第7話:透明人間

 心臓が限界を迎え、疲労に足が動かなくなると、沈み行く太陽の向こうに、見知らぬ中学校が見えた。

 藍色の闇に染められた校舎。しかし、屋上だけが微かに残った赤い夕暮れに照らされている。その光に当たれば、この鬱屈とした気分も、罪も晴れるかもしれないと思った。

 光に群がる虫のように、夏樹は重い脚を引きずって進んで行く。何とか校門にたどり着くも、既に施錠されていた。しかし、警備が鳴り出そうと、どうでもよかった。夏樹は背丈ほどの門を飛び越え、校舎内に入った。


 すると、夏樹の視界に映り込んだ校舎は、非日常に染まっていた。白を基調とした校舎は見る影もなく、看板やテント、巨大広告といった色とりどりの装飾で彩られている。そしてそれら全てを、夕焼けと闇が染め上げていた。

祭の期待を感じさせる光景にも関わらず、周囲には誰一人もいない。

 軒を連ねる模擬店や出店だけが、祭の到来を待ちわびているかの様に、静けさを纏って校内に佇んでいるばかりである。

 

 夏樹はスパイクのまま昇降口を抜け、階段を登る。火照った体が冷えていく感覚の中、廊下を進むと、声をかけられた。


「止まりなさい!」


 振り返ると、この学校の女生徒らしい少女がこちらを見据えていた。

「校内でスパイク履いてるなんて信じらんない」

「ごめん。すぐに脱ぐよ」


 茶色がかった髪を一つに束ねた少女に指摘され、スパイクを脱いだ。どうやら、不法侵入者であると思ってないらしい。見た目の活発さに違わぬ、純粋で真っ直ぐな、疑う事を知らない性格のようだ。


「昨日は、文化祭か何かだったのか?」

「何言ってるの。文化祭は明日。それで皆、こんな遅くまで残ってるんじゃない」

「そうだった。互いに楽しもう」

「もちろん。明日、私のクラスでたこ焼き売るから、絶対来てよね」

「それは良いな。楽しみにしておくよ」


 照れくさそうに笑うと、少女は、自分の教室へと戻っていった。その姿を見送り、そのまま、ガラス張りの廊下を抜けて、再び階段を登ると、屋上へ出た。

 

 雨の到来を予感させる湿った風が吹く。人の立ち入りが想定されていないのか、屋上はまるで清掃がなされておらず、所々に、黴びた灰色の斑点がある。そのまま柵に手を預けて、遠くを見据える。真紅の夕焼けと闇が混ざった空の下に、池袋駅の夜景があった。乱立するオフィスビルの間に、大きな緑と噴水を携えた、豊島原爆ドームがある。


 1日の終焉を表すような景色を見ていると、きっと、この街が一度終わった時、原子爆弾が落とされた時も、こんな景色だったのだろう。そう思った。

 ふと、音楽を聴こうとイヤホンを探すも、更衣室においてきたようだった。仕方なく、スピーカーで流す。

 プレイリストからレディオヘッドの「Creep」を選ぶと、ゆっくりと海中に沈んで行くような浮遊感と質量のあるメロディと、サビ前に訪れる、心が摩耗するようなギターの音に聞き入る。しかし、いくら浸ろうと、目蓋の裏に、あの、プラモデルのようにねじ曲がった膝が鮮明に浮かび上がってくる。


「くそ……!」


 震える声と、柵を叩いた音が屋上に響いた。長谷川は、尊敬していた先輩だった。憧れていた存在だった。サッカーを共に戦い、共に走り、共に駆けた仲間だった。なのに、あの瞬間、夏樹は自分の力で彼の未来を奪い、呪いの言葉をかけられたのだ。

『ごめんな』と。


「なんで、あんたが謝るんだよ……」

重傷を負って尚、他人を案じる優しさを持つ彼を……俺は……!


『I wish I was special.』


『特別でありたかった』


 トム・ヨークのかすれた声が、まるで自身に向けた呟きのように耳に届く。夏樹は目を閉じ、歌詞に込められた自虐的な痛みが胸に突き刺さるのを感じた。

長谷川を壊してしまった————その罪が、彼の中で絶えず燃え続けている。

 いつの間にか、頬に筋が流れていた。


「泣いているの?」


 透き通るような声だった。

その流麗な声は、水が泥を流してしまう様に、夏樹に取り憑いた黒い感情を取り払った。

 顔を上げ、慌てて振り返る。しかし、そこには誰もいない。風に揺れる屋上のフェンスだけが視界に映る。だが、再び声が聞こえた。


「どうして、泣いてるの?」

 声の主は確かにすぐそばにいる。夏樹は息を飲んだ。精神的な限界に達しているのか? 混乱の中、彼の目の前でゆっくりと何かが形作られていく。


 夏樹は、いつか見た、水が凝固し、氷へと変化する映像を思い出した。何も存在しないかのような、液体がゆっくりと、白く、塊へと変化していく。その映像に合わせるように、彼の前では、最初はぼんやりとしていた輪郭が、藍色や白色の布へと変わって行き、徐々に顕になる。

 しかし、その全身は透明だった。本来あるはずの、若さに溢れた顔、艶やかな髪、しなやかな手脚。それらは全て存在せず、向こうの景色が透けて見え、制服だけが風に靡いていた。   

 

 目の前には、透明人間がいた。

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