忘れられた箱 ➂

 宇田が去るとすぐに、日本史教諭の笹山がやってきた。


 姿勢を正し、授業へ前向きに臨む。ただでさえ、部活動に多くの時間をとられる身としては、通常授業でいかに多くの内容を理解できるかが、学業の肝なのだ。


 号令が終わると、笹山は、一年中変わらぬ鼠色のスーツを正して、自前のチョークケースを開いた。


 笹山は、生徒と言われてもわからないほどの、童顔且つ女性的な顔立ちである。某有名男性アイドルグループにでもいそうな容貌だが、女子生徒達からは、会話のぎこちなさから来る挙動不審さによって、気持ち悪いという評価を下されていた。


「きょ、今日は、少しセンシティブな内容を扱います。皆、集中して聞いてください」


 笹山は、リズミカルにチョークを鳴らし、1945年8月1日と黒板に書き記した。


「この日、ここ、東京都豊島区に原子爆弾が投下されました」


 キョロキョロと、小動物のように周囲を伺う笹山。


「その理由は、えーと、い、伊藤くん。わかるかい?」

「当時、この地域は旧政府の通信と物流の要所であり、軍事的に非常に重要な地点であったからです」

「素晴らしい、大正解だ」


 ガクは質問を受けるや、すぐに模範解答を叩き出した。


 一見アホそうに見えるが、勉強もでき、加えて部活動でもエースを務めるガクを見ていると、世の中は不公平なのだなと、いつも感じる。


「壊滅的な被害を受けた豊島区は、一度、本当の更地になったのです」


 黒板に、当時の白黒写真を貼り付ける笹山。


 しかし、その淡々とした説明は、ほとんど耳に入ってこなかった。あくびをかみ殺しながら、机に突っ伏しそうになる自分を必死で支える。


「豊島区は、その後の都市再建計画において、連合国政府の指導のもと、平和記念都市として再建されました。特に池袋駅周辺は戦後、商業の中心地として発展し、現在では多くの大企業のオフィスが立ち並んでいる事は、皆もご存知でしょう」


 それにしても眠すぎる。水中で聴く音楽のように、笹山の声が耳を滑る。

 最近はどうも眠りが浅く、例の悪夢を見るばかりか、少しの物音や衝撃で目が覚めてしまうのだ。


 日課の英語学習をこなして、布団に潜り込んだのは、確か11時だった。部活動の疲れからか珍しく熟睡できていたのに、アイツの帰宅時の物音で目覚めたのだ。


 起きるや否や、キッチンに行き、水を流し込んで強制的に脳を覚醒させた。

 重い足取りで向かうと、玄関に倒れかかった、派手な真紅のドレスに厚化粧を重ねた母の姿があった。


 元は、売れかけのタレントだったとはいえ、年齢不相応の仰々しい衣装に身を包んだ様は、ひどく滑稽で不快なものだった。


「俺、寝てたんだけど」

「……ああ? それが母親に対する態度かよ!」


 投げつけられたビールの空き缶を躱しつつ、冷ややかな視線を送ると、赤らんだ首元に、一際大きな赤い斑点があることに気付いた。


 俺は、即座に目を背けた。


 ————母は、蝉のような女だ。


 止まっていた樹から離れると、即座に新たな依存先を求めて飛び回る蝉のように、必死こいて男を漁り続ける売女。


 母は、父さんが持っていた、プロサッカー選手という肩書きに惹かれて結婚したが、父さんが故障するや直ぐに、新たな男を外に作った。その事実を、父さんが知っていたかどうかはわからないが、酷く虚しい家庭だと幼心ながらに思った記憶がある。


 そのまま何か戯言を垂れ流す母を抱えると、俺は半ば投げ込むように、彼女のベッドへと運んだ。自室に戻ると、スパイクの手入れを行なった。明日も早いが、寝付く気にもならなかった。この沈んだ気分のまま眠れば、あの悪夢を見ることになるだろうと考えたからだ。


 ミンクオイルを塗りたくり、一つの穴を埋めるたびに、自分に欠落している何かが埋まっていくような感覚を覚えつつ、昨年見た、透明人間に関する調査を行なっているうちに、気がつくと夜がふけていた。


 多くのウェブサイトや過去の新聞、オカルト雑誌のバックナンバーを漁るも、手がかりは一切なし。世間に共有されているような、旧豊島中学校透明化事件の概要のみしか、見つかることはなかった。


 あの日、屋上で出会った透明人間の少女は言った。


『私は今から、この学校、いや、世界中の人から恨まれる事をしなくてはならない』。


 その後、本当に、世界中に激震が走った。透明化した建物に関するニュースは瞬く間に全国区で報道され、更には世界中で取り上げられることとなった。


 物質の透明化を活かした、新たな技術を謳う者もいれば、これらは隣国からの軍事行動であると吹聴する者もいた。ただ、一つ共通していたのは、皆、いつか、自分が透明になってしまうのではないかという、恐怖に取り憑かれていた事だろう。


 俺は、彼女の罪を告発するつもりなど毛頭なかった。


 ただ、あの、世界中を震撼させた凶行を行なった彼女の表情が、透明なヴェールに包まれたその顔が、笑っていたのか、恐れていたのかを知りたかった。


 視界が、がくん、と大きく揺れた。どうやら、寝落ちしていたらしい。涎を拭って、脳内に新たな情報を入れようと、文庫本を机から取り出す。


 しかし、文字が目面を滑るだけで、没入できない。諦めて本を閉じて裏に返す。すると、小説の背面に、何かが書き込まれているのが見えた。


『%(8(%2♪☆%※+62…%2:92(#※(○3/:・☆ー』


 意味不明な数字の羅列が、小説の背表紙の下、空白のスペースに油性ペンで書かれている。


 俺は、体に巣食う睡魔から逃げるように、その数字列について考えてみることにした。


 一瞬、交換相手の連絡先が書かれているのかもと思ったが、当然、こんな電話番号は存在しない。よく使うSNSでも、%などの記号をアカウントIDに使う事はできない。


 念を入れ、教科書でカモフラージュを施し、SNSのユーザー検索機能で調べてみる。しかし、意味不明なアラブ語で書かれたアカウントが出てくるだけで、そのアカウントIDも、33876まで合致しているだけである。


 しばらく、思考に没入していると、授業終了を告げるチャイムが鳴り響いた。

 俺は、号令が終わるや否や、一気に、炭酸飲料を飲み干した。

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