第15話:一石を投じる
青城祭まであと21日 2022年9月9日am 8:23:大澤夏樹
早朝の満員電車に揺られながら、夏樹は重たいまぶたを何度も瞬かせていた。
結局、昨晩も見た悪夢の影が、まだ脳の片隅に残っている。時折電車の窓に映る自分のぼんやりとした顔は、睡眠不足で疲れ切っているように見えた。
電車の車内は、押し寄せる人々でぎゅうぎゅう詰めだ。体が他人とぶつかるたびに、重たい倦怠感がさらに増していく。ぎしぎしときしむ電車の音が、頭の中で不快なリズムを刻む。
彼はつり革に掴まりながら、窓の外に目をやったが、景色は目まぐるしく変わるだけで焦点が定まらない。都市のビル群が流れるように消え去るその光景は、彼の心の中で揺れ動く不安定さを象徴しているかのようだった。
「君、大澤くん……だよね?」
試合会場である母校、青城高校へ向かう最中、夏樹は男性から声をかけられた。
「そうですが、あなたは?」
イヤホンを外して返答すると、電車の車輪の音にかき消されつつ、横に立った男が名乗りをあげた。
「大山隆弘です。豊島スタジアムの宿直医をやってます」
白髪の混じった乾燥した髪の毛に、白黒のチェックシャツを身につけた小柄な男。私服姿であり、最後に対面したのが遠い日だった事もあり、最初はわからなかった。
彼は、夏樹が昨年、長谷川との交錯が発生した際に応急処置を施した豊島スタジアムの宿直医だった。
「……ああ、あの時の先生ですね。お久しぶりです」
夏樹は会釈したものの、大事な試合の当日に、さらには忌まわしき過去を思い出させる人物に舌打ちをしたかった。
「ごめんね、忙しいだろうに。ずっと伝えたい事があってさ、偶然君を見かけたから声をかけてしまった」
困った顔で、断りを述べる大山。
「あれ以降、長谷川君とは……?」
「会ってません。面会に行っても謝絶されてしまって」
夏樹はストレスの回避の為に、混雑しない各駅停車に乗り込んだことを後悔した。急行電車に乗れば、この男と遭遇する事もなかっただろう。おまけに、他線での人身事故の影響で普段より乗客も多く、密集状態が続いているのだ。
そんな事も知らぬまま、大山は続ける。
「そうか……やはりそうなのかな……」
「要件は何ですか?」
一人で、思考にふける大山。痺れを切らした夏樹は、直接、用件を尋ねた。
「君が居なくなった後、僕は斎藤くんを医務室へ運んだんだ」
夏樹の胸に小さな針が刺さる。
「ごめん。君を非難するわけじゃないんだ」
「大丈夫ですから、続きを話してください」
「ありがとう。アイシングや固定を行った後、僕は念の為に、膝以外の検診を行なったんだ。気絶症状があったから、頭部の打撲なども起きていたかもしれないから」
話しながら、手を頻りに動かす大山。
気丈に振る舞いつつも、夏樹は手に汗をかいている。
この男は、何を言おうとしているんだ。こんな満員電車の、誰が聞いているかも分からない状況で、何を口走ろうとしているんだ?
「そしたら、長谷川君の全身に、皮下出血が多数確認されたんだ」
皮下出血、とは何だと一瞬考えたが、夏樹は中学の頃通っていた整骨院で良く聞いたことを思い出した。皮下出血とは、痣のことである。その名の通り、皮膚の下にある毛細管が破損することで出血し、内部に残留した血液が表面からは青く見える、と言うものだ。
「……本当ですか? 練習中の怪我ではないんですか?」
夏樹は、詰まるような気持ちのまま質問した。彼自身も、ディフェンスとの激しい競り合いや交錯で何度も痣を被ってきた。幾ら卓越した技術があった、ドリブル型のミッドフィルダーの長谷川も同様だろう、そう考えたのだ。
「……殴られた際の痣は大きく、複数の場所で出血が起きる影響で、多色になるんだ」
俯く、大山。
「長谷川君のそれは、殴られた際にできた痣と見て、間違い無いと思う」
そのまま、意を決して口を開く。
「君は、長谷川君を殴るような人物に心当たりはあるかい……?」
夏樹は、つり革を強く握りしめた。
瞬間、対向電車とすれ違った影響で、空気が二人の正面の窓を叩くとともに、大きく揺れた。
「お、俺は……」
夏樹の脳内で昨年の映像が洪水となって流れる。
二人で自主練習をした際の真剣な長谷川の表情。部活後に二人で何度も寄った駅前のラーメン。試合中に、互いを非難しあった際、初めて見た彼の怒り。二人で、よくこの各駅停車の電車に乗って登校し、朝練に参加した事。
思い返すと、彼の部活動での姿しか浮かんでこない。
————そういえば、俺って、あの人と部活動以外について話したことがないな……
だが、エースとしたチームをまとめ、学校中から一目を置かれていた先輩が、殴られることなど、あり得りえない。
「すみません、本当に心当たりがないです……」
夏樹は、目を閉じて返答した。
「いや、こちらこそすまない。朝から気分の悪くなる話をしてしまったね……」
窓の外を眺める大山。そこには、目覚めつつある都会の景色があった。
「兎に角、話せてよかったよ。ありがとう」
しばらくして、夏樹は池袋駅で降り立った。大山は、スタジアムの最寄りである次の、豊島駅まで乗っていくとの事だった。
人で溢れる駅内は、虫が蠢いているようでやたらと不快に感じられ、夏樹は舌打ちをした。
————なぜ、こんな大事な日に、こんなことを伝えられなくてはいけないんだ。
夏樹はイヤホンの音量を上げて、つかつかと、機敏な足取りで学校へと向かった。
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