忘れられた箱 ➄

 部活動も終わり、校内には、運動部の掛け声や吹奏楽部の楽器音などが消えそうに響いている。


 明日開催される試合の準備も終わり、他の部員が全員帰った後、俺は、無人の校庭で自主練習を始めた。前髪の隙間から見える夕焼けを一瞥しつつ、コーンを設置すると、並べたコーンをダブルタッチタッチで抜き去り、流れる風に前髪が持ち上がるのを感じながら、左下へ打ち込む。


 乳酸が溜まった両脚は重く、部活中の様なキレは無い。しかし、胸にたまった膿を吐き出すためには、一本一本のシュートを出来る限りの力を込め蹴り込むしかないのだ。


 俺はひたすら右足を振るう。数十回、ボールがネットに突き刺さる音がした後、シュートは大きく枠を外れ、部室棟と本校舎を繋ぐ渡り廊下に消えて行った。


 肩を上下させながら、ボールの方まで歩く。かろうじて捉えた、ボールが茂みに向かった記憶を頼りに右往左往していると、声をかけられた。


「先輩。まだ帰ってないんですか?」


 青城高校サッカー部マネージャー、吉田朱音である。大きな瞳と茶色がかったセミロングが印象的な一年生だ。持ち前の快活さと品のある態度から、男女を問わず人気な彼女であるが、今、俺を見つめる目は険しい。


「公式戦前日に自主練とか信じらんない」


 ずい、と探していたボールを差し出す吉田。


「一年からの日課なんだ。ルーティンを欠かしたら、明日負けるかもしれないだろ」


 ボールを受け取る。


「でも、どうせ宇田先生に許可を取ってないんでしょう?」

「……ボールありがとう。そろそろ戻るわ」

「あ、宇田先生。お疲れ様です!」


 驚いて、咄嗟に茂みに隠れる。


「……って、誰もいないじゃないか」

「あはは。早く帰れってことですよ。はい、これ」


 茂みから立ち上がる姿を吉田はせせら笑う。そして、水の入った部活用のボトルを差し出した。熱のこもった体に、水を流し込む。


「今日の昼休み、バカ共に散々な事言われてましたね、先輩」


 しばしの沈黙の後、吉田が切り出した。


「見てたのか」

「何で、何も言い返さなかったんですか。私ならぶん殴ってますよ」


 シャドーボクシングを始める吉田。俺の体に数発、弱いパンチが当たる。


「意味がないからな。それに、もう慣れた」

「何だよ、先輩もバカじゃん。言い返す勇気がないだけでしょ」


 押し黙ったまま、俺はボトルを握り潰して水を飲む。


「……ねえ、先輩。一つ賭けをしませんか?」

「普段からアホとやってるから、あまり乗り気にならないな」


 口拭い、ボトルを返却する。


「ガク先輩か。でもどうせ賭けって言ってもジュースでしょ? 私はもっとでかいのを賭けます」

「何を賭けるんだ?」


 ニヤリと笑う吉田。


「明日の明光戦、先輩がゴール決めて勝ったら、私の秘密を一つ教えてあげます。その代わりに、先輩が負けたら私の言う事を一つ聞いて貰います」

「そんな内容でいいのか?」

「びびってるんですか」


 笑みを浮かべる吉田。


「逆だよ。俺がハットトリックして勝つのは目に見えてるからな。吉田に不利な条件すぎて申し訳ないんだよ」

「うーわ。めっちゃ言うじゃん」


 吉田はケタケタと笑う。


「じゃあ、賭け成立って事で! 明日の明光戦、絶対に勝ちましょ」

「ああ。だけど、そうすると吉田が賭けに負けることになるぞ」

「そうだった、あはは!」


 ボトルを握り締めて、部室の方へと走っていく吉田。その後ろ姿を見送ると、俺は踵を返してグラウンドへと戻る。胃に溜まった冷水が、全身に灯る炎を冷やして行く。


 フレッシュな気分のまま、夏広大な茶色のグラウンドへ立つ。すぐさまドリブルを開始し、力強いシュートを、今度は左足から放つ。楕円形の弧を描いたそれは、力強くゴールの左上隅に突き刺さった。

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