第10話:泥中の花

 明光への謝罪、宇田からの停部処分を告げられた後、夏樹は一人でボールを蹴った。力無い、そのシュートは後者裏へと消えてゆき、夏樹は昨日と同様に、本校舎と部室棟をつなぐ渡り廊下へと歩いていく。


 その最中、夏樹の視界に映り込んだ校舎では、茜色の景色の中、数人の生徒たちが、文化祭へ向けた準備を行なっていた。

 トンカチや、生徒の笑い声が響く景色から目を背けて、スパイクが闊歩する音とともに、夏樹は一人歩き続ける。

 角を曲がると、校舎の影に包まれた。火照った体が冷えていく感覚。


『何を苦しそうにしているんだよ』


 すると、その闇に導かれる様に、底に溜まった膿が顔を覗かせた。


『お前は、長谷川先輩の為に殴ったんじゃない。ただ、敗北した喪失感と無力感を発散したかっただけだ』


 心の底から湧き上がる冷静な声が、全て忘れ去りたい彼に、どうしようもない現実を突きつける。


『やはり、親父が正しかった。お前は一番になんてなれやしない』


 夏樹は歩くスピードが上げると、涙を流したまま自動販売機の前を通り過ぎ、躑躅の生えた中庭を見回す。

 しかしボールは見当たらない。意を決した夏樹は、躑躅にその長い腕を突っ込むと、息も絶え絶えに枝をかき分けてボールを探す。枝先が腕を割くのも気に留めない。


「これ、貴方のボールよね?」


 爽やかな、聞き覚えのある女子生徒の声が響いた。

 夏樹がその声に振り返ると、ボールを手に抱えた女子生徒がいた。

 身長は、夏樹より少し低いくらいで女子生徒としてはかなり高い方だろう。

 すらっとした縦長のシルエットに着た白調のセーラー服が、黒い絹の様に艶やかな長髪を強調している。そして、透き通る様な白い肌にシンメトリーに配置された漆黒の瞳が、夏樹を真っ直ぐ見据えていた。


「……泣いてるの?」


「え……?」


 その刃物の様な鋭い美しさに目を奪われ、夏樹は、自分が泣いている事すら頭から霧散していた。慌てて涙を拭う。


「兎に角、これ。貴方のボールよね?」


「あ、ありがとう」


 女子生徒からボールを手渡される。白く細長い指が少し、夏樹の指に触れた。


「こんな暑い日でさえ試合があるなんて、可哀想ね。サッカー部」


「まぁ、そうだな」


 緊張や涙を見られた羞恥心で、夏樹はうまく返答できない。そんな彼をよそに、彼女は軽やかなステップで距離をとり、夏樹の正面に立った。


「ねぇ。そのボール、あたしに投げてみてよ」

「は……?」

「いいから。早く」

「う、うん……」


 彼女の膝くらいの高さに、夏樹は優しくボールを投げた。

 その瞬間、彼女の黒い髪が流れて儚げな細い脚が動くと、焦茶色のローファーで運動エネルギーを吸収した。吸い付く様なトラップ。

 その後、ボールを身長程に浮かせてヘディングを放つと、ボールは25度の軌道で夏樹の手元へと飛び帰った。


「す、凄いな! 経験者……なのか?」


 夏樹は、自分でも気付かぬうちに笑顔で声を張り上げていたのに気づく。その表情が間抜けだったのか、


「あ、笑った」


 彼女は、真っ直ぐに微笑んだ。夕風が吹き抜け、直ぐ横に生えた柳の梢が揺れる。


「なんか喉渇いちゃった。ね、自動販売機行こ」


 女子生徒は、夏樹の返答も待たずに、長い黒髪を翻して前へ歩き始める。


(俺もついて来いって事……だよな?)夏樹は慌てて彼女の後を追った。


 電子決済の音がなると同時に、炭酸飲料がごとりと、取手口に提供される。女子生徒は細い指でそれを取り出すと、夏樹の方に投げ渡した。


「ありがとう」

「ん」

「今、手持ちがないから後で返すよ」

「いいわよ、別に。試合お疲れ様でしたって事で」


 彼女は、自分の分の炭酸飲料を買いながら、夏樹の言葉を雑に流した。

 先ほどの音が繰り返された後、女子生徒はしゃがんでサイダーを取り出して立ち上がった。そして、体幹の通った真っ直ぐな姿勢で、いい考えを思いついた子供の様に切り出す。


「そしたら、今度何かの形で返して。お菓子でもなんでもいいからさ」

「わかった」

「よし。あ、あそこ座れそうだよ」


 二人は中庭に移動すると、ベンチに腰掛けて横並びで茜色の校舎を眺める。灰色のコンクリートで出来た体に木で出来た座面。ベンチは中央が分断されているタイプではないが、二人の間には、ちょうど人一人が入れるだけのスペースが空いている。

 そんな二人の間を、雨を予感させる、少し湿った、生温い風が通り過ぎた。


 ————なんだこの状況は。


 一息ついてようやく、夏樹は、見知らぬ女子生徒に涙を見られ、そのままユニフォーム姿で共にベンチに腰掛けている状況の異常さに気付いた。

 事態を探る様に、夏樹は、無言のままサイダーを見つめる彼女に視線を移した。

 校内履きの色から判断するに、夏樹と同じ二年生である。


 白くきめ細やかな肌に、印象的に横たわる切れ長の漆黒の目が校舎を見つめている。ベンチに腰を下ろす際の所作やシワ一つない純白のセーラー服が、その生まれながらの美貌に、理知的な雰囲気を醸し出す。


 名工の作った日本刀の様だと、夏樹は感じた。見るものを圧倒する美しさの中に、全てをスパッと切り落としそうな様な鋭さを孕んでいる。


 この前、夏樹が朝のホームルームで見た、西園寺薫であった。


 西園寺は、夏樹の視線に気付いていない様で、そのままサイダーの蓋を開けると一口飲んだ。薄く柔らかな唇がアルミ缶に触れ、細長い首が上下して炭酸を体内へと受け入れる。


「ぷはーっ! やっぱこれだよ、これ!」


「……おっさんみたいな感想だな」


 夏樹は、印象と違う彼女の仕草に、なんだか騙された様な気がした。


「うわ、ひどい。脱水症状寸前だった哀れな乙女にそんな事言うなんて」


 女子生徒は夏樹を睨むと、再びサイダーを飲んだ。彼女のサイダーを飲みこむ、喉の音が夏樹まで聞こえてきそうなほどの静寂。


「……あのさ、嫌だったら答えなくて良いんだけど」


 しばらくして、肘掛に体を預けつつ、彼女が切り出した。


「なんで、6番を殴ったの?」

「……見てたのか」


 さしずめ、ジュースは質問料ってところか。

 夏樹は、痛みを伴う、周囲から向けられた、犯罪者を見る様な視線を思い出した。


「言っとくけど、誰かに言いふらそうとか考えてないからね。単純な興味」


 そんな夏樹の思考を読み取ったかの様に、西園寺は弁明した。


「だと良いけど」

「で、なんで殴ったの」

「単純にムカついたからだよ。6番に煽られて、憂さ晴らしに殴っただけ」


 夏樹はサイダー缶を開けずに、両手を使って回転させ始めた。


「本当かなぁ。君、そんな投げやりな人間じゃ無さそうだけど。どっちかと言うとチームのことを考えて踏みとどまるタイプじゃない?」


 少女は缶のタブ部分をギターの弦を弾く様に弄ぶ。

 びいんびいんと淵が振動する音が人気のない校舎に吸い込まれて行く。


「買いかぶり過ぎだよ。まず、俺サッカー嫌いなんだ。汗臭いし痛いし」

「へえ?」

「8パーセント。この数字が何かわかるか?」


 首を横に振る西園寺。


「大学に行ってもサッカーを続ける割合だよ。そして大学卒業後にプロになる割合はその2パーセント弱しかない。本当に狭き門なんだ」


 西園寺は黙って夏樹の話を聞いている。


「その中でも、国内リーグに内定したとしても十分な生活費を稼げる選手はほんの一握りだ。それに故障すれば職を失い、路頭に彷徨うことになる」


 夏樹は更に続ける。


「プロサッカー選手を目指すなんてバカだよ。高校までに留めておいて、三年以降は勉強に専念するのが堅実な選択だ」

「ふーん……じゃあ、なんで今サッカーやってるのよ」

「別に。単なる体づくりだよ」

「ダウト。仮にそうだったら、試合後に残って泣きながら自主練習なんてしません」


 女子生徒は、犯人を追い詰める探偵よろしく、夏樹に指を差した。

 逃げ場を失った夏樹の舌打ちを彼女が咎めたのち、夏樹は自白を始めた。


「……俺のせいで怪我して、もう二度とサッカーができなくなった先輩がいるんだ。その人に対する罪滅ぼし」


「へー……」


 彼女は、夏樹の自白を聞くと、再びサイダーに口をつけた。それきり、押し黙る。

 そんな二人を笑うかのように、姦しい女子生徒達の笑い声が中庭に響いた。

 誰にも話して来なかった内容を伝えたにも関わらず、興味がなさそうな彼女を尻目に、夏樹は勢いよく缶の蓋をこじ開けた。それと同時に、沸騰したヤカンから熱湯が溢れる様に、サイダーが溢れる。


「うわっ……!」

「あはははは! そりゃずっとくるくる回してたらそうなるって……! あはは!」


 そんな夏樹を見て、彼女はサイダーを片手に笑う。夏樹はジトッとした冷ややかな視線で睨むと、甘ったるい砂糖水でベタついた手をソックスで拭いた。


「あーおっかし。……やっぱりさ、私、あなたが本当にサッカーが嫌いとは思えないよ」

「なんでだよ」

「今日の試合、誰よりも走ってたじゃん。それに後半の一番きつい時間帯もあなただけがまだ勝てると思って行動してた」

「別に褒められたものじゃないさ。先輩達が勝手に諦めただけだろ」


 夏樹はすねた子供の様に、ぶっきらぼうに答える。


「それに、今もそう。サイダーで汚れた手を、学校所有のユニフォームじゃなくて、私物のソックスで拭いたでしょ。それってチームに対する帰属意識の表れなんじゃないの?」

「汚れが見つかって怒られたく無いだけだ」

「本当かなあ……?」


 雑に答える夏樹を、じーっと睨みつける彼女。


「どうもしっくり来ないんだよね。なんか言い訳じみてるっていうか」

「勝手に他人の感情を考察するな。気持ち悪い」


 そう言いつつも、夏樹は内心驚いていた。

 本来、彼は他人と話す際に打算的に話す傾向がある。相手が欲しがる言葉や表現を見定め、心地よいツボを押す様にタイミングよく言葉を発するのだ。しかし、目の前の彼女との会話は、自分の根底にある本音ばかりだった。


 それに、先ほどまで自分を包んでいた黒い感情が、流れ落ちているような感覚を覚える。それはまるで、一年前に屋上で出会った、彼女との会話にも似ていた。


「言ってろ言ってろ。一人なりたがりサッカー大好き小僧」

「ふん」


 夏樹は、彼女と逆方向、ベンチの横に置かれたパンジーの植木鉢を見つめる。

 そんな彼を気にせず、女子生徒は試合の講評を始めた。


「兎に角さ、凄く良い試合だったよ。乱闘っていうオマケもあったし」

「ぐっ……」

「正直、相手の方が格上だったと思う。相手のディフェンスライン全員体格良いし、中盤と連動したゾーンプレスもかなり苦しかった。けど君、点取ったし」


 彼女は黒い髪を耳にかけてグビグビと流し込み、講評を続ける。


「君って180cmはあるでしょ。しかもスピードもある上に汚い事もやってくるから相手からしたら相当嫌だよね。おまけにシュートも上手い。特に1点目の突破はやばかった。私、ファンになっちゃったもん」


 夏樹の恵まれた体格に視線を向けながら、流暢に話す彼女。


「……でも、負けは負けだろ」


 夏樹は体勢を変えて下を向くと、振り絞る様に口を開いた。


「んー。まあそうだけれど、私にとっては心揺さぶる最高のゲームだった。以上!」


 西園寺は、夏樹を真っ直ぐに見つめると、サイダーを揺らして断言した。

(それは理屈になってないだろう……)と夏樹は思ったが、第三者から自分のプレイを褒められた事がなかった彼にとって、それは十分すぎるほどの救いの言葉だった


「私さ、今日嫌なことがあって凄く落ち込んでたんだ。それで気分転換にサッカー部の試合を見たら、がむしゃらに頑張る君がいて、すごく元気付けられたの」


 サイダー缶を眺めながら語る彼女は、先ほどの明るさが消えている。しかし夏樹は、彼女の方を見ることが出来ずに下を俯いていたため、その表情を見ることはなかった。


「だから、ありがとう。大澤夏樹くん。それが言いたくて声かけたんだよね」


 夏樹は彼女が自分の名前を呼んだことに驚いて視線をあげた。交差する視線。


「ちょっと待て、なんで、俺の名前を……」


 夏樹の視線の先で、西園寺は口元が上がっている。その可憐さに狼狽えつつ、夏樹は、あの朝に思った、一つの疑問を投げかける。


「俺たち、前に会ったことがないか?」

「ナンパかよ。やだー」


 両手で、細い体を囲いながら、クネクネと動く西園寺。


「秘密。ただ、一つお願いを聞いてくれるなら教えてあげようかなあ?」


 その後、動きを止めて断言する。


「なんだよ、そのお願いって」


 ふふんと、ふんぞり帰った後に、西園寺は断言する。


「生徒会の臨時メンバーとして、文化祭の諸活動を手伝って欲しいんだ……!」


 今度は、力無く懇願する。


「今日も、人手不足のせいで大変な思いをしたの。お願い、この通り!」


 合掌する西園寺。


「わかった、わかったよ。ちょうど停部になった所だしな」

「やった、ありがとう!」


 夏樹の困惑に満ちた返事に、満足げにうなずいた西園寺は、腕時計を確認すると急に立ち上がった。


「やばい、まだ仕事残ってるんだった。もう行かないと」


 そう言ってサイダーを一気に飲み干した。甘いミルクの様な香りが彼女の座っていた場所に香ると同時に、すらっとした全身が夏樹の視界に映る。

 夕焼け空を切り裂いて佇む彼女は、名刀の様な妖艶さと美しさを見に纏いつつも、ほんの少しの衝撃で割れてしまう様な危うさがある。

 そんな彼女を、夏樹はこの世の物とは思えなないほどに美しいと感じた。


「じゃあね。明後日の放課後、生徒会室まで来て」

「わかった」


 踵をかえして夕陽が反射する本校舎に消えていく西園寺だったが、急ブレーキをすると、夏樹はの方へ駆け戻った。


「どうした」

「これ、私のアカウント。あとで登録しておいて!」


 メモの切れ端を手渡すと、そのまま立ち去る。手を振りながら、軽やかな足取りで本校舎へ向かう西園寺を茜色の太陽が赤く染め上げた。夏樹は、ソーダを口につけた。摂生を始めてから一年ぶりの炭酸飲料はやけに爽やかで、それでいて甘い。乾燥した喉に炭酸が少し染みるが、そのピリついた感覚すらも不思議と心地良いと夏樹は感じた。

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