながら、その喜劇の舞台へと向かった。



 水族館から出ると、既に日は暮れ、眩い茜色の光が世界を包んでいた。

 冷房によって冷え切った体が、柔らかな陽の光に当てられて温かみを取り戻してゆく。その生ぬるい感覚が、やけに心地いい。

 夏樹は本来、少し歩いた違う駅から電車に乗るが、吉田を駅まで見送ることにした。


「今日はありがとうございました。とても楽しかったです」

「俺こそ。いい気分転換になったよ」


 それは、彼の本音だった。雑居ビルを通り過ぎると、夕暮れが二人を照らし上げた。網膜は未だその明るさになれず、夏樹達は目を眩ませながら歩く。


「それはよかった」

 ほっと胸を撫で下ろす吉田。


「先輩は、これ以降どうするんですか?」

 車や歩行者の雑音に溶け込むように、吉田は小さな声で語る。


「それが、文化祭の手伝いで少しの間、生徒会の手伝いをすることになったんだ。昨日、顔合わせにも行った」

一瞬、固まる吉田。


「そう、でしたか……」

「吉田……?」

「な、なんでもないです。ただ、少し気をつけて下さいね」

「何にさ」

「……ええと、生徒会には一人、厄介な子がいるから」


 細い人差し指を立たせ、神妙な顔つきで忠告する。


「まあ、気をつけるよ」


 大方、佐々木の事だろうと思いつつ、夏樹は苦笑する。その姿に吉田は頷いた。

そのまま、二人は無言で街中を歩いた。

 子供を後部座席に乗せた主婦の自転車や、疲れ切った様子のサラリーマン。帰路に着く人々を眺めていると、夏樹は、このまま今日を終わらせるのが物寂しく感じられた。


 しかし二人は、今日の終焉、曳舟駅へと到着した。


「じゃあ、気をつけて帰れよ。今日はありがとう」

「こちらこそ。また学校で!」


 地下改札へと繋がる階段の前で、最後の言葉を交わし、夏樹はゆっくりと降りてゆく吉田を見送った。

 そのまま踵を返して、イヤホンを着用しようとすると、


「先輩!」


 階段を駆け上がってきた吉田に腕を掴まれた。上擦った声に、若干息が上がっている。


「どうした?」

「あ、あの……えっと……」


 慌てて、夏樹の腕を離すと、数秒の間、しどろもどろになる吉田。


「……停部期間が明けたら、また戻ってきてくれるんですよね?」


 夏樹の前で俯いたまま、振り絞るように口を開いた。


「当たり前だ。今度はハットトリックして俺が勝つ」


 夏樹は、垂れ下がった吉田の茶髪を見ながら言葉をかけた。


「お。言いますね」


 その言葉を聞くと、吉田は夏樹に微笑んだ。その顔は、紅潮しきっているが、茜色の夕暮れに染められており、夏樹に気づかれる事もなかった。


「また、先輩がサッカーする所、見せてください。私、ファン1号なんですから」

「おうよ、任せときな」

「約束ですよ。破ったら怒りますから!」


 吉田は、普段通りの笑顔を取り戻すと、地下の闇へと消えていった。

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