第12話:微睡

 宇田が去るとすぐに、日本史教諭の笹山がやってきた。

 夏樹は、姿勢を正し、授業へ前向きに取り掛かる。ただでさえ、部活動に多くの時間をとられる身としては、通常授業でいかに多くの内容を理解できるかが、学業の肝であるのだ。

 号令が終わると、笹山は自前のチョークケースを開いた。

 笹山は、生徒と言われてもわからないほどの、童顔且つ女性的な顔立ちである。有名男性アイドルグループにでもいそうな雰囲気だが、女子生徒達からは、会話のぎこちなさから、気持ち悪いという評価を下されていた。


「きょ、今日は、少しセンシティブな内容を扱います。皆、集中して聞いてください」

 笹山は、リズミカルにチョークを鳴らし、1945年8月1日と黒板に書き記した。

「この日、ここ、東京都豊島区に原子爆弾が投下されました」

「その理由は、えーと、い、伊藤くん。わかるかい?」

「当時、この地域は旧政府の通信と物流の要所であり、軍事的に非常に重要な地点であったためです」

「素晴らしい、大正解だ」

 ガクは質問を受けるや、すぐに模範解答を叩き出した。

 一見アホそうに見えるが、勉強もでき、加えて部活動でもエースを務めるガクを見ていると、世の中は不公平なのだなと、夏樹はいつも感じる。


「壊滅的な被害を受けた、ここ、豊島区は、一度本当の更地になったのです」

 黒板に、当時の白黒写真を貼り付ける笹山。

 しかし、その淡々とした説明は、教室全体に響くも、夏樹にはほとんど耳に入ってこなかった。彼はあくびをかみ殺しながら、机に突っ伏しそうになる自分を必死で支えていた。

「豊島区は、その後の都市再建計画において、連合国政府の指導のもと、平和記念都市として再建されました。特に池袋駅周辺は戦後、商業の中心地として発展し、現在では多くの大企業のオフィスが立ち並んでいる事は、皆もご存知でしょう」


 ————それにしても眠すぎる。水中で聴く音楽のように、笹山の声が耳を滑る。

 最近はどうも眠りが浅く、例の悪夢を見るばかりか、少しの物音や衝撃で目が覚めてしまうのだ。

 日課の英語学習をこなして、布団に潜り込んだのは、確か11時だった。部活動の疲れからか珍しく熟睡できていたのに、アイツの帰宅時の物音で目覚めたのだ。

 起きるや否や、キッチンに行き、水を流し込んで強制的に脳を覚醒させた。

 ドアの前で蹲る彼女の元に、重い足取りで向かうと、40代も後半にも関わらず、派手な真紅のドレスに厚化粧を重ねた母の姿があった。

 元は、売れかけのタレントだったこともあり、幾分マシではあったが、年齢不相応の仰々しい衣装に身を包んだ様は、ひどく滑稽で不快なものだった。

「俺、今寝てたんだけど」

「……ああ? それが母親に対する態度かよ!」

 投げつけられたビールの空き缶を交わすと、アルコールの匂いが鼻を刺した。冷ややかな視線を送ると、赤らんだ首元に、一際大きな赤い斑点があることに気付いた。

 俺は即座に目を背けた。


 母は、蝉のような女だ。


 止まっていた樹から離れると、即座に新たな依代を求めて飛び回る蝉のように、必死こいて男を漁り始めるのだ。

 母は、俺の父親が持っていた、プロサッカー選手という肩書きに惹かれて結婚したが、父が故障するや直ぐに、新たな男を外に作った。その事実を父が知っていたかどうかはわからないが、酷く虚しい家庭だと幼心ながらに思った記憶がある。

 そのまま何か戯言を垂れ流す母を抱えると、俺は半ば投げ込むように、彼女のベッドへと寝かしつけた。そのまま自室に戻ると、ミンクオイルを取り出し、スパイクの手入れを行なった。明日も早いが、寝付く気にもならなかった。この沈んだ気分のまま眠れば、あの悪夢を見ることになるだろうと考えたのだ。

 それに、皮についた土汚れや、開いた穴を修繕していると、心が安らぐのだ。

 一つの穴を埋めるたびに、自分に欠落している何かが埋まっていくような感覚を覚えつつ、昨年見た、透明人間に関する調査を行なっているうちに、気がつくと夜がふけていたのだ。

 多くのウェブサイトや過去の新聞、オカルト雑誌のバックナンバーを漁るも、手がかりは一切なし。世間に共有されているような、旧豊島中学校透明化事件の概要のみしか見つかることはなかった。

 あの日、屋上で出会った透明人間の少女は言った。

『私は今から、この学校、いや、世界中の人から恨まれる事をしなくてはならない』。

 その後、本当に世界中に激震が走った。透明化した建物に関するニュースは瞬く間に全国区で報道され、更には世界中で取り上げられることとなった。

 物質の透明化を活かした、新たな技術を謳う者のいれば、これらは隣国からの軍事行動であると曰う者もいた。ただ、一つ共通していたのは、全ての人々は、いつか、今度は自分が透明になってしまうのではないかという、恐怖に取り憑かれていたことだった。

 俺は、彼女の罪を告発するつもりなど毛頭なかった。

 ただ、あの、世界中を震撼させた凶行を行なった彼女の表情が、透明なヴェールに包まれたその表情が、どんなモノだったのか知りたかった。

笑っていたのか、恐れていたのか。それだけが知りたかった。それに、まだアメリカロックの話もできてやいない。


 夏樹の視界が、がくん、と大きく揺れた。どうやら、半分寝落ちしていたらしい。そう考えると、夏樹は脳内に新たな情報を入れようと、文庫本を机から取り出した。

 しかし、文字が目面を滑るだけで、没入できない。諦めて本を閉じて裏に返す。すると、小説の背面に、何かが書き込まれているのが見えた。


『33876%(8→%2→♪☆%※+2:9〜#+(○%・☆ー』


 意味不明な数字の羅列が、小説の背表紙の下、空白のスペースに油性ペンで書かれている。

 夏樹は、体に巣食う睡魔から逃げるように、その数字列について考えてみることにした。

 一瞬、交換相手の連絡先が書かれているのかもと思ったが、当然、こんな電話番号は存在しない。彼の使うSNSでも、%などの記号をアカウントIDに使う事はできない。

 念を入れ、スマホを取り出し、SNSのユーザー検索機能で調べてみるが、意味不明なアラブ語で書かれたアカウントが出てくるだけで、そのアカウントIDも、33876まで合致しているだけである。


 しばらく、思考に没入していると、授業終了を告げるチャイムが鳴り響いた。

 夏樹は、号令が終わるや否や、一気に、ガクとの賭けの景品である炭酸飲料を飲み干した。


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