お引越し

 なんとなく聞いてみただけなのだが、ニーナの希望は意外なほどすんなり通った。てっきりソフィア王女が反対すると思ったのだが、シェーザックの資料が残っていない元研究所に興味はなかったらしい。ただし、肖像画は持って行かれてしまったが。

 元々国が管理していたので権利関係に問題もなく、新たに屋敷を一軒建てるよりも安上がりだと財務府が大喜びで後押ししたと聞いたが、政治関係は何が幸いする分からないものだ。

 ただ、初代院長の記念的に残されていた執務室以外はほぼ空き家だったので、古い設備の入れ替えや壁紙の張り替えなどが必要になり、住めるようになるまで一ヶ月半ほどかかった。

 屋敷の呼称は〝ハウス・アンスティート(=研究所の館)〟に決まった。そのままやないかーい、というニーナのツッコミは却下された。伝統的にそういうものらしい。


 こちらの暦だと風の月8月は秋真っ只中で、山々や森はすっかり紅葉していた。屋敷の外観で変わったのは、警備上の問題とかで病院との間に塀が作られたことと、屋敷用の門が増設されていること、あとは屋敷の東側にレンガ造りの厩舎が新しく建てられたことくらいか。

 郊外ということもあって移動に馬車や馬は不可欠だし、貴族のステータスでもある馬はとても大事にされるのだ。


 引っ越しまでの間にいくつか決まったことがある。

 まず、ニーナは王家の客人という立場なのだが、王城どころか王都からも出るとなると、子どもひとりでというわけにはいかない。屋敷の維持運営は王城から人員を出すか新たに雇うことになるが、ニーナの事情を知っていて保護する大人が必要になる。

 というわけで、ライサがニーナの後見人になった。それに合わせて「エールリン女伯爵」に叙されることが決定している。これは未成年の貴族の後見人になるには、同格以上の爵位を有する成人でなければならないという法律があるためだ。

 サンドラは屋敷の女主人の代行者たる家政婦長ミセス・ベルトレとして赴任、アンナは正式にニーナ専属の侍女となった。出納も含め屋敷全体の実務は全てサンドラが取り仕切るのだが、国との折衝は病院のオスヴィン事務長が担当するという。

 警備は王城の時と同様に緋衣クラモワジー騎兵隊が行なうが、ハウス・アンスティートは水堀と塀を備えているので門衛を出す程度になる。


 新しく設置された跳ね橋を渡って緋衣クラモワジーのコート姿の兵士が守る門をくぐれば、いよいよ新居だ。

 馬車のドアの向こうに、きっとサンドラが立っているはずで、うっかり窓から覗こうものなら、後で何を言われることやら。


「ニーナお嬢様、どうぞお手を」


 ずらりと並んだお仕着せメイド服の一番前にいるのは予想通りのサンドラなのはいいとして、今ニーナの手を取って踏み台を降りる介添えをしているのは、従僕のお仕着せリボンジャケットを着たシリルではないか。

 どういうこと!? と飲み込んだ言葉の代わりにシリルを横目で睨むが、キラッキラなスマイルで流された。


 玄関ホールに入るとまるっきり雰囲気が変わっていた。以前はいかにも研究所っぽい白い漆喰の壁と板張りの床だったのが、分厚い絨毯が敷き詰められ、明るい暖色の壁紙が貼られている。

 何より吹き抜けの灯りが豪華なシャンデリアに替わっていて、貴族のお屋敷という感じになっていた。


「まずは応接間へどうぞ」


 すすすっと前に回ったシリルが玄関ホール右手の部屋の扉を開ける。

 ここは研究所時代は講義室だったが、今は大きな暖炉が設えられ、来客と歓談できるようにマホガニーの家具に、揃いの柄の肘掛け椅子や長椅子が並べられている。

 ニーナはすべすべのベルベット生地をひと撫でして、暖炉側の肘掛け椅子に座った。ライサがニーナの向かい側に、アンナが長椅子に腰掛けると、メイドの一人が厨房へ通じる方の扉からティーサービスセットの乗ったワゴンを押して入ってきた。

 銀盆に乗せられた純銀製のテーブルウェアには繊細な花模様が装飾されていて、こういうものの価値を知らないニーナでも一目で高級品だとわかる。


「で、なぜシリルがここにいるのかな?」


 サンドラが入れてくれたお茶を飲みながら聞こうとしたところで、扉がノックされた。

 素早く反応したシリルが用心深く少しだけ開けようとして、その扉に弾き飛ばされる。着地と同時に前方へ踏み込んで、開け放たれた空間に立つ大きな黒い影に、いつの間にか手にした短剣ごと体当たりする。

 が、ぶつかる寸前に大きな手で頭をがっちり鷲掴みされていた。


「おー、従僕なのにいい反応だなあ。でもそんなんじゃあ俺は倒せないぞ!」


 あははははという空気を全く読む気のない笑い声には覚えがある。


「ヴァルナルさん、シリルを子犬のように掴むのはやめてあげて」


 シリルは、おそらく魔法王国の成人男性の中でもかなり小柄だ。190cmを優に超える巨漢相手に、むーむー唸りながら手足を振り回してジタバタしてる姿は、本当に子犬が戯れているようにしか見えない。


「おーすまん、すまん」

「ヴァルナル様ひどいですよー。もう僕、従士じゃないのにー」


 ヴァルナルは片手で掴んでいたシリルを床に下ろすと、ポンポンとその頭を撫でる。


「ニーナ嬢、警備の件は後ほど挨拶に伺うんで。それとは別件です。んんっ、本日は我が父ハーゼンバイン辺境伯ヘルマンよりの贈り物を持って参りました。当領地より選りすぐった馬4頭と御者1名、馬丁4名、確かに厩舎に届けましたからね。あ、御者はここにいたっけ。詳しくはこいつに聞いてください。ではっ!」


 自分の後ろに隠れていた人物をひょいっと引っ張り出し、ヴァルナルは踵を返して帰って行った。そこに居たのは、魔狼ガルムが人の形をとったらこうなるだろうと思わせる灰色の髪と金色の瞳の青年。

 置いていかれた青年と取り残されたシリルが向かい合う。


「あれライナーだ、どうしたの?」

「シリルこそ、どうしたんだい?」


 ライナーはニーナの歩哨についていた兵士の一人だ。


(ライナーが贈り物? 御者?どういうこと?)


「あ、あの、俺は、ニーナ様のところへ辺境伯領から馬を贈ると聞かされまして。

バヤールって馬はとても頭がいいんですが、気難しくて世話が大変なんです。お館様は馬丁は出せるけど御者までは無理と言ったそうで、騎兵隊でバヤールが扱える俺が御者になりました。あ、これがお館様からの目録と書状です」

「ん、辺境伯領?」

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