透明な呪い ➀
2021年9月7日:大澤夏樹
『それ』は、目には見えない。
和紙に水滴を垂らすと、白く透き通っていた紙が歪み、黒く滲んだ部分から穴が開いていくように、脆い青春期の心に染み込んだ『それ』は静かに俺たちの心を蝕む。
それは、呪いだ。青春時代に溢れた、透明な呪い。
その呪いは、「死ね」だの、「消えろ」みたいな、直接的な言葉じゃない。
家族、友人、恋人————多種多様な人間から放たれる些細な言葉、態度、経験。日常に無数に巣食う、ありふれたものだ。
「あなたなら出来るわ」という、母親からの期待で心を壊した受験生。
「お前の話ってつまらないよな」という、友人の何気ない罵声で口を閉ざした男子生徒。
彼らは皆、以降の人生を、喪失感に苛まれたまま過ごすことになる。歳を重ねても埋まる事のない空虚を求めて徘徊し、ゆっくりと、暗い底へと沈んで行くのだ。
どうすれば、この呪いから逃れるのか。
答えは単純だ。『勝つ』。
受験に、恋に、部活動。青春時代に存在する、ありとあらゆる同世代との競争に、勝つ事でしか、救われやしないのだ。手段を選ばずに他者を蹴落とし、限りある椅子を奪い合うこと。それこそが人生の真理だ。
————ならば、俺はどうして、逃げているのだろう。
今すぐ引き返して、彼と向き合うべきだと判っている。こんな感情的な行動は道理から外れている事も理解している。だが、どうしても。どうしても、足が向かない。あの場所に戻ってしまえば、俺の中の大切な何かが失われる。そんな破滅的予感が脳内に洪水を起こしているのだ。
近づくサイレンの音が、茜色に染まり始めた晩夏の青空に響く。地平線の向こうに聳える暗い積乱雲が、罪を犯した自分を捕まえようと、手を伸ばしているように思えた。
「はあ、はあ……!」
俺は、黒い運動着姿のまま、息も絶え絶えに公道を走り抜ける。アスファルトに着地する度にサッカースパイクが削れ、リュックが肩に食い込む。滝のように汗が流れ、心臓が張り裂けそうだ。
だが、いっそ、このまま止まって欲しかった。上がる体温と共に溶け、このまま透明になって、夏の残り香がある景色に消えて行きたかった。
俺の横を、トラックが不機嫌そうに抜き去ってゆく。ガソリンの匂いを感じながら、飛び込むように横断歩道を渡ると、池袋駅前へと続く大通りに至る。薄暗い外灯の下、サラリーマン達の行列があった。疲労で項垂れた男達の間を縫って進む。
そのまま池袋平和記念館を超え、豊島原爆ドームを横目に、駅の南北を跨ぐ地下道へと進んだ。消えかかった蛍光灯に照らされた大理石の壁面には、戦死者達の名簿と、彼らを悼む声明文が描かれている。無数の死者に見られているような気がして、俺は再び速度をあげた。
心臓が限界を迎え、疲労に足が動かなくなると、沈み行く太陽の向こうに、見知らぬ中学校があった。藍色の闇に染められた校舎。しかし、屋上だけが、微かに残った赤い夕暮れに照らされている。その光に当たれば、この鬱屈とした気分も、晴れるかもしれない。
重い脚を引きずり、校門に至るが、すでに施錠されていた。万人を拒絶する黒い門を、俺は躊躇なく飛び越える。
視界に映り込んだ校舎は、非日常に染まっていた。白を基調とした校舎は見る影もなく、看板やテント、巨大広告といった色とりどりの装飾で彩られている。そして、それら全てを、夕焼けと闇が染め上げていた。
祭の期待を感じさせる光景にも関わらず、周囲には誰一人もいない。
軒を連ねる模擬店や出店だけが、祭の到来を待ちわびているかようだ。スパイクのまま昇降口を抜け、階段を登る。火照った体が冷えていく感覚の中、クリーム色の廊下に差し掛かると、声をかけられた。
「止まりなさい!」
振り返ると、制服姿の女生徒がこちらを見据えていた。
「校内でスパイク履いてるなんて信じらんない」
「ごめん。すぐに脱ぐよ」
茶色がかった髪を一つに束ねた、白いワイシャツと紺のスカート姿の少女。警戒心を刺激せぬよう、俺は即座にスパイクを脱いだ。少女は、満足そうに頷く。
どうやら、不法侵入者であるとは思ってないらしい。見た目の活発さに違わぬ、純粋な、疑う事を知らぬ性格のようだ。
だが、少女はその場を動かぬまま、じっとこちらから視線を離さない。俺は、ゆっくりと口を開く。
「……もう下校時刻じゃないのか?」
遠回しに帰れと伝える。不法侵入者が言う内容ではないが。
「何言ってんの。文化祭準備最終日に、早く帰れる訳ないでしょ」
少女は、少し不審そうに答えた。
「そうだった。俺もそろそろ、教室に戻ろうかな」
俺は、笑顔を取り繕う。
「……私のクラスでたこ焼き売るから、絶対来てよね」
「楽しみにしておくよ」
困ったように笑うと、少女は来た道へと戻っていった。その姿を見送り、ガラス張りの廊下を抜ける。突き当たりにある、メッキの剥がれ掛かった階段を登ると、屋上へ出た。
無人の屋上には、雨を予感させる湿った風が吹き抜けていた。
人の立ち入りが想定されていないのか、まるで清掃がなされておらず、所々に黴びた灰色の斑点があるだけだ。しかし、茜色に包まれたその光景は、荒んだ心を浄化するようだった。
一歩踏み出し、腐ったアスファルトに足を触れる。ぬるりとした感触。そのまま歩いて、柵に手を預けると、池袋の夜景がよく見えた。乱立するオフィスビルの間に、大きな緑と噴水を携えた、豊島原爆ドームがある。
ふと、音楽を聴こうとイヤホンを探すが、スタジアムの更衣室においてきたようだった。仕方なく、スピーカーのまま、プレイリストからレディオヘッドの「Creep」を選ぶ。
ゆっくりと海中に沈んで行くような浮遊感と質量のあるメロディ。そして、サビ前に訪れる、心が摩耗するようなギターに聞き入る。しかし、目蓋の裏に、鮮明に、あの、歪にねじ曲がった膝が浮かんだ。
「くそ……!」
柵を叩いた。
彼は、尊敬すべき先輩だった。憧れていた存在だった。共に数多の試合を戦い、共に駆けた仲間だった。なのに、あの瞬間、俺は、彼の未来を奪ったのだ。
————『ごめんな』。
「なんで、なんで……あんたが謝るんだよ……!」
『I wish I was special.』
『特別でありたかった』
トム・ヨークのかすれた声。目を閉じ、歌詞に込められた自虐的な痛みが胸に突き刺さるのを感じた。いつの間にか滲んだ視界に、世界が歪んで映る。
きっと俺は、死ぬまでこの感情に囚われる事になるのだろう。何を食っても、誰と話しても。あの姿が、俺に現実を突きつけるのだ。お前が、奪ったのだと。
ゆっくりと、体の中心から穴が広がって行き、最終的には消えてなくなるのだ。あの日以来、失踪した父さんのように、誰からも忘れられてゆく。
「泣いているの?」
透き通るような声だった。
顔を上げ、慌てて振り返る。しかし、そこには誰もいない。風に揺れる屋上だけだ。
再び、声が聞こえた。
「どうして、泣いているの?」
声の主は確かにすぐ後ろにいる。俺は息を飲んだ。幻聴でも起こしているのか?
すると、目の前で、ゆっくりと『何か』が形作られていく。
いつか見た、水が凝固する映像を思い出した。何も存在しないような液体が、ゆっくりと、白い塊へと変化していく映像。その映像に合わせるように、目の前で、ぼんやりとしていた輪郭が、藍色や白色の布へと変わって行き、徐々に顕になった。
白いワイシャツと紺のスカート。
しかし、その全身は透明だった。本来あるはずの、瑞々しい顔、艶やかな髪、しなやかな手脚。それらは全て存在せず、向こうの景色が透けて見え、制服だけが風に靡いていた。目の前には、透明人間がいた。
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