透明人間の殺し方

復活の呪文

プロローグ:2021年 9月4日

 それは、目には見えない。

 それは言葉であり、態度であり、あるいは経験であるかもしれない。


 和紙に水滴を垂らす。


 白く透き通っていた紙が歪み、黒く滲んだ部分からやがて穴が開いていくように、脆い青春期の心に染み込んだ呪いは、静かに俺たちの心を蝕み、ついには壊してしまうのだ。


 それは、呪いだ。青春時代に溢れた、『透明な呪い』。

 何もそれは、「死ね」だの、「消えろ」みたいな、直接的な言葉じゃない。

 家族、友人、恋人————多種多様な人間から放たれる些細な言葉、態度、経験。日常に無数に巣食う、ありふれたものだ。

「あなたなら出来るわ」という、母親からの期待で心を壊した受験生。

「お前の話ってつまらないよな」という、友人の何気ない罵声で口を閉ざした男子生徒。

 彼らは皆、以降の人生を、喪失感に苛まれたまま過ごすことになる。歳を重ねても埋まる事のない空虚を探し、ゆっくりと、暗い底へと沈んで行く。


 どうすれば、この呪いから逃れるのか。

 答えは単純だ。『勝つ』。

 受験に、恋に、部活動。青春時代に存在する、ありとあらゆる同世代との競争に、勝つ事でしか、救われやしないのだ。手段を選ばずに他者を蹴落とし、限りある椅子を奪い合うこと。それこそが人生の価値であり、真理だ。


 ————ならば、俺はどうして、逃げているのだろう。


 今すぐ引き返して、彼と向き合うべきだと判っている。こんな感情的な行動は道理から外れている事も理解している。だが、どうしても。どうしても、足が向かない。あの場所に戻ってしまえば、俺の中の大切な何かが失われる。そんな破滅的予感が脳内に洪水を起こしているのだ。


 近づくサイレンの音が、茜色に染まり始めた晩夏の青空に響く。地平線の向こうに聳える暗い積乱雲が、罪を犯した自分を捕まえようと、手を伸ばしているように思えた。


「はあ、はあ……!」


 大澤夏樹は、黒い運動着姿のまま、息も絶え絶えに公道を走り抜ける。アスファルトに着地する度にサッカースパイクが削れ、リュックが肩に食い込む。

 全身には、滝のように汗が流れ、張り裂けそうに心臓が鼓動を刻んでいる。

 だが、いっそ、このまま止まって欲しかった。上がる体温と共に溶け、このまま透明になって、夏の残り香がある景色に消えて行きたかった。


 黒髪を揺らしながら走る夏樹の横を、スピード超過のトラックが不機嫌そうに抜き去ってゆく。ガソリンの匂いを感じながら飛び込むように横断歩道を渡る。


 池袋駅前へと続く大通りに至ると、薄暗い外灯の下、帰路につくサラリーマンがゾロゾロと歩いていた。疲労で項垂れた男達の間を縫うように、夏樹は駆け抜ける。

 オフィス街に似付かぬスパイクを姿の青年を、人々は興味と不審を携えて眺める。夏樹は、そのまま池袋平和記念館を超え、豊島原爆ドームを横目に、駅の南北を跨ぐ地下道へと進んだ。消えかかった蛍光灯に照らされた大理石の壁面には、戦死者達の名簿と、彼らを悼む声明文が描かれている。無数の死者に見られているような気がして、夏樹は再び速度をあげた。


 心臓が限界を迎え、疲労に足が動かなくなると、沈み行く太陽の向こうに、見知らぬ中学校があった。


 藍色の闇に染められた校舎。しかし、屋上だけが、微かに残った赤い夕暮れに照らされている。その光に当たれば、この鬱屈とした気分も、罪も、晴れるかもしれない。


 光に群がる虫のように、夏樹は重い脚を引きずって進んで行く。何とか校門にたどり着くも、既に施錠されていた。しかし、警備が鳴り出そうと、どうでもよかった。夏樹は、背丈ほどの門を飛び越え、校舎内に入った。


 すると、夏樹の視界に映り込んだ校舎は、非日常に染まっていた。白を基調とした校舎は見る影もなく、看板やテント、巨大広告といった色とりどりの装飾で彩られている。そして、それら全てを、夕焼けと闇が染め上げていた。


 祭の期待を感じさせる光景にも関わらず、周囲には誰一人もいない。

 軒を連ねる模擬店や出店だけが、祭の到来を待ちわびているかの様に、静けさを纏って校内に佇んでいるばかりである。夏樹はスパイクのまま昇降口を抜け、階段を登る。火照った体が冷えていく感覚の中、クリーム色の廊下を進むと、声をかけられた。


「止まりなさい!」


 振り返ると、この学校の女生徒らしい少女がこちらを見据えていた。


「校内でスパイク履いてるなんて信じらんない」

「ごめん。すぐに脱ぐよ」


 茶色がかった髪を一つに束ねた、白いワイシャツと紺のスカート姿の少女に指摘され、夏樹はスパイクを脱いだ。どうやら、不法侵入者であるとは思ってないらしい。見た目の活発さに違わぬ、純粋な、疑う事を知らぬ性格のようだ。


「昨日は、文化祭か何かだったのか?」

「何言ってるの。文化祭は明日。それで皆、こんな遅くまで残ってるんじゃない」

「そうだった。互いに楽しもう」


 夏樹は、笑顔を取り繕って答える。


「もちろん。明日、私のクラスでたこ焼き売るから、絶対来てよね」

「楽しみにしておくよ」


 照れくさそうに笑うと、少女は、来た道へと戻っていった。その姿を見送り、そのまま、ガラス張りの廊下を抜けて、メッキの剥がれ掛かった階段を登ると、屋上へ出た。


 無人の屋上には、雨の到来を予感させる湿った風が吹き抜けている。

 人の立ち入りが想定されていないのか、屋上はまるで清掃がなされておらず、所々に黴びた灰色の斑点があるだけで、人はなく、茜色の光に包まれているだけであった。

 夏樹は、ぬるりとした床に不快感を覚え、スパイクを履いた。そのまま歩くと、柵に手を預けて遠くを見据える。夕焼けと闇が混ざった空の下に、乱立するオフィスビル。その間に、大きな緑と噴水を携えた、豊島原爆ドームが見えた。


 ふと、音楽を聴こうとイヤホンを探すも、スタジアムの更衣室においてきたようだ

った。仕方なく、スピーカーで流す。


 プレイリストからレディオヘッドの「Creep」を選ぶ。ゆっくりと海中に沈んで行くような浮遊感と質量のあるメロディ。そして、サビ前に訪れる、心が摩耗するようなギターに聞き入る。


 しかし、いくら浸ろうと、目蓋の裏に、あの、歪にねじ曲がった膝が鮮明に浮かんだ。


「くそ……!」


 震える声と、柵を叩いた音が屋上に響いた。


 彼は、尊敬すべき先輩だった。憧れていた存在だった。共に数多の試合を戦い、共に走り、共に駆けた仲間だった。なのに、あの瞬間、夏樹は、自ら彼の未来を奪ったのだ。


 ————『ごめんな』。


「なんで。なんで、あんたが謝るんだよ……!」


『I wish I was special.』

『特別でありたかった』


 トム・ヨークのかすれた声が、まるで自身に向けた呟きのように耳に届く。夏樹は目を閉じ、歌詞に込められた自虐的な痛みが胸に突き刺さるのを感じた。

 眼前の茜色の太陽よりも濃い黒い炎が、彼の中で絶えず燃え続けている。

 いつの間にか、頬に筋が流れていた。


「泣いているの?」


 透き通るような声だった。

 その流麗な声は、水が泥を流してしまう様に、夏樹に取り憑いた黒い感情を取り払った。

 顔を上げ、慌てて振り返る。しかし、そこには誰もいない。風に揺れる屋上のフェンスだけが視界に映る。だが、再び声が聞こえた。


「どうして泣いてるの?」


 声の主は確かにすぐそばにいる。夏樹は息を飲んだ。精神的な限界に達しているのか? 


 混乱の中、彼の目の前でゆっくりと何かが形作られていく。

 夏樹は、いつか見た、水が凝固し、氷へと変化する映像を思い出した。何も存在しないかのような液体がゆっくりと、白く、塊へと変化していく。その映像に合わせるように、彼の前で、最初はぼんやりとしていた輪郭が、藍色や白色の布へと変わって行き、徐々に顕になる。


 白いワイシャツと紺のスカート。


 しかし、その全身は透明だった。本来あるはずの、若さに溢れた顔、艶やかな髪、しなやかな手脚。それらは全て存在せず、向こうの景色が透けて見え、制服だけが風に靡いていた。   



 ————目の前には、透明人間がいた。



「なんだ、お前」

「見てわからない? 透明人間よ」


 身構える夏樹の前で、制服が、くるりと回転する。


「……冗談だろ?」

「所がどっこい現実です。頬でもつねってみたら?」


 言われるままに頬をつねるが、確かな痛みがあるだけだった。


「言っておくけど、幻覚でも無いからね。手、出してみて」

 夏樹が言われるままに手を突き出すと、虚空に触れた。差し出した掌に、自分の掌よりも一回り小さな、柔らかく冷たい掌が触れる。


「これでわかったでしょ。ほら、ちょっと座って話そうよ」

「あ、ああ」

 そのまま透明人間に促され、二人は、屋上へ続くドアの前に腰を下ろす。ひんやりとしたアスファルトの感触が下半身から伝う。


「で、なんで泣いてたの?」

「……顔も見せない奴に教える必要はない」

「あら、酷い」


 異常な相手を前にしても、夏樹は不思議と落ち着いていた。最初は驚いたものの、1日のうちに感情が動きすぎたのか、はたまた、脳が理解を諦めたのか。今ではもう驚きも恐怖もない。それに、このまま怪異に殺されようが、どうでもよかった。


「レディオヘッド。好きなの?」

「ああ。お前も知ってるのか?」

「勿論。1985年にイギリスのオックスフォードで結成されたオルタナティブロックの象徴的バンド。今君が流しているのは、代表曲の『creep』。身長の低いトムの疎外感と劣等感を歌った曲だね」


 制服がねじれ、夏樹の方に向く。


「随分、詳しいな」


 正直、目の前が透明人間である事実よりも、このバンドを知っていることの方が衝撃的だったかもしれない。十数年の中で出会った同年代の学生は皆、流行りのポップスを聞くのみで、会話も、カラオケも、酷く退屈なものだった。


「好きなんだよね。UKロック特有の、メランコリーな雰囲気が」

 透明な少女は、時折、流れる音楽に耳を傾けながら、つらつらと語る。


「思うんだけど、イギリスの、雨と霧ばっかりの天候も影響していると思うんだ。南国でこんな曲は絶対に生まれない」


 持論を展開する透明人間。夏樹はふと、虚空に浮いている制服は、先程夏樹が出会った女子生徒と同じものである事に気付く。しかし虚空から溢れる声は、先ほどの彼女よりも低い。


「中でも『creep』は別格。よくこの曲を聴くと沈んでいきそうって人が居るんだけど、私はそうは思わない。この曲って、自分の劣等感や孤独を前面に打ち出してるでしょ? 無数の観客の前でこんな歌詞を歌うなんて、よっぽどの勇気がないとできないよ」


 目の前の相手は、姿も、表情も、何もかもわからない、怪異である。


「自分の醜さを曝け出して、必死に足掻いている曲。だから、この曲を聴くと、前へ進もうって気持ちになるんだ」

「なるほど」


 けれど、ただこうして、音楽談議ができているだけで満足だった。夏樹は、笑顔で口を開く。


「この曲は、中々ライブでも聴けない。トムがこの曲に固執してバンドが停滞する事を嫌がったからだ。その証拠に、次のアルバムでは前衛音楽を取り入れた全く違う曲調になっている。変わろう、という強い意志があるんだ」


「お。さすがに詳しいねえ」


 透明人間も嬉しそうに笑った。すると、そのまま立ち上がって口を開く。


「私も今日、ここに、変わる為に来たんだ」

「実体を持つようになるとか?」


 冷笑しつつ夏樹が言うと、制服が揺れた。首を横に振ったのだろう。


「理由も、目的も、言う事は出来ない。けれど一つだけ君に言える事がある」

「なんだよ。勿体ぶるなよ」

 立ち上がりつつ夏樹が言うと、透明人間は振り返った。

「すぐに、この学校から立ち去って。悪い事は言わないから」


 夏樹は、違和感を覚えた。何かが欠落しているような空虚が、屋上に溢れている。そうだ、いつの間にか曲の再生が止まっている。アルバムの曲が全て流れたのだろう。だったら、もう一度新しい曲をかけ直さなくては。


「お願いだから。今すぐここを出て行って欲しいの」


 そんな甘い考えを切り落とすように、彼女は再度現実を突き付けた。


「私は今から、この学校、いや、世界中の人から恨まれる事をしなくちゃならない。嫌われる事も、恐れられる事も覚悟はしているけれど、貴方だけには、そう思って欲しくないの」


「なんだよ、それ」

「お願い」

 透明な少女は、懇願するように語った。


「……わかったよ」

 夏樹は気怠い脚で立ち上がると、リュックを背負った。

 乳酸の溜まった足を引きずって進むと、階段へと続く、黒い扉を開いた。


「おいバケモノ。お前、アメリカのロックもいけるのか?」


 帰り際、夏樹は振り返って透明人間に尋ねた。


「う、うん」

「じゃあ、次はそれを語るぞ。逃げたら承知しないぜ」

「オラオラ系かよ。うざー!」


 立ち去る夏樹に、彼女は笑って声をかけた。その返事に満足すると、夏樹は戸を引き、足を進めた。先程まで、音楽と笑い声で溢れていた屋上で、一人、少女は呟いた。


「大丈夫だよ、大澤くん。また学校で会えるよ」

 その数分後、大きな光が校舎全体を包んだ。



 旧豊島区立中学校透明化現象について


 事件発生時刻:2021年 9月4日 午後6時頃

 発生場所:旧豊島中学校(住所: 東京都豊島区)


 事件概要:2021年9月4日午後6時頃、旧豊島中学校において前例のない異常現象が発生。校舎及び備品を含む全ての無機物が突然透明化し、現場に居合わせた生徒および教職員に極度の混乱を引き起こした。現象発生時、校舎では文化祭の準備が行われており、現場に居合わせた生徒および教職員、合わせて102名が事態に巻き込まれた。


 発生状況:現象発生直後、透明化した校舎や備品などの影響により、生徒たちは空中に浮遊しているように錯覚し、錯乱状態に陥った者が多数確認された。特に二階および三階の教室にいた生徒の中には、透明になった床に対する錯誤から転倒に伴う負傷が複数発生している。

 また、前述した混乱が比較的軽度であった一階では、事態に気づいた教職員による避難誘導が即座に開始された。しかし、透明化した校舎が障害物となり、避難経路の確保に困難を伴ったと報告されている。


 初動対応:異常事態発生の報告を受け、警察は直ちに付近の警察署に応援を要請。合わせて救急隊も出動し、現場の安全確保と、生徒および教職員の避難を指導した。透明化した校舎内部では従来の物理的構造が視認できなくなっている為、警察と救急隊の初動対応にも大きな困難が生じた。

 事件の異常性と透明化現象の広範な影響を考慮し、午後6時33分、政府機関の判断により自衛隊への出動要請がなされ、午後7時には第一陣の隊員が現場に到着。空中浮遊するかのように見えた生徒達を保護し、近隣住民の安全確保に努めた。さらに、透明化した校舎内に残留した危険物の有無や人体への影響が懸念された為、科学防護服を着用した調査が進められた。



 調査について:事件後、日本政府は旧豊島中学校を対象とした高度な調査を行う為、国内外の専門家からなる調査団体を編成し、透明化現象の原因調査を開始した。

 しかし、数か月にわたる徹底的な調査にもかかわらず、校舎や備品の透明化の原因については一切の手がかりが得られていない。また、人体への直接的な影響や長期的な健康リスクも不明であるため、校舎および周辺地域は政府管理下に置かれ、厳重な立ち入り禁止措置が取られている。


 結論:旧豊島中学校における透明化現象は、国内外の専門家によって今後も継続的に調査が進められる予定であるが、透明化の原因や影響については現時点で明らかになっていない。事態の再発防止に向けて、現場での調査及び安全確保が引き続き重要視されており、現場周辺の住民への注意喚起が継続されている。

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