第8話:贖罪

「なんだ、お前」

「見てわからない? 透明人間よ」

 身構える夏樹の前で、制服がくるりと回転する。

「冗談だろ?」

「所がどっこい現実です。頬をつねってみたら?」

 頬をつねる。どうやら、夢ではないようだ。ならば幻覚だろうか。

「言っておくけど、幻覚でも無いからね。ほら、手を出してみて」

 夏樹が言われるままに手を突き出すと、虚空に触れた。差し出した掌に、自分の物よりも小さな、柔らかな掌が触れる。

「これでわかったでしょ。ほら、ちょっと座って話そうよ」

「あ、ああ」

 そのまま透明人間に促され、屋上へ続くドアの前に腰を下ろす。

 すると、ひんやりとしたアスファルトの感触が下半身から伝った。


「で、なんで泣いてたの?」

「顔も見せない奴に教える必要はない」

「あら、酷い」


 異常な相手を前にしても、夏樹は不思議と落ち着いていた。1日のうちに感情が動きすぎたのか、まるで驚きも恐怖も感じない。それに、このままこの怪異に殺されようが、どうでもよかった。


「レディオヘッド。好きなの?」

「ああ。お前も知ってるのか?」

「勿論。1985年にイギリスのオックスフォードで結成されたオルタナティブロックの象徴的バンド。今君が流しているのは、代表曲の『creep』。身長の低いトムの疎外感と劣等感を歌った曲だね」

「随分、詳しいな」


 正直、目の前が透明人間である事実よりも、このバンドを知っていることの方が衝撃的だったかもしれない。十数年の中で出会った同年代の学生は皆、流行りのポップスを聞くのみで、会話も、カラオケも、酷く退屈なものだった。


「好きなんだよね。UKロック特有のメランコリーな雰囲気が。思うんだけど、イギリスの、雨と霧ばっかりの天候も影響してると思うんだ。南国でこんな曲は絶対に生まれない」


 持論を展開する透明人間。視線を向けると、虚空に浮いている制服は、先程夏樹が出会った女子生徒と同じものだった。しかし、声は先ほどの彼女よりも低い。


「中でも『creep』は別格。よくこの曲を聴くと沈んでいきそうって人が居るんだけど、私はそうは思わない。この曲って、自分の劣等感や孤独を前面に打ち出してるでしょ? 無数の観客の前でこんな歌詞を歌うなんて、よっぽどの勇気がないとできないよ」

 

 目の前の相手は、姿も、表情も、何もかもわからない、怪異である。


「自分の醜さを曝け出して、必死に足掻いている曲。だから、この曲を聴くと、前へ進もうって気持ちになるんだ」


「なるほど」


 けれど、ただこうして、他人と音楽談議ができているだけで満足だった。彼女と話している間は、先ほど自分を覆っていた黒い感情を忘れることが出来た。

 夏樹は、笑顔で口を開く。


「この曲は、中々ライブでも聴けない。トムがこの曲に固執してバンドが停滞する事を嫌がったからだ。その証拠に、次のアルバムでは前衛音楽を取り入れた全く違う曲調になっている。変わろう、という強い意志があるんだ」


「お。さすがに詳しいねえ」


 透明人間も嬉しそうに笑った。すると、そのまま立ち上がって口を開く。


「私も今日、ここに、変わる為に来たんだ」

「実体を持つようになるとか?」

 冷笑しつつ夏樹が言うと、制服が揺れた。首を横に振ったのだろう。

「理由も、目的も、言う事は出来ない。けれど一つだけ君に言える事がある」

「なんだよ。勿体ぶるなよ」


 立ち上がりつつ夏樹が言うと、透明人間は振り返った。


「すぐに、この学校から立ち去って。悪い事は言わないから」


 夏樹は、違和感を覚えた。何かが欠落しているような空虚が、屋上に溢れている。そうだ、いつの間にか曲の再生が止まっている。アルバムの曲が全て流れたのだろう。だったら、もう一度新しい曲をかけ直さなくては。


「お願いだから。今すぐここを出て行って欲しいの」


 そんな甘い考えを切り落とすように、彼女は再度現実を突き付けた。


「私は今から、この学校、いや、世界中の人から恨まれる事をしなくてはならない。嫌われる事も、恐れられる事も覚悟はしているけれど、貴方だけには、そう思って欲

しくないの」

「なんだよ、それ」

「お願い」

「……わかったよ」


 懇願する彼女を前に、夏樹は気怠い脚で立ち上がると、リュックを背負った。

 元々、不法侵入している身、従うほかはあるまい。そして、彼女の言う通り、階段へと続く、黒い扉を開いた。


「おいバケモノ。お前、アメリカのロックもいけるのか?」

 帰り際、夏樹は振り返って透明人間に尋ねた。

「う、うん」

「じゃあ、次はそれを語るぞ。逃げたら承知しないぜ」

「オラオラ系かよ。うざー!」


 立ち去る夏樹に、彼女は笑って声をかけた。その返事に満足すると、夏樹は戸を引き、足を進めた。先程まで、音楽と笑い声で溢れていた屋上で、一人、少女は呟いた。


「大丈夫だよ、大澤くん。また学校で会えるよ」

 その数分後、大きな光が校舎全体を包んだ。


 旧豊島区立中学校透明化現象について

 事件発生時刻:2021年 9月4日 午後6時頃

 発生場所:旧豊島中学校(住所: 東京都豊島区)


 事件概要:2021年9月4日午後6時頃、旧豊島中学校において前例のない異常現象が発生。校舎及び備品を含む全ての無機物が突然透明化し、現場に居合わせた生徒および教職員に極度の混乱を引き起こした。現象発生時、校舎では文化祭の準備が行われており、現場に居合わせた生徒および教職員、合わせて102名が事態に巻き込まれた。


 発生状況:現象発生直後、透明化した校舎や備品などの影響により、生徒たちは空中に浮遊しているように錯覚し、錯乱状態に陥った者が多数確認された。特に二階および三階の教室にいた生徒の中には、透明になった床に対する錯誤から転倒に伴う負傷が複数発生している。

 また、前述した混乱が比較的軽度であった一階では、事態に気づいた教職員による避難誘導が即座に開始されたものの、透明化した校舎が障害物となり、避難経路の確保に困難を伴ったと報告されている。


 初動対応:異常事態発生の報告を受け、警察は直ちに付近の警察署に応援を要請。合わせて救急隊も出動し、現場の安全確保と、生徒および教職員の避難を指導した。透明化した校舎内部では従来の物理的構造が視認できなくなっている為、警察と救急隊の初動対応にも大きな困難が生じた。

 事件の異常性と透明化現象の広範な影響を考慮し、午後6時33分、政府機関の判断により自衛隊への出動要請がなされ、午後7時には第一陣の隊員が現場に到着。空中浮遊するかのように見えた生徒達を保護し、近隣住民の安全確保に努めた。さらに、透明化した校舎内に残留した危険物の有無や人体への影響が懸念された為、科学防護服を着用した調査が進められた。

 

 調査について:事件後、日本政府は旧豊島中学校を対象とした高度な調査を行う為、国内外の専門家からなる調査団体を編成し、透明化現象の原因調査を開始した。

 しかし、数か月にわたる徹底的な調査にもかかわらず、校舎や備品の透明化の原因については一切の手がかりが得られていない。また、人体への直接的な影響や長期的な健康リスクも不明であるため、校舎および周辺地域は政府管理下に置かれ、厳重な立ち入り禁止措置が取られている。


 結論:旧豊島中学校における透明化現象は、国内外の専門家によって今後も継続的に調査が進められる予定であるが、透明化の原因や影響については現時点で明らかになっていない。事態の再発防止に向けて、現場での調査及び安全確保が引き続き重要視されており、現場周辺の住民への注意喚起が継続されている。


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