第16話:透明な呪い➁
「ついに今日は、明光高校との試合だ。昨年同様、カウンター主体の4―4―2のフォーメーションになっている。丁度、昔のイタリア代表のような堅守速攻の布陣だな」
グラウンドに併設された選手用の更衣室内で、夏樹達、青城高校サッカー部員は、監督である宇田から最後の伝達事項を伝えられていた。
宇田は、十年ものあいだ青城高校サッカー部を牽引し、五度の東京都大会優勝、一度の選手権大会準優勝にも導いた経験のある初老の名将であった。
例年熾烈を極める東京都大会であったが、その中でも夏樹たちの代は中々に粒揃いであり、都大会優勝を狙えるチームであると評されている。
その中でも、三年生ゴールキーパーの宮本、ミッドフィルダーの坂下、そして二年生フォワードの夏樹は、関東選抜選手にも選ばれており、三人を中心とした攻守共に隙のない、3―4―1―2の構成であった。
夏樹のポジションは攻撃の最前線、FWである。持ち前の体格とハングリー精神から不動のレギュラーとして定着しており、今大会でもチーム最多の5得点を計上している。
「4―4―2の最大の強みは、高い位置でのボール奪取から行われるショートカウンターだ」
各々のロッカー前の席に坐す生徒達の前で、作戦ボードを動かす宇田。サッカーコートを模した盤面では、赤い人型と青い人型が整然と並べられている。青が夏樹達、青城高校であり、赤が明光高校の選手である。
宇田が赤い人型を動かす。盤面の中央の位置には、青色の人型が4人だけなのに対して、赤色は最後尾に4人、中央に4人、合計8人も集まっており、明らかに青色の人型が少ない。
しかし、夏樹はまるで違う事を考えていた。
『君は、長谷川君を殴るような人物に心当たりはあるかい……?』
今朝出会った、大山の言葉を反芻する。
長谷川先輩の身長は175センチ。男子高校生であれば、比較的高い方と言える。加えて運動部に所属している彼を一方的に殴るとなれば、多人数で行うか、よっぽどの大男出なければ厳しいだろう。
仮に、部活内で暴行が行われていたとしても、厳格な部員管理を徹底している宇田が見落とすとは思えない。
そう考えると、個人による犯行の可能性が高い。
俺の所属する青城高校は、強豪であり、体格の良い選手も多いが、チームの中心であった彼に対して暴行を行う動機は誰も持っていないはずだ。
ということは、部活外の生徒か、それとも大人による物とも考えられる。しかし、先輩のプライベートに関する知識が皆無な以上、わかりそうにもない。
「このように数的優位を作り出して、ゾーンプレスを行う一世を風靡した守備戦術だが、大きな穴が二つある」
夏樹が、そんなことを考えているとは露知らず、一見完璧な布陣を見た生徒達の不安げな表情を鼓舞するように、宇田は断言した。
「一つは、ドリブルによる破壊だ。一度この密集地帯を抜け出せば、その後ろには広大なスペースとキーパーしかない」
宇田が青色の人型を一つ、ボールと共に動かす。密集地隊から向け出すと、そのままキーパーとの一対一まで一瞬で迫り、鮮やかにゴールを決めた。
「しかし、ここを打破するようなドリブラーはなかなか存在しないのも事実だ」
「長谷川がいたらな……」
誰かが小声で話す声を、夏樹は聞き取ってしまった。
「そこで俺達は二つ目を選ぶ。それは、『ワイドプレイ』だ」
宇田は、今度は、青い人型を全て動かした。一人一人の選手の距離を大きく広げ、密集した赤色選手を青色選手で囲い込むような布陣を取る。
すると、先程の状況と反転し、一人の赤色選手に対して青色選手二人で対応する形になった。息の詰まるような盤面に、無人のスペースが点在し始めた。
「今まで練習してきたように、一人一人の選手の距離を広げてワイドなパスサッカーを展開する。そうすると、お相手さんは密集する事もできずに、分散して対応せざるを得なくなると言う算段だ」
夏樹は、この戦術は有効だろうと思った。しかし、懸念点もある。加藤も、そのリスクについて解説を始めた。
「一人一人が距離感を取る事で、余裕が生まれ、裏に存在する広大なスペースをパスで狙うこともできる。ただこの戦術を成し遂げるには、一人一人のパス精度や個人戦での勝利などが求められる事になる。それに、一度でもミスをすればカウンターの餌食だ」
ボールの形をしたマグネットを動かす加藤。青色選手が繋いでいたそれがあらぬ方向に動くと、赤い選手が抑える。その瞬間一気に全手の赤色選手が動き出してゴールへと迫った。
夏樹は、宇田の操る作戦ボードを注視する。
「選手同士の距離を開けると、パスサッカーをしやすくなる反面、その開いたスペースを相手に逆手に取られることもある」
選手達は生唾を飲み込んだ。自分のミスで失点をするかもしれない、と感じたのだ。
「特に、中盤の中心である坂下とフィニッシャーの夏樹は責任重大だ。くれぐれも昨日のようなミスは本番で行わないように」
夏樹を見つめて断言する加藤。昨日の練習を通して、夏樹は4回、ゴールを逃した。
「はい。改善します」
その返事に頷くと、加藤は連絡を続けた。
「戦術の概要はこんな感じだ。それと、今日の試合には長谷川も見に来るそうだ。皆気を引き締めて行けよ。あいつに勝利を見せてやれ」
一瞬、チームがピリついたように夏樹は感じた。しかし、それも束の間「しゃあ」と言う選手達の掛け声が響いた。
試合開始前、選手全員がグラウンドに横並びで整列する間、夏樹は自身の頬を叩いた。
————俺の悪い癖だ。目の前に、解けそうな問題が出てくると、それに躍起になってしまい視野が狭くなる。今考えるべきは、長谷川先輩を殴っていた人物探しなどではなく、明光との試合だ。長谷川先輩も観に来ると言うし。
昨年よりも涼しげな空気の中、グラウンドに並んだ2つの列が交わり、握手が行われる。
————明光には、選抜選手も、有名な選手もいなかったはずだ。普段通りの実力を発揮できれば勝てる試合だろう。
そう考えながら、一人一人の選手と握手を交わしていると、一際、ざらざらとした感触のある、大きな掌に触れた。この感触に、夏樹は覚えがあった。
「よお、大澤。久しぶりだな」
夏樹の目の前で、笑みを浮かべる大柄の選手。
「石岡、さん」
臙脂色のユニフォームを纏った筋骨隆々な6番、石岡竜也がいた。
瞬間、夏樹の脳裏に電流が走った。夏樹は、思わずあっと声を上げそうになるが、踏み留まる。
『皮のめくれた手。あの傷は、人を殴った際に起こるものだ。
拳を固定しない状態で頬骨や顎を殴ると、摩擦によって手の甲や中手指節関節の皮が、乳酸菌飲料の蓋のように剥ける事があるのだ。そしてその傷は、独特な赤い染みのような発疹を伴う。彼は、ウエイトトレーニングによるものだと言ったが、それは掌に限る。用具を掴んだ際に、摩耗による切り傷やタコができることはあれど、手背を怪我する事など有り得ない。さしずめ、インターハイの鬱憤を誰かにぶつけているのだろう。幾らトレーニングをしても晴れることのない透明な呪いを、拳を媒介に発散しているのだ』
「おい、いつまで握ってるんだよ」
石岡が、深いそうな顔で夏樹を見下ろす。
「あ、ああ。すみません」
「互いに、がんばろうぜ」
ニヤリと、笑みを浮かべる石岡。夏樹は、それに応える事もせずに思いにふける。
————あの日、関東選抜会の日。俺が更衣室についた時、既に室内には三人の男子生徒がいた。長谷川先輩と、見知らぬ男子選手。そして、石岡竜也。
ピッチへ移動する途中、夏樹の頭の中で、当時の会話が浮かび上がる。
『よお、夏樹。遂に来たな!』
『おはようございます長谷川先輩。今日も元気っすね』
『そりゃそうよ。二年間ずっと一人だった場所に、漸く知り合いが来てくれたんだからな』
夏樹は全身に鳥肌が立つのを感じた。
気にも留めなかったが、あの、社交的なムードメーカーである長谷川さんが、『二年間ずっと一人だった』などと、言うのは普通のことでは無い。
更に、あの日の先輩は、そそくさと室内から立ち去っていた。
まるで、何かから逃げるように。
『明光高校二年CB、石岡だ。長谷川とは去年ここでチーム組んでた。よろしく』
石岡と長谷川先輩の関係性は、一年時の関東選抜の頃からだと言っていた。
それに、平均以上の体格を持つ長谷川先輩を一方的に殴れる条件である『恵まれた体格』を、石岡竜也はクリアしている。
試合開始の、ホイッスルが鳴り響く。明光高校からのキックオフだ。明光のフォワードは、キックオフと同時にパスを受けると、ドリブルを開始した。夏樹は慌てて追随する。
しかし、その踏み込みは軽く、一瞬で剥がされてしまった。すぐさま、青城の中盤がケアを行う。その光景を見ながら、夏樹はいまだに思考の沼にはまっていた。
————仮に、仮にだ。石岡が昨年から長谷川先輩に暴力行為を行なっていたとしたら、一つ、新たに浮かび上がる疑問がある。それは、
ホイッスルが再度鳴り響く。明光の中盤選手がファール行為を行なったのだ。
————長谷川先輩の、俺に対する無茶なディフェンスにも、何か目的があったのかもしれない。
青城高校の選手は、すぐさまボールを設置すると、サイドに張った俊足選手へとボールを回す。サイドの選手は、ボールを受け取るとすぐにサイドに切り込み、右サイドからクロスを上げる。
弧を描いて夏樹へと向かうボール。しかし、夏樹は準備が遅れていたため、それに触れることが出来なかった。体制を崩してそのまま地面へ倒れ込む。
「おい、夏樹!」
「今のは決めろよ!」
非難の声を、躱しながら夏樹は立ち上がる。
————だったら俺は、何のために、こんな苦しい思いをしなくてはいけないんだ?
あの日以来、ずっと続いていた、この世から空気が消えてしまったような切羽詰まる日々は何の意味があったんだ? いやそもそも、原因は全て、石岡なのでは無いか?
体に付着した砂を払いながら、夏樹は自陣へと下がってゆく。
そんな彼の姿を、観客席から一人の透明人間が見つめていた。
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