忘れられた箱 ➃
食堂は、腹を空かせた生徒達でごった返していた。昼間の陽光が差し込む白い空間の中では、食器が重なる音や生徒達の談笑する声、時折、食券機と厨房のタイマーの電子音が響き渡る。
ようやくA定食をトレーに受け取ると、回鍋肉から漂う甜麺醤と甘い豚肉の香りに食欲を刺激されながら、待ち合わせ相手を探した。
同じくトレーを持った生徒とぶつかりそうになりつつ周囲を見回すと、中央のほうでこちらに手を振るガクの姿が見えた。
「おせーぞ夏樹。先に食べてるからな」
「悪い。やっぱり、定食じゃなくてラーメンにすればよかったな」
二人は食堂内の横並びの大テーブルにスペースを確保し、先に来たガクの向かいに座る形で食卓を囲う。
「いやあ、今日は朝から良い事尽くしだとは思わんかね? 夏樹クン」
麺をすすりつつ、ニヤニヤした顔でガクが言う。ラーメンの熱で汗が額を滑るが、お構いなしと言わんばかりの食いっぷりだ。
「なんでさ」
「そりゃ、西園寺さんに会えたからに決まってるだろ。俺たちと同じ、高校からの編入生ながら生徒会長に就任した文武両道の才女。おまけに、可愛い」
回鍋肉を貪るが、その名前を聞いて、俺は腕を止めた。
「……どうせ、最後のが一番の理由だろ」
再度手を動かし、ピーマンと豚肉、白米を同時に口に運ぶ。
「バレてたか。いいよなー、生徒会は。毎日西園寺さんと会えるんだから」
「ああ。正直、羨ましいよ。あんなに綺麗な人なんだな。西園寺さんは」
思うままの事を口にすると、ガクは麺をどんぶりへと吹き出した。
「お、おい、あの夏樹が女子を褒めたぞ……!」
むせながら、声を張り上げるガク。
「そんなに驚く事か? ていうか、汚ねぇ」
「いや、驚くべき事だって! 可愛い制服に、可愛い女子で有名なうちで、食指を動かさないどころか食欲すら感じさせないお前を心配していたんだぞ、俺は!」
そして、「てっきり、そっちの気があるのかと思っていた」などと言う爆弾発言をかましたので、強めの否定を入れてやった。
「いい加減、彼女作れよ」
「俺は良いんだよ。そう言うのは」
「大事だぜー? 『恋愛をすることでガキは大人になっていくんだ』って親父も言ってたしよ。それに三年生になったら受験一色で恋愛してる暇なんてないぜ?」
「考えとくよ」
「誰か、いい人いないのかよ?」
「久々に帰省した時の母親みたいだな」
冗談半分で返しつつ、ゆっくりと語る。
俺は、あの公衆電話ボックスで、顔も名前も知らない生徒と本の交換を行っている。
初めは、自分以外にこの溜まり場を利用する不届き者の存在に不愉快な気分になったが、相手はどうやら律儀な人間のようで、利用する代わりに、幾つかの菓子と文庫本を置いていく。
自身も無断利用している反面、俺はその置いて行った本と菓子の礼として、自分の勧める小説を置いた。すると相手は、俺の本に対する感想を書いたメモと、新たな本をこの場所に置いていくようになったのである。
概要と、数ヶ月前から関係が続いている事。感想文の文字態から、おそらく女子生徒である事。誕生日にはチョコレートが多めに置かれていた事を伝える。
「……ロマンチックで良いな、それ」
ガクは、思ったよりも興味津々で話を聞いていた。色恋のことになると目の色が変わるのは、おそらく気のせいではないだろう。
「よし。命令だ、夏樹。その子の正体を探れ」
「なっ」
俺は、顔が赤くなるのを感じた。
「だって、もう数ヶ月以上もそんな関係が続いているんだろ? 相手だって、そろそろ会ってみたいと思ってるはずさ」
「まあ、そうかもしれないけれど」
「何か手がかりはないのかよ? 溜まり場で出待ちするのはつまら……ロマンチックさに欠けるし」
「……まあ強いて言えば、今朝見つけたこれだな」
ガクの失言は聞かなかった事にして、俺は、今朝発見した文庫本の裏の文字列を見せた。
『%(8(%2♪☆%※+62…%2:92(#※(○3/:・☆ー』
「何だよ、これ?」
その数字列を見ると、ガクは怪訝な顔になった。
「文庫本の裏に書いてあったんだ。今までは、こんなの無かったんだけど」
そう言う俺には目もくれず、ガクは数字列を眺める。いつか彼の試合を観戦した際に見せた、普段の軽快な雰囲気にそぐわない、鋭い目が文字列へと向けられている。
「だめだ、さっぱり分からねぇ」
「だろ? 下らない悪戯だよな」
「最初は、二進法かシーザー暗号を使っているのかと思ったけど、そうなると記号が出てくる時点でおじゃんだし、ポリビオスの正方形にするにも、1から10までの数字に加えて、どれだけの記号があるか分からないから無理だもんなぁ。兎に角、記号がノイズすぎる」
「随分、詳しいんだな……」
普段の彼らしからぬ、理知的な雰囲気に俺は驚いていた。
「前に、ミステリー小説にハマってた時期があってよ……! 探偵気取っちまった!」
指摘を聞いたガクの表情が、一瞬固まったのを、俺は見逃さなかった。
そのまま、何となく無言で食事を進める。スプーンを口に入れるたびに、ピーマンの苦味が口内に広がる。
「あいつか? 長谷川の脚ぶっ壊したやつ」
沈黙していたせいで、その声はよく聞こえた。
視線だけを向けると、二人の男子生徒がこちらを指差しているのが見えた。赤い線の入った校内履を着用しているのを見るに、三年生だろう。
「そうそう。よくもまあ、人の人生ぶっ壊しておいて楽しそうに笑えるよな」
「んな。しかも、長谷川が怪我したおかげでレギュラーに定着したらしいぜ」
「おっかねー。やっぱり『あの噂』って本当なんじゃないか……?」
そう言ってクスクスと笑っている。夏樹は、ガクに聞こえているかを確かめようと、窺った。先ほどの笑顔が消えている。
俺は、素知らぬ振りをして会話を再開しようとするが、
「悪い。ちょっと行ってくるわ」
ガクは立ち上がり、男子生徒達へと向かった。
「お、おい」
ズカズカと進むと、ガクは、男子生徒達の食事のすぐ近くに乱暴に手を着いた。ばんと言う音ともに、彼らの水が揺れた。
「こんにちは、先輩方。言いたい事があるなら直接言ったらどうすか?」
詰め寄るガクの表情は、あくまでも柔らかい。何も知らない周囲から見れば、三人で会話をしているようにしか映らないだろう。
「べ、別に何もでねぇよ。なぁ……?」
「お、おう。そんなマジになるなよ」
「動揺する位なら、最初から悪口なんか言うなよ、カス」
去り際に言葉を残すと、どかっと腰を下ろした。
「いやーびびった、びびった。でも一発かましてやったぜ」
「……ありがとな」
「よせやい! ほら、飯冷めるぞ!」
下に、赤黒い甜麺醤が残っている。俺はそれを、ゆっくりと口に運んだ。
すると、昼休みの終わりが近づいてきた。楽しい時間は甘美な食事の様で気づいたら終わりが近づいている。二人は手早く食器を片付け、食堂を後にした。
「……てかスルーしてたけど、お前、吹き出したラーメン全部食ったのかよ」
「ったりまえよ。『アレルギー以外で食べ物を残すな』と親父に言われているからな」
「うげえ」
部活のせいで夏休みなど無かっただとか、隣のクラスの子が気になるだとか、他愛もない話をしながら廊下を進む。誰かが廊下の窓を開けているのか、色なき風が廊下を吹き抜け、一瞬、ガクの声が聞こえなくなった。
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