第6話:白殺し➁

 人工芝の上をボールが駆ける。美しい弧を描きながら地を這い、最終ライン裏のスペースに向かう白黒のボールには、上りきった太陽の身を焼くような陽光が煌めいていた。

 夏樹は右にフェイクの動作を入れ、白いビブスを着た敵選手の視界から消失した。ユニフォームが揺れ、一迅の風となる。

 

 スコアは2対2。試合終了目前、選手達は既に体力の限界を超え、勝利の渇望だけが彼らを走らせる最後の燃料だ。

 

————行ける、行けるぞ……!


 夏樹が敵のマークを外した瞬間、タイミングを見た中盤選手から、スルーパスが発射された。夏樹は最終ラインを抜け、迫り来るスルーパスの軌道に合わせて強く加速する。人工芝をスパイクが踏みつけ、大腿四頭筋が収縮と膨張を繰り返しながら、彼の大きな身体を前へと押し出す。


 加速する身体、上がる体温に反比例して、視界はスローになり、余計な情報が遮断された頭は冷静になってゆく。この瞬間、夏樹はあらゆる柵から解放され、ゴールを決めるだけに存在する生物になる。


 突然、右腿に鈍い痛みが走ると共に視界が揺れた。右側から強靭な腕が伸び、進路を妨害された夏樹は、一段と走るスピードを落とした。首を振ると、右側から石岡が猛然とプレスに来ているのを捉えた。ピタリと体に張り付いたユニフォームが、はちきれそうに怒張している。


 後半に夏樹が決めた2点は、両方とも、石岡との対決が起点だった。1点目では、石岡をドリブルで突破したことによるディフェンスラインの破壊。そして2点目では、石岡のトラップミスを夏樹が拾い、バイタルエリアからミドルシュートを放ったのだ。


 自身の落ち度で同点を許した石岡の視界は血走っており、これ以上の失態は許されないという自責の念と、夏樹に対する対抗心が、大きな炎となって彼の身を包んでいる。


「これ以上は、やらせねぇぞ!」


 声を張り上げる石岡。丁寧な語気が消え、ただ憎悪だけが込められた声。


(このままではスルーパスに間に合わない……!)

 右頬に矢印が刺さるような感覚を覚え、夏樹は首をそらした。瞬間、先程まで顔のあった場所を、岩のような拳が通った。どさくさに紛れて石岡が拳を振ったのだ。夏樹は必死に体をぶつけ、石岡の白い布に巻かれた膝に、審判から気取られない程度に軽く膝を当てた。


「ぐ……っ!」


 悶える石岡の声が耳元で聞こえたのと同時にプレスが弱まる。その隙を逃さずに夏樹は、前に躍り出た。残るは相手キーパーのみである。

 ハイプレス、およびゾーンプレスを完遂するには、夥しい量のスプリントが必要となる。後半も終了間際となった今、敵選手達は疲労困憊しており、試合開始当初のスピードもなく、他の守備選手は夏樹のはるか後ろだ。


 夏樹は、左から迫るボールの軌道と、ゴール前に立ち塞がるキーパーの重心を確認すると、より一層の集中を自分に課した。応援の叫び声、選手達のコーチングの声が消えると、相手キーパーさえも消えた。無音の世界には、ボールとゴールしか無い。


 この全能感にも似た孤独な世界を、夏樹は愛していた。


 タイミングを合わせて右足を振り抜き、相手キーパーの重心と逆方向、ゴールの左下隅に叩き込む。力強い、キーパーの長い腕を潜り抜けるような、内巻きの回転をかけるイメージ。


(決まった……!)


 夏樹は一瞬、ゴールの歓喜に胸を膨らませた。次の瞬間、響いたのは、得点を告げ

る歓声ではなく、彼のスパイクが、肉を断裂する音だった。


「ぐああ!」


 聴き覚えのある声。だが、一度も聞いたことの無い悲痛に溢れる絶叫が、グラウンド全体に木霊した。その声にハッとし、視線を下す。


 パーツを間違えたプラモデルのようだった。


 長谷川の右脚は、不自然な角度でねじ曲がり、その膝は本来の位置から完全に外れている。膝から下が、接続を失い、ただぶらりと力なく垂れ下がっている。発達したハムストリングスも、普段の力強さを失い、出来の良い模型のように無機質に見えた。彼の脚全体が、まるで生命を失ったかのように、そこに存在するものの、生気がまったく感じられない。


 そして、何より恐ろしかったのは、その場には一滴の血も流れていないことだった。あり得ないほどの重症なのに、血の気配すらない。それが、却って異様で、まるで彼の脚が既に死んでしまったかのように、生命の兆しが失われている。


「膝が……膝が……!」


 長谷川の声がかすれた声で震えていた。彼の手は無意識に膝を掴み、必死にその破壊された部分を確認しようとしていたが、その触れた指先にさえ、感覚があるのかどうか、疑わしかった。長谷川が、痛みに耐えかねて転げ回るたびに、力なく膝が揺れる。


 涙を滲ませて、虚空を見つめる長谷川。みしみしと、骨が軋み、肉が裂ける音が、虫が這うように夏樹の鼓膜を伝う。


「お、俺は……!」


 夏樹は、その場で膝から崩れ落ちた。試合の時とは違うアドレナリンが脳内に溢れ、吐き気すらする。そのまま固まった二人の周りに、次々に人が集まった。


「長谷川……長谷川!」

「おい、やばいだろこれ!」

「宿直の保険医と……救急車を呼んでくれ! 豊島スタジアムと言えば直ぐ伝わる!」


 駆け寄った選手やコーチ達に囲まれたまま、苦しそうにもがく長谷川の姿を見て、夏樹は今朝のテレビを思い出していた。穏やかな男性の声ではなく、電車で聞いた女性の機会音声が、淡々と続ける。


「白殺しとは、相手の呼吸点をじわじわと減らし、最終的に全ての白石を取る戦略図面を見て黒が左上隅で白石を囲んでいる黒は慎重に呼吸点を制限し、白が動けなくなるように仕掛けます。この戦略が、『白殺し』です」


「囲まれた白石には、もう道はありません。これで黒の勝ちが決定します」


 黒いビブスの選手達に囲まれる長谷川。その姿は、まるで、『白殺し』に嵌った碁石のようだった。脱出するどころか、動くことさえかなわない閉鎖的な状況。

 呼吸が乱れる。試合中に10キロ近く走った時よりも、苦しい。汗で湿った黒い練習着を掴んで、夏樹はそのままグラウンドへと懺悔するように突っ伏した。


「どけ……! 通してくれ!」


「先生が来たぞ。道を開けろ!」


 混沌と化したフィールドの上には多くの声が行き交う。それらを押し除け、白衣の男が長谷川の横に膝をつけた。そのまま素早く長谷川の膝に慎重に触診を行う。膝の異常な動きを感じ取り、眉をひそめながら判断を下す。


「膝の不安定感と腫れが酷いな。前十字靭帯が断裂している可能性が高い。アイシングと膝を固定して、すぐに救急車を手配してください。今すぐ整形外科での診断が必要です」


「救急車、呼びました! 5分ほどで到着するとの事です!」


 うなずく医者の男。そのまま、苦悶に表情を歪めた長谷川に優しく声をかける。


「長谷川君、聞こえるかい? もう少しの辛抱だよ。ゆっくり深呼吸をして、落ち着くんだ」

「全部……全部終わるんですか……?」

 虚な目で青空を見上げながら、ゆっくりと、長谷川は口を開いた。

「大丈夫。回復の可能性は高いよ。数ヶ月安静にすれば、また直ぐにサッカーができるさ」

 その言葉を聞くや否や、ゆっくりまぶたを閉じて、深呼吸をした。

「夏樹……いるか?」

「います……! ここにいます!」

 夏樹は、顔を上げて、長谷川の顔を覗き込んだ。小麦色に焼けた肌は青白くなり、一筋の滴が頬を伝っている。端正な顔は痛みに耐えかねて歪み、全身に黒いゴムチップがまとわりついているのが見えた。

「ご……」

「え……?」

 夏樹は、一瞬呼吸を忘れた。


「ごめんな……」


「意識を失った……! 早く氷を取ってきてくれ!」


 医師の絶叫が響くのも束の間、夏樹は一人駆け出した。更衣室へ駆け込むと、自分の荷物を雑に詰め、練習着のままスタジアムを飛び出す。目的地などない。ただ少しでも、あの場所から遠ざかることができればそれで良い。


 近づくサイレンの音が、茜色に染まり始めた青空に響く。地平線の向こうに聳える暗い積乱雲が、罪を犯した自分を捕まえる為に手を伸ばしているように思えた。

 迫りくる、白く大きな手から逃れ、ただ只管に公道を走る。リュックが揺れ、地面に着地する度にスパイクのポイントが削れる感覚と、鈍い痛みが足首に刺さる。それでも、全力で力強く走った。電車など使う気にならなかった。あの無機質な、理性を直接揺さぶる密室に乗り込んでしまったら、そのままどこかに消えていってしまいそうで怖かった。


 見知らぬ住宅街に入る。既に食卓が囲まれているのか、窓からカレーや焼き魚の匂いが香る。その匂いを消すように、更にスピードをあげた。心臓が張り裂けそうに痛むが、いっその事このまま止まって欲しかった。上がる体温と共に溶け、このまま透明になって、夏の残り香がある景色に吸い込まれるように消えて行きたかった。


 池袋駅前へと続く大通りに至ると、薄暗い外灯の下、帰路につくサラリーマンがゾロゾロと歩いていた。多くのオフィスが並ぶこの通りを、スパイクを着用した青年が走る光景は、さぞ滑稽に映る事だろう。そのまま池袋平和記念館を超え、豊島原爆ドームを横目に、駅の地下へと進んだ。暖色の蛍光灯に照らされた大理石の壁面には、戦死者達の名簿と、彼らを悼む声明文が描かれている。無数の死者に見られているような気がして、夏樹は再び速度をあげた。

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