第10話:忘れられた箱
青城祭まであと22日 2022年9月8日 7:46 am:大澤夏樹
一年後の晩夏も、昨年と同様に、終わりのない暑さが続いていた。
重い目蓋を擦りつつ、夏樹は校門をスルーして歩き続けると、道路を跨ぎ、校舎の側面にある桜並木に入った。そしてそのまま、一際大きな桜の間を抜けると、草木が生茂る草原へ進む。
雨露が残る雑草を踏みつける毎に、ぐしゃりぐしゃりという音がたち、ぬるい雨水がローファーに入り込む。小さな水溜まりには太陽光が反射しており、目を開けられない程に眩しい。解放感のある澄んだ緑の中、朝の空気を噛み締める様に、息をした。そして、紺色のスラックスに熱を感じ始めた頃、それを見つけた。
その箱は、古びた桜の下にあった。
今年の春、何気なく散歩をしていた時に見つけた、公衆電話ボックスだ。管理会社の対象外となっているのか、電話線は断たれ、通電すらしていない。
人々から忘れ去られたその箱を慈しむかのように、葉桜が優しく覆い被さっている。
薫風が吹き、木々が漣のような音を奏でると、首筋に心地良い空気が流れた。
しかし、日光に晒されていてはまた汗をかくと考え、すぐさま作業に取り掛かる。
先日設置した不法投棄の椅子を公衆電話ボックスの横につけると、それを踏み場に、公衆電話ボックスの天井に設置したソーラーパネルからポータブルバッテリーを取り外す。
そして、軋みを上げる扉を開くと、バッテリーを携帯型扇風機に接続した。
反射材を張り巡らせた甲斐もあって、室内は想定よりも涼しかったが、念には念を入れ、先ほどコンビニで買った冷凍スポーツ飲料を扇風機前に置く。すると、冷たい風が室内の空気を循環させる。
夏樹は、公衆電話ボックス内の椅子にもたれかかるように座ると、遅めの朝食を始めた。梱包を外し、ドレッシングを雑にパスタと絡ませると、甘い胡麻の香りと薫製チキンの匂いが立ち昇る。そのまま、貪る様に麺をすすり、サラダを噛みちぎった。
食後、夏樹は、公衆電話ボックス内の電話帳を入れるスペースから、小説を取り出した。
『風の又三郎』。
自分ではおよそ手に取ることの無い小説。本の交換の醍醐味は普段触れない作品に触れられる点だ、と夏樹は改めて感じた。
夏樹はこの公衆電話ボックスで、顔も名前も知らない生徒と、本の交換を行う。
初めは、自分以外にこの溜まり場を利用する不届き者の存在に不愉快な気分になったが、相手はどうやら律儀な人間のようで、ここを利用する代わりに、幾つかの菓子と文庫本を置いていく。
自身も無断でここを利用している反面、追い出す気にもなれず、夏樹はその置いて行った本と菓子の礼として、その本の感想と共に、自分の勧める小説を置いた。すると相手も、夏樹の本に対する感想を書いたメモと、新たな本をこの場所に置いていくようになったのである。
夏樹は、中学の頃に『銀河鉄道の夜』や『注文の多い料理店』などを読んだ記憶があったが、『風の又三郎』を読んだかは曖昧であった。しかし、なんとなくのストーリーは記憶の片隅にあった。
風の又三郎は、田舎の小学校に三郎という転校生が訪れる話、だったと思う。東京語を話す赤髪の三郎は、地元の子供達には面妖な人物として写り、又三郎という伝承の人物なのではと勘繰られる。そんな少年少女の話。
夏樹は、『銀河鉄道の夜』や『注文の多い料理店』がかなり好きだった。
当時の文体で描かれた繊細な情景描写と、現代人の心に訴えかけるノスタルジックな雰囲気の中に描かれる『死』の扱いを美しいと感じたのである。
しかし、田舎の少年達のゴタゴタを描いたこの作品には、それらのような身に迫るような没入感はないだろうと思い、あまり期待しないままページを進めた。
『どっどど どどうど どどうど どどう 青いくるみも吹きとばせ すっぱいかりんも吹きとばせ どっどど どどうど どどうど どどう』
不安を煽るような、濁音の羅列からその小説は始まった。脚を組んでページをめくり続ける。しばらく読み進めると、学校に行くのも億劫になり始め、今日くらいサボってしまってもいいかもしれないと考え始めた矢先、スマホに着信があった。
手を止め、イヤホンのまま通話する。
「もしもし?」
『夏樹。お前今どこにいる?』
おっとりとした、伸びる様な声。
「溜まり場で朝飯食ってる。まだ、ホームルームの時間じゃないだろ?」
室内に設置した安物の時計を確認する。午前8時。登校の予鈴まであと30分以上ある。
『いやいや、今日は連絡事項があるから、いつもより早く来いって言われたろ?
宇田の野郎、カンカンだぜ。悪いことは言わないから早く来い』
大袈裟に、「不快極まりない」と宇田の口癖を真似ながら捲し立てる。
「完全に忘れてた。すぐに行く」
『おう。早く来いよ。みんな駆け込んできてるぜ』
そのまま相手は電話を切った。深くため息をつくと、バッテリーを扇風機から取り外し、再び屋根の上へ設置した。そのままサラダパスタのゴミと文庫本を抱えて、溜まり場を後にする。
軽快に水たまりを飛び越え、桜並木に飛び出す。駆け足で坂を降ると、信号待ちで車道に並ぶ数台の間を走り抜けた。運転手の不快そうな視線が刺さるが、全て無視し、車両用出口から校内に入る。そして、ボーカルの絶叫を聴きながら、下駄箱で校内靴へ履き替えた。
埃や土汚れが付着し始めた靴を上下し、階段を登る。
その最中、夏樹の周囲には誰もいない。
「あの野郎……」
その光景を見て、夏樹は眉を潜めた。
そのまま、2年8組の教室に着くや否や、後ろから肩を叩かれた。
「おはよう夏樹! 先週の試合大活躍だったらしいじゃん!」
振り返らずとも、その明るい声の主が誰かを理解した。非難の視線を浴びせながら、振り返る。
「『おはよう』じゃない。宇田がいるどころか、まだ皆、登校すらしてないじゃないかこの野郎」
「ごめん、ごめん。夏樹に早く会いたくてさ」
「うるせえ、言い訳すんな」
そう言って、両手を顔の前で合わせているのは、伊藤学。通称ガク。夏樹の数少ない友人であるが、揶揄う為にあの手この手を尽くす悪友でもある。
今日も、冗談か本当かわからぬガクの言葉に騙されてしまった。夏樹たちの周りには、数人分のスクールバッグが置かれているだけで、ほとんどの生徒達は未だ登校中のようだ。
平謝りを続けるガクを他所に、夏樹は自分の席にスクールバッグを下ろした。
「けど、連絡事項があるってのは本当だぜ」
言い訳するガクは、茶色がかった長い前髪を中央で分け、その間からは爽やかな笑顔が浮かんでいる。
「そうかよ」
そのまま自席について文庫本取り出す夏樹。ガクは、夏樹の前の席に後ろ向きで腰掛けた。
「朝練があるんじゃないのか。エースがいない練習も締まらないだろ」
「んー。まだ行かなくていいや」
ガクは、黒色に赤い線が入ったバスケ用の練習着と、バスケットシューズを身につけた、すぐさま運動のできる格好だった。加えて、幾筋か体を流れる汗を見て、大方練習を抜け出してきたのだろう、と夏樹は考えた。
「聞いたぜ。先週末、ハットトリックしたんだって?」
「ああ」
夏樹は、文庫本を机の上においた。
「まじかよ、俺の負けかぁ。今月デート四回もあるのによお!」
「うるせえ、黙って買ってこい」
「おー、こわこわ。やっぱ関東選抜様は違えや」
「ていうか、デート四回ってなんだよ。まさか全員違う子とか言わないよな?」
「え、そうだけど」
けろっと答えるガク。そのまま、ガクの提唱するデート必勝法だとか、文化祭デートを一度は経験するべきだとか、他愛のない会話をした。
「じゃあ、朝練行くわ」
「おう。朝練終わりにコーラ、忘れるなよ」
「うげ」と顔を曇らせたガクは体育館へと走っていった。
その姿に頬を緩ませると、夏樹はそのまま、文庫本を読み進める。しかし、ある一文を目に入れると、ページを捲る手を止めた。
「みなさん、長い夏のお休みはおもしろかったですね。みなさんは朝から水泳ぎもできたし、林の鷹にも負けないくらい高く叫んだり、またにいさんの草刈りについて上の野原へ行ったりしたでしょう。けれどももうきのうで休みは終わりました。これからは第二学期で秋です。むかしから秋はいちばんからだもこころもひきしまって、勉強のできる時だといってあるのです。ですから、みなさんもきょうからまたいっしょにしっかり勉強しましょう」
教師が何気なく語りかけるその文章は、単なる日常の一コマのようでいて、ノスタルジーが漂っていた。
終わりゆく少年時代への淡い憂いと、新たに訪れる青年期への物悲しさが、夏休みという輝きの終焉と肌寒い秋の訪れによって暗示されている。その文章の奥に秘められた、静かな時間の流れを、夏樹は感じ取った。だが、彼が感じたのは、ただの懐古ではなかった。
————そうだ……俺は、彼を終わらせてしまったのだ。
瞬間、足首をつかまれる感覚が走った。
一年の時を経て歪に繋ぎ合わさった、あの日の記憶が、無人の教室で再上映される。
夏樹は、ゆっくりと、視線を足元に落とした。目に飛び込んできたのは、蔦のように絡みつく五本の指。その白い爪は、皮膚を裂き、肉を断とうとせんばかりに、力強く彼の足を掴んでいる。
その後ろには、見知った顔があった。何度も見た、忘れる事などできるはずも無い顔。しかし、その顔には生気がなく、床の汚れのように薄暗い瞳で、こちらを見つめている。
青白い肌には微かに残った血管が滲み、口元は苦渋にひきつり、笑っているようにも見える。
ゆっくりと、口元が動くと、彼は言葉を発した。
なぜお前だけが、前に進もうとするのだ。もはや俺は、走る事さえできないのに。
「長谷川先輩……」
黒い短髪には砂埃が付着し、端正な顔は痛みに歪んでいる。
夏樹の右足首を握る力が、さらに強まった。
「ひっ……!」
椅子が倒れる音と共に、夏樹は、立ち上がって周囲を見回した。しかし、穏やかな朝日と眠気を纏った気怠い空気が、整然と並べられた机と共にあるだけだ。
しん、と静まりかえった教室の中、夏樹は椅子を起こして教室を去った。
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