隠し扉3

 杖の先端にある透かし彫りが施された球体から白い霜がハラハラと落ちている。急に部屋の温度が下がったような気がしてニーナは身震いした。吐く息が白くなる。

 サンドラがトンッと杖をついた箇所からピシピシと床に氷が広がっていくのが見える。それは真っ直ぐ伸びながらシリルを避けて、ソニアの足元まで届いた。

 途端に、ガチガチと歯を鳴らしてソニアが震え出す。


「あ、サ、サンディねぇ……、そ、そ、そ、それ、お、お、王城の、宝物庫で、み、みた、ことある……」

「ええ、樹齢千年を超えたオークから削り出された宝杖〝氷の女王ル・カラナリア〟で間違いありません。これに魅入られたから、わたくしは15歳で王城に出仕することになったのですから」

「は……はぁ? う、うそ……、あ、あ、曰く付きアーティファクトにみ、み、み、見込まれて、ぶ、ぶ、無事だ、なんて、そ、そそ、そんな、は、は、話……」

「聞いたことないでしょう?当然です、古代遺物アーティファクトの契約者はほとんどが沈黙を守ったまま、謎の死を遂げていますから。わたくしもジアーナ様が庇ってくださらなかったら……。同時代に本物の天才が筆頭宮廷魔術師であったことは、この上ない僥倖でしたね」


 ものすごく闇深な話がさらっと語られているような気がするのだが、それよりも意識が保てずふらふらとし始めたソニアの様子に、焦ったニーナが声を上げる。


「このままじゃソニヤさんが死んじゃうよっ! よく状況がわからないけど、多分そう、ちょっとした行き違いだと思うの! だって本棚に肩がぶつかっただけだし!」


 しんしんと降り頻る雪空のように凍てついた美しいグレーの瞳が、ニーナの姿を捉えて、溶けるように柔らかい光を浮かべる。


「ニーナ様は本当に聡くていらっしゃいますね。大丈夫ですよ、これは警告ですから」


 そう答えたサンドラが手にしている杖は、もう霜を吐き出してはいない。拘束が解かれたようにふらふらとソファに倒れ込むソニヤ。それを一瞥もせず、ニーナへ向き直ったサンドラが、未だに淡い光を放ったままのリボンにそっと手を伸ばした。


「これに施された魔術紋様は、持ち主が危機に瀕した場合に結界を張るだけのものなのですけれど」


 ピクニックに行っただけでシームルグに攫われるようなお嬢様はそうはいないだろう。だが、二度とないと断言できないから、サンドラたちはニーナの負担にならずに身を守れるような術を考えていたのだ。


「一針一針にニーナ様を守りたいとの強い思いが込められています。祈りながら刺繍された魔術紋様は思ってもみない効果を発することがあるのですが、ここまでとは」

「そうか、これはアンナが作ってくれたんだね」


 みんなに随分と心労をかけているのだと、ニーナはようやく理解した。鍛えられているとはいえ、あまりにも素早く駆けつけてきたシリルとライナー、二人もきっと常にニーナに気を配っているのだろう。

 サンドラもだ。先ほどのソニヤとのわずかなやり取りからでさえ、この家で家政婦長をやっていていい人には思えない。

 ライサも、今どうしているのだろう。

 思考がぐるぐるして困惑しているニーナを察して、サンドラはシリルに声をかける。


「ニーナ様をアンナのところへ連れて行って差し上げて。彼女も心配しているでしょうから。ああ、そこの魔術師なら魔力枯渇でしばらくはまともに動けないので大丈夫ですよ」


 ソファでぐったりしているソニヤを警戒していたシリルだったが、その言葉に殺気を解いてニーナの方へいつもの人懐っこい笑顔を向ける。


「ニーナ様、居間パーラーに行きましょうかー。アンナ様が美味しいお茶とお菓子を用意して待っていらっしゃいますよー」


 シリルに庇われるように背中を押されてニーナは執務室を出る。気になって振り返ったが、困ったように首を傾げるライナーによって中から扉は閉められてしまった。


 さて、とサンドラが切り出す。

 掴まれたはずみで肩がぶつかっただけだとニーナは言うが、それくらいで施された紋様以上の魔法は発動しない。明確な強い感情あるいは害意に、アンナの祈りが過剰に反応したのだ。


「ニーナ様に対して、かなり強い思惑があるようだけれど。それはあなた個人に発するものなのかしら、ね?」


 辺境伯や侯爵家の肩入れの仕方に、ニーナが公表通りの身の上ではないと勘ぐる連中が既にいるのだ。

 しかし、ハウス・アンスティートの使用人は辺境伯か侯爵家にゆかりのある者に限られているため他家が手先スパイを潜り込ませる余地はなく、言い訳をつけて社交界に出てこないニーナに接触できないでいた。

 そこに屋敷に堂々と入れるような依頼が舞い込んだとあれば、利用しようとする輩がいても驚きはしない。さらにノシュテット家系の魔術師ならば疑われることもない、というところだろうとサンドラは推察していた。


「あなたは特に野心家ですものね、想定内ではあります。ああ、依頼主については何も聞かないから安心して? 先ほども言いましたがこれは警告ですから、次は容赦いたしませんけれど。でもね、こちらの依頼した仕事はきっちり行っていただかないと困ります。さあ、続きをどうぞ」


 サンドラが手にしている宝杖からふわりと霜が落ち、ソニアの瞳が恐怖で歪む。反射的に逃げようと扉へ顔を向けるが、そこには濃密な死の匂いを纏った魔狼ガルムが立っていた。

 〝氷の女王ル・カラナリア〟の絶対零度の冷気から身を守るため、ほとんどの魔力を消費してしまったソニアに逃げる術はない。魔法が使えなければ魔術師もただの人だ。ましてや下級とはいえ貴族令嬢のソニアが魔法以外に抗う術を持つはずもなく、魔力枯渇でふらふらのまま調査を再開するしかなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る