第17話:透明な呪い➂


 得点を告げるホイッスルが鳴り響くと、明光の選手達の叫び声が、炎天下に木霊した。

 これで点差は一点。0対1で明光高校のリードである。


「プレッシャー、プレッシャー、プレッシャー!」

「さあ行こうぜどこまでも! 走り出せー走り出せ!」


 観客席からは、一際大きな明光のチャントが上がっており、勝利を確信しているかのようにさえ思える。

 その光景を、夏樹は息を切らしながら見つめていた。

 昨日の寝不足が祟って、全身は異様なほどに軽い。いくらエンジンを稼働させようと、肝心の燃料が抜けているような頼りない虚脱感が全身に溢れている。

 前髪をかけ上げると、風に靡く応援旗に、『不撓不屈』の文字があった。しかし、試合も終了間際に差し掛かった今、全身に溢れる疲労から闘志の火は消え掛かっている。


 宇田によって夏樹に言い渡された役割は、二つあった。一つは、ポストプレイである。屈強な体格の明光ディフェンス陣に対策として、味方からのパスを最前線で受け取りキープする。そして夏樹を起点に、周囲の選手へとパスを展開するという戦術だ。

 もう一つは、ボールを追随し、敵のサイドバックへとボールを誘導する事であった。

 その二つを徹底したものの、それがどれだけ有効かは、現状が物語っている。

 いくら、夏樹がボールを抑えてパスを出そうと、最後の壁として石岡が立ちはだかり、青城高校の猛攻をすんでの所で防いだ。その勇猛果敢な守備対応は、昨年に夏樹が対峙した頃よりも、磨きがかかっているように思えた。


「このまま落ち着いて凌ぎ切るぞ!」


 味方を鼓舞する声を張り上げる、石岡。それに応える声が敵陣から響き渡る。

 打って変わって、追いかける側の青城高校には声も、覇気もない。


 ————このままでは負ける。


 夏樹は、項垂れるチームメイトを睨みながら、確信した。

 それも束の間、ホイッスルが鳴り響く。夏樹は、トップ下の坂下にボールを預けると、一気に前線まで駆け上がる。敵の最終ライン中央に位置取ると、石岡から話しかけられた。


「おいおい、こんなものなのかよ、関東選抜様は」

「僻みはみっともないですよ、石岡さん」


 汗だくの状態で、話す石岡に夏樹は冷ややかに回答する。

 昨年の関東選抜において、夏樹は途中で離席したことにより評価対象外となった。

 しかし今年の夏に再度行われた関東選抜選考会において、夏樹は再度の招集を受け、これに合格。数週間後のチームの顔合わせに臨むと、石岡の姿はなかった。


「なんか勘違いしているみたいだな。俺は自ら蹴ったんだよ。あんな中途半端な場所に収まる器じゃないんでね」

「そうです……かっ」


 こちらに向かうこぼれ球に、夏樹は駆け出した。そのまま石岡がチェックに入る。

 夏樹はボールを収めるも、背後から石岡がブロックに入った影響で前を向くことが出来ない。右足でボールを押さえ、両足に力を込めて振り返ろうとするが、なかなか剥がれない。


「ずっと今日を待っていたんだよ、俺は!」


 石岡は、夏樹が保持するボールを足で蹴り飛ばした。勢いに任せてそのままボールはサイドラインを出る。

 全体重を背後に乗っけていた夏樹は、弛緩の瞬間、後ろに倒れそうになった。そのよろめく姿に満足そうな笑みを浮かべて、石岡は続ける。


「今日は一世一代の勝負と思っていたんだが、どうやら考えすぎだったみたいだな」

「ごちゃごちゃうるせえよ、ニキビ面」


 夏樹が言い捨てると、それすらも喜ばしそうに石岡は笑みを浮かべている。

 夏樹は、そのまま、相手に時間稼ぎをさせないためにもボールを取りにピッチの外に出た。


 思ったよりも遠くまで飛んでいったようで、探せどなかなか発見できない。運営本部から新たなボールを貰おうと考えると、松葉杖をついた黒の半袖シャツと、黒のスラックス を着た私服姿の青年がボールを持っていることに気づいた。


 こんがりと焼けていた肌は白く、ワックスで整えられた短髪も今は伸び、前髪が目にかかっているほどだ。そして、唯一変化のない綺麗な黒色の瞳が、真っ直ぐに夏樹の目を見つめている。


「長谷川、先輩……?」


 数ヶ月ぶりに直接相対した長谷川の姿は、幾たび見た悪夢での姿とも異なっており、一瞬夏樹は、彼を認識できなかった。


 ————黒色って、なんて恐ろしい色なんだろう。そういえばいつか、世界史の授業で篠山が言ってたな。中世ヨーロッパでは僧侶や宣教師がこぞって黒色の服を着てたとか。確か、厳粛さや謙虚さ、後悔と反省を表している、だったか。


「夏樹」


 試合中に分泌されたアドレナリンと現実逃避の情報を遮るように、長谷川が声をかけ、ボールを片手で差し出した。


「……あ、ありがとうございます」


 そのまま、冷ややかな視線を送る長谷川に、夏樹は思わず目を伏せた。

 夏樹は、下を向いたまま押し黙る。その全身から滴る汗は、運動によるものだけでは無い。

 ここで、言うべきなのだろうか。怪我と、そして何よりも、逃げ出してしまった事への謝罪を。いや、選択肢などない。今、全てを言うべきだ。

 意を決した夏樹は口を開こうとするが、言語を忘れてしまったかのように、乾いた口が震えるだけだった。

 このまま、このままここで謝罪をしてしまうと、何かが、何か自分の重要なものを失っってしまう。そんな漠然とした焦燥が、夏樹の口を閉じ、喉を締め上げる。


「10番、早くピッチに戻って!」


 そうしていると、審判の声と共にホイッスルが鳴り響いた。夏樹は、本来は自身への警告を表すその警告音に、救われたような気がした。

 そのまま踵を返したピッチへと、駆け足で向かう。


 その最中、


「全部、壊してくれ」


 長谷川が、口を開いた。

 夏樹は、呪いの解けかかった足を止めると、再度、振り返って長谷川に視線を投げる。

 するとそこには、空白だけが佇んでおり、遠くに見えるテニスコートと、元から誰もいなかったかのような、淡い晩夏の青空があるだけだった。


「……長谷川先輩?」


 困惑するも束の間、夏樹は、その光景を振り払うように、ピッチへと戻った。


 後半終了まで残すところ数分、敵ベンチを包む感性と明るげな雰囲気は、頭上の登り切った太陽のように、次第に勢いを増している。

 対照的に、夏樹の全身は冷え、長谷川の痣や石岡への疑惑、そして長谷川との邂逅。多くの出来事や考えが身体中の疲労と混ざり、大きな渦となって、全身を支配している。


 息を切らしながらボールを追いかけると、ふと、何故サッカーをしているのか考えるようになった。全てが面倒に思えてきて、全てを投げ出して壊してしまいたいという衝動が全身にふつふつと、水疱が水面に浮かび上がるように顕れる。


 そんな夏樹の脳裏に、先ほどの長谷川の声が響いた。


「全部、壊してくれ」


 いつの間にか、小さな水疱だったそれは、大きな一つの塊となって、表層に破裂した。


 夏樹は課せられた役割を投げ捨てた。味方からボールを受け取ると、今までの研鑽と全身の感覚を頼りに、ドリブルを開始する。

 開始位置は、センターサークル。敵は最早全員で守備を行なっており、夏樹の目の前には十一人の明光の選手たちが構えている。


 その、大きな要塞に、夏樹は一人で突っ込んだ。


「夏樹、パス出せよ!」

「一人で行くな!」


 周囲のチームメイトの声は、最早彼には聞こえていない。

 視界の端で捉えた、ボールを奪おうとスライディングを行った敵中盤選手を、ジャンプしてかわす。

 着地した一瞬、夏樹は不思議な感覚に陥った。


 何度も見た悪夢のように、足首を掴まれる感覚が走ったのだ。その、細い五指を夏樹は、振り解いた。追い縋るように掴む長谷川の幻影をそのまま、置き去りにする。


 青色のユニフォーム、使い込んだスパイクが新たに体の一部になったような、一体感を感じながら、一人、また一人とディフェンスを抜き去る。

 目の前に立ちはだかる、体格のいい選手を認識すると、右足でボールをタップして跳ねさせた。そのままボールをを踵で打ち出して敵の頭上を通し、自身はボールの先へと走る。


 愚弄するようなプレイに、ファール覚悟でユニフォームを掴んだ手を、爪をたてて握り返すと、一瞬緩んだ隙を見てボールをトラップする。


 すると、トラップ際を狙って、二本の脚が両横から飛び込んできた。


 夏樹は、トラップと同時にボールを足裏で転がし、一歩後ろに下がる。そのまま、足を伸ばして重心が傾いた二人の選手を抜き去る。


「おい、一発で行くな!」

「止めろ、止めたら勝ちだ!」

「夏樹、こっちに出せ!」


 夏樹は、全てを無視した。『全てを壊せ』、という声が大きな叫びとなって全身に響き、彼を急かす。夏樹はそのまま、ペナルティエリア付近で敵最終ラインと相対した。目の前には屈強なディフェンスが四人構えている。

 しかし、それらも、小さい頃に遊んだソフトフギュアのように、ひどく矮小な存在に思えた。


 ————勝つ、勝たなければ、解放されない……!


 両手を振り、足をばたつかせ、必死の形相で、ピッチを走り回る夏樹の姿は、水中で酸素を求めて踠く水難者のようだった。

 湧き上がる歓声と、沸き立つ土煙を両断するように、夏樹は加速した。


「俺が行く!」


 明光のセンターバックのうちの一人が、正面から対応に来た。先ほどの一度に飛び掛かるようなディフェンスではなく、一定の距離を保ちながら冷静に対応する。だがそれも、今の夏樹の前では、意味をなさなかった。


 夏樹は、ペナルティエリアに侵入すると、急にドリブルを停止し、進行方向と逆の右側へと切り込む。慌てて体制を立て直そうと、下半身に力を込める敵ディフェンスだったが、ようやくその重心が逆を向いた瞬間、再び夏樹は、左側へとドリブルを開始した。


 体重を完全に崩された敵ディフェンスはその場で尻餅をつく。


 それを一瞥もせずに、夏樹はさらに距離を詰める。すると、その右側から石岡が猛然とプレスを行った。


「これ以上は、やらせねえぞ!」


 いつかのデジャブのような状況だと、脳の片隅で思いながら夏樹は体をぶつけ合い、ゴールへと迫る。昨年以上に鍛え上げられた石岡の体は、大きな鉄塊のようで、押せども引けども崩すことのできない最後の番人である。


 ————こいつは、左足を使えない。このまま、左サイドに追い込んでおけばシュートも打てないだろう。万が一、打てたとしても、昨年のようなお粗末な豆鉄砲であれば、キーパーが止める!


「俺の勝ちだ、大澤!」


 汗だくのまま、叫びを上げる石岡。 


「夏樹先輩、打て!」


 勝利への祈りを捧げるベンチの中、吉田が叫んだ。その声が聞こえたのか、夏樹は、そのまま、左足からシュートを放った。


 必死の思いで、キーパーが腕を伸ばすも、その脇の下を潜り抜けたシュートは、深く、ゴールネットへと突き刺さった。

 夏樹は、その場で横たわり、焼けそうな脳を落ち着かせながら、全身に響く鼓動を感じていた。

 夏樹が叫びを上げると同時に、耳を刺すような、ホイッスルが鳴り響いた。後半の終了である。この一連のゴールは試合を見ていた全ての人間の脳裏に刻まれた、大きな、美しい、夏樹の最後の活躍であった。



————————



 延長後半が終了した。高校サッカーの選手権大会では、延長までに勝敗が決まらなかった際には、プロと同じく、PKを用いて勝敗を決するとされている。


「決まった!」

「これで……サドンデス突入だ!」


 それぞれ5人のキッカーがPKを終え、両校の成功数が4で並んだ。明光のファーストキッカーが枠外に外し、危なげなく勝利できるかと思ったのも束の間、青城高校は坂下を中心とした三年生が落ち着いて決めたものの、最後の一人が敵キーパーの好セーブに阻まれてしまったのだ。しかし、三年生ゴールキーパー、守護神の宮本がPKストップを達成し、同数のままサドンデスへと突入した。


(嫌だ……負けるのは嫌だ……!)


 その激戦の最中、夏樹は確信に近い絶望を感じていた。敵選手が冷静にゴールにボールを流し込む度、先輩達が闘志を燃やして力強いシュートを蹴り込む度に、弾ける手チームの歓声とベンチの叫声が、耳障りで仕方がなかった。


 この激戦の熱に当てられて、校舎に残っていた生徒達も、更には職員室で働いていた教師達も全員が応援に駆けつけ、グラウンドには人だかりができ始めている。

 夏樹は、彼らを睨みつけた。潰れそうになる程のプレッシャーを抱えた自分達を肴に、物見遊山で見物する彼らが不愉快で仕方なかったのだ。


「次のキッカー前へ!」


 審判の声が響く。夏樹は、ピッチ中央で横に並んでいた自チームの列から歩みを進めた。


 夏樹は、うだる様な熱気に包まれた土のグラウンドを進む。何度も歩いた場所であるはずなのに、まるで初めて来た街を歩いているような、漠然とした不穏さに包まれている気がした。


 屈んでボールを設置すると、正面を向く。目の前には、血走った瞳のゴールキーパー。その後ろには、大きな、吸い込まれてしまいそうな青空が広がっていた。

 夏樹は、この空をとても綺麗だと感じた。生まれてから何万回も青空を見たけれども、何故だか、今日が最も美しい、そんな気がした。


 目を瞑り深呼吸をする夏樹。


 これを外したら、俺はどうなってしまうのだろうか。敗北者として烙印を押され、蔑まれるのだろうか。いや、殺されるかもしれない。昔、オウンゴールをしたどこかの南米代表選手がファンによって殺害されたと聞いたことがある。

 ————というか、前にも、こんなことがなかったか……? 

 けれど、何で、こんなことを考えていたのかすら、もはや思い出せない。


 一歩一歩、助走距離を取り、体格に最も適した四十三度の入射角に位置つく。

 歓声にかき消されつつ、ホイッスルが響いた。

 夏樹はワンテンポ遅れて走り出し、ゴール右下を狙って右足を振り抜く。

 

 ボールの芯をとらえた鈍い音、足の甲に走る心地良い痛みと共に、これ以上無い重みのあるシュートが発射された。

 しかし、相手キーパーは助走時の体勢からコースを読んでいた。低いコースへの対応策として、通常では左足で踏み込む所を、右足で踏み込み、低く鋭いセービングに掛かる。


 伸びる腕、空を切る巨躯。


 夏樹は、ボールがキーパーグローブに弾かれる音が聞こえた気がした。しかし、渾身の力で打ち出されたシュートの威力は凄まじく、キーパーの左手はなす術なく弾き飛ばされた。しかし、キーパーによって弾かれたシュートは枠を外れ、ポストへと直撃した。


 ボールがゴールポストを弾く音が響き渡り、相手チームの歓声が大きな波となって夏樹の背後から押し寄せる。


「っしゃあ!」


 相手キーパーが叫んだ。夏樹は、後ろを振り向くことができなかった。このまま後ろを振り返ったら、自分の中の何かを失ってしまうような、そんな焦燥感に駆られた。


 呆然と立ち尽くす夏樹に配慮しつつも、審判が彼を促し、夏樹はようやく踵を返してチームメイトの元へ向かった。


 夏樹は、チームメイトの顔が、見えなかった。


 あくまでも、下を向き、彼らの表情が見えないように最大限の注意を払った。

 彼らの顔が見えなければ、どんなに幸せなことだろう。全て消えてしまって表情が見えなければ、俺は明日も生きていけるような気がする。


 夏樹は、本来そこにある筈の、目や口、鼻。全てが欠落しており、顔面の部分だけを切り取った写真のように、ぽっかりと空白が佇んでいる。そんな風景を想像した。


 しかし、まだ試合は決していない。この次の相手キッカーが外せば、再度サドンデスは再開されることとなる。次のキッカーとして明光高校が選んだのは、6番、夏樹と幾度もマッチアップした、石岡であった。


 ————外せ!


 夏樹は、何度も心の内で呪詛を唱えた。その顔は苦悶に歪み、元の端正な顔立ちの面影などどこにもない。

 ただ一心に不幸を願う、呪われた青年の姿がそこにはあった。

 しかし無情にも、試合終了を告げるホイッスルが鳴り響くと同時に、相手チームの歓声の大きさが増し、不快に夏樹の耳を突き刺した。先輩達はピッチに倒れ込んで涙を流し始めた。


試合終了後、互いの選手達が握手を交わす中、夏樹は声を掛けられた。


「ナイスゲーム、大澤」


ニタリ笑う顔は、日に焼けて浅黒い。明光高校6番、石岡竜也である。厚い唇がニキビで覆われた顔面から言葉を発しており、勝利の興奮からか、乱れる息が気色悪い、と夏樹は感じた。


「決勝進出おめでとうございます、石岡さん」


夏樹は、一瞬全身が固まった。だが、それも束の間笑顔を浮かべる。石岡はその姿に満足したように続ける。


「これで、一年前の雪辱は晴らしたぜ。まあ、逃亡者には相応しい末路だな」

「そうですね」


低偏差値高校なりに頭を使ったらしい、と夏樹は考えた。

互いの健闘を称え合うかのように爽やかな笑顔で、夏樹にしか聞こえないように小声で話す石岡。夏樹は、真っ直ぐ見据える。

煽りに乗ってはダメだと考え、夏樹は深呼吸をした。


「さっきのゴール、あれはなんだ?」

「どういう意味ですか?」

「お前はあんな無茶なドリブル突破をする選手じゃなかっただろ。やはり長谷川にでも教えてもらったのか?」


そのまま、笑みを浮かべながら続ける石岡。


「何を言っているのか、本当にわからないんですけど」

「あれじゃ、まるで長谷川みたいだ。傲慢で、自分以外誰も信じてないような、独善的なプレー」

「……は?」


————こいつは一体、何を言っているんだ?

夏樹が今までに見た長谷川のプレイスタイルは、ドリブル突破もこなしつつ、自分に来たマークの隙をついて、フリーになった選手を活かすというものだった。この連携で夏樹と長谷川は大量得点をしてきたのである。


 そんな、夏樹の困惑を知らぬまま、石岡は続ける。


「俺からのアドバイスだ。あんなプレーを続けていたら、その内チームから嫌われるぜ。それこそ、『出る杭は打たれる』みたいにな」


 夏樹は、その歪んだ笑みを見て確信した。


————こいつだ。こいつが長谷川先輩を殴っていたんだ。


 大山の言葉から連想された、痣まみれの長谷川、そして歪な笑みを浮かべた石岡が、彼を殴っている様が映像に浮かび上がる。


(こんな時、長谷川先輩だったら、どんなことを考えるだろう)


 夏樹は、尊敬する長谷川の屈託のない笑顔を思い浮かべた。

その、温かみのある笑顔を思い返すと、胸に突っかかった思いが解けてゆくような気がした。


(あの人ならきっと、『間違いねえ。直しておくわ!』とか言って、相手を褒め称えるに違いない。だから俺も、こいつを労う言葉を————


『全部、壊してくれ』


 先ほど見た、変わり果てた姿の長谷川の顔が浮かぶ。

 青白い、子供の頃に見た自殺体のような肌を浮かべた長谷川の声に呼応して、身体の底から何か黒い物がゆっくりと這い上がるのを感じていた。側溝に溜まったそれは、傷口から侵入して心を破傷風に感染させる。それは彼の免疫力を超越していて抗う事などできない。


一通り言い終えたようで、仲間と肩を組みベンチに下がろうとする石岡の背中を、


「テメェ……!」


夏樹は、思い切りスパイクで蹴り飛ばしていた。


「ぐわ……!」


 後ろから蹴られて前へ倒れる石岡。硬いグラウンドに嫌な音が走る。その草食動物的な貧弱さを感じさせる無防備な背中が、夏樹に眠る捕食本能に火をつけた。

起き上がる隙も与えずに馬乗りになると、拳を顔面に振るう。骨と骨のぶつかる感覚。初めて殴った人間の顔は思ったよりも骨張っていて、殴るたびに手の甲に痛みが走り、その痛みが更に怒りを助長した。


 周囲にいた明光も青城も全員が驚愕していたが、すぐに我に帰り、彼を止めようと迫った。手背に液体がつく感覚の中、夏樹は先輩達から羽交い締めにされるが、本来と違う方向に関節が向けられる感覚が不快で、怒りは更に駆り立てられる。

筋肉質な腕を払い除け、もう一度右拳をふり折ろうとしたその瞬間、


「やめろ、夏樹!」


 聞き覚えのある声に振り返ると、宇田が夏樹を見つめていた。

 その姿を見て、夏樹は、我に帰った。眼前には血塗れの顔面。鼻血と口からの出血。目の下には青紫色になりつつあるアザがあり、涙が溢れている。夏樹の右手が、痛んだ。

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