狂愛的、割れ鍋に綴じ蓋

 私は、相手を閉じ込めて、自分の隣に縛り付けたい。

 愛しい人に隣に居てほしいという願いは、多かれ少なかれみんな持っているけれど、私は、それが強すぎるのね。

 人生における最愛を一つしか持てない私は、これと決めた誰かに熱が一点集中してしまう。

 けれど私は、物語に出てくる狂愛者に、共感しきることができなかった。

 きっと、私のソレと、彼、彼女たちと相手へ抱く愛の重さや系統は同じはず。

 それなのに、どうして、ふとした時や手に入らなかった時に、愛が憎しみに変わって、殺したり攻撃したりしようとするのか、全く分からなかった。

 かわいい笑顔や綺麗なからだ、のびやかな健康を守ってあげたいと思うでしょう?

 ガタガタと怯え、化け物を見るような目で見られたくはないでしょう?

 痛いと泣いて、ごめんなさいと謝ってくる姿は見たくないわ。

 正気を失った虚偽の愛ではなくて、キチンと心が欲しいと望むでしょう?

 ねえ、恋しい人を永遠に美しい姿で保存するとか、自分のものにするために殺すとか、そういうの、全く理解できないのよ。

 死んじゃったら、そこで終わりなのよ?

 生きていたら、いつか振り向いてくれるかもしれないというのに。

 大体、死体なんて、動かない、しゃべらない、こっちを見てくれない、ただの冷たい肉の塊じゃない。

 そんな寂しい存在に愛を見出すなんて……

 もしも、愛おしくて仕方のない存在に拒絶されたら、私なら、一生閉じ込めて、一日中、愛を誓うわ。

 私への怯えや苦しみが愛に変わるまで、毎朝、愛を語り、お昼にキスをして、毎晩、手錠をかけたその人と眠る。

 だって私は、相手を酷く愛していて、幸せになってほしいんだもの。

 そんな思想の私は……


 女性はカチャカチャと音を立てて鍵の束を漁り、三つかけられた鍵を一つずつ解錠していく。

 そして、ガチャリとドアを開けた。

 中には、綺麗な衣服を着た健康そうな男性が、ベッドの上にちょこんと座っている。

 男性を快適に過ごさせるためだろうか。

 室内には本棚やゲームの入った箱、可愛らしいぬいぐるみや観葉植物が置かれ、エアコンと数枚の毛布が用意されている。

 他に、小さな冷蔵庫や洗面台も用意されており、部屋の隣にはトイレも用意されていた。

 基本的に、この部屋だけで生活ができるようになっているらしい。

 また、男性に日光を浴びせるため、室内には窓が付いているが、サイズは必要最低限であり、天井近くに設置されている嵌め殺しのそれは、どのようにしても、脱出には使えない。

 部屋を施錠した大量の鍵といい、見てくれは監禁だが、女性が犯罪者であり、男性が自分の意志に反して閉じ込められているか、と聞かれれば、必ずしもそうではない。

 なにしろ、彼女は付き合いたての男性を自らの家に連れ込み、リビングで正座をする彼に、

「ねえ、私、貴方が凄く好きよ。でもね、私は狂愛持ちなの。だから、今すぐ貴方を、物理的に閉じ込めてしまいたくて、仕方がないわ。でも、ねえ、そんな犯罪、良くないでしょう? 捕まったら、愛しい貴方と一緒にいられなくなっちゃう。だから、同意が欲しいのよ。特殊なプレイや性癖にしたいの。でも、今ならまだ、ギリギリあなたへの愛を捨てられる。ねえ、監禁を受け入れられないなら、今夜中に出て行って。そしたら、二度と追わないから。でも、受け入れてくれるなら、あそこの部屋で一夜を過ごして。そしたら私、貴方を一生放さないわ。だって、一度でも受け入れてもらえたら、狂愛が花開いてしまうんだもの。犯罪者に成り下がっても、泣かれても、放せないわ。どうするのか、朝の六時までに決めてね」

 と、微笑みながら、一切の淀みなく言い放ったのだ。

 話した内容からして常軌を逸しているのだが、それよりも、穏やかな口ぶりや優しい笑顔、真直ぐ男性を見つめる黒の瞳がどこか狂気をはらんでいて、妙に恐ろしい印象を与えた。

 実際、今までに付き合ってきた男性は、女性の言葉を聞いてすぐさま逃げ出していたし、冗談だと思い、朝まで室内に居残った男性も、女性がカギを施錠するのを見て、慌てて逃げ出した。

 逃げられた時点で一切追うつもりはなく、連絡先も消そうと思ったのだが、

「この犯罪者予備軍! 二度と俺にかかわるな! お前みたいな屑、さっさと捕まっちまえ!」

 と、男性たちの方から怒鳴られ、連絡先も自動で消去されていた。

 自分の異常性を理解している女性は、確かに、と苦笑いを浮かべ、それでも受け入れてくれる男性がいないものかと、のんびり、お相手を探していた。

 好きになりすぎないよう気を付け、相手を愛しく思ってしまったら、その時点で監禁のお誘いをする。

 そして、振られてしまって落ち込む、というのを繰り返していた。

 彼女が例の男性に勧誘の言葉を告げたのは、他の男性たちに比べるとかなり早い方だった。

 彼の姿や態度、性格に、妙に惹かれるものがあったのだ。

 逃げられれば追わないつもりだが、それが揺らぎかけるほど、なんだか愛おしかった。

『どうしても欲しいわ。でも、震えているから、きっと逃げられちゃう。世界一周旅行の当選に外れたようなものだと、思うしかないわね。ああ、欲しいのにな。隣に居てくれたら、狂愛が満たされる以上の何かがある気がするのに。振られるのを想像して泣きかけるのは、初めてだわ。でも、大丈夫、ちゃんと諦めてあげるから』

 どこか投げやりな思考でそんなことを思っていたのだが、女性の予想に反して、彼は家に居座り、指定された部屋の中で眠りこけていた。

 翌朝、部屋の中ですやすやと眠る男性を見つけ、彼女は、自らの胸が満ちていくのを感じると、激しくなる心臓が鳴った。

 まだ駄目だ。

 女性は暴れる心臓に鎖を巻き付けると、

「ねえ、起きて。六時よ。朝の、六時よ。ねえ、自分の選択の意味が分かっているの? これを受け入れたら、貴方は、私と一緒の時以外は、二度とお外に出られなくなるのよ。お仕事も、自宅からできるものにするか、専業主夫になるか、ニートになるかの三択よ? 趣味がインドア派ならいいけど、お友達と自由に遊んだりとか、できなくなるのよ? それに、私は可能な限り、常に貴方の隣に居座るわ。それはきっと、想像するよりも重苦しくて、面倒なの。私のは、本当に放せなくなる狂愛なのよ。おまけに、本当に貴方を愛しているの。ねえ、ぬか喜びさせないで。ちゃんと、よく考えて。これから、あと一時間あげるから」

 と、再度、選択の機会を与えた。

 それでも彼は残ることを選び、今日で一年になるが、未だに逃げるそぶりを見せていない。

 酷く喜ぶ半面、女性は、なぜ彼が縛られてくれたのか分からずに混乱した。

 彼が、女性が付き合ってきた他の男性たちを同じように、普通に働き、普通に生活をしていたごく一般的な男性で、自分の狂気を受け止められるような特異な性質があるようには、到底思えなかったからだ。

 おまけに、男性は彼女に怯え、怖がるようなそぶりを見せている。

 それに、彼は「好きだ」と告白して以降、女性に好き、とも、可愛い、とも言っていない。

 彼が女性に好意を寄せているのかさえ、よく分からないのだ。

 彼が家に住み着く理由は不明のままだが、女性としては、受け入れられ、逃げずに側にいてくれることが嬉しかったし、一方的な狂愛を抱いているので、あまり気にしていなかった。

 彼女は自身の恋愛観に則って、彼の心を手に入れようと日々を過ごしている。

「ただいま、今日もかわいいね。帰りが遅くなっちゃってごめんね。寒くなかった? これから、ご飯を作るわ」

 女性は柔らかく微笑むと、嬉しそうに男性の方へと近づいた。

 すると、男性は女性から少し距離をとり、ベッドの端の方へと寄って行く。

 まるで、子猫が人間に怯え、毛を逆立てるかのようだ。

「あら、まだ懐いてはくれないのね。ふふ、しょうがないか。そんなところもかわいいわ。ねえ、今日のご飯は何がいい?」

 女性がこてんと首を傾げると、男性は少し押し黙った後、ボソボソッと「ハンバーグとコーンポタージュ」と答えた。

「あら、随分と可愛いものをお願いするのね。でも、いいわよ。ふふ、お料理のリクエストは嬉しいわ。それだけ、心を許してくれているということだもの。コーンポタージュなんて、もう何回もリクエストしてくれているし。お気に入りなのね。ねえ、ちゃんと、ご飯の前にお野菜のスムージーも飲んでね」

 女性が上機嫌に笑うと、男性は露骨に嫌そうな顔をした。

「不満なの? かなり飲みやすく作ってあるのに」

 男性は、ボソボソと「野菜が入っていると思っただけで嫌」と顔を背けた。

「あらら、我儘さん。どうしても嫌ならいいわ。でも、私は、貴方の綺麗になってきたお肌と健康を、守りたいのよ」

 ふわりと笑って、男性のハリのある頬に触れた。

 男性は驚いて目を見開き、震えたが、その目元にはクマの一つも存在しない。

「私たちは恋人なのに、どうして、貴方は私を怖がるのかしら。貴方を害したことなんてないでしょう? ほら、見て。もしかして、前のネイルがついた長い爪が怖かったのかと思って、ま~るく切ったのよ。ネイルだって落としたし。ね? 引っ掻けやしないわ」

 綺麗に切りそろえられて丸っこくなった爪を見せても、男性は怖がったままだ。

「そう、そんなに怖いの。じゃあ、これ以上は触れないわ」

 女性は小さくため息をつくと、男性から離れ、持っていた紙袋を渡した。

「この間、気に入ったと言っていた服を買ってきたの。後で着てみて。ねえ、ご飯の前に、お風呂に入る? 良かったら、一緒に入らない?」

 男性は真っ青な顔でブンブンと首を振って、紙袋を抱き締めた。

「そうよね。まだ、そこまでは、心を許してくれないわよね。分かってるわ。おいで、一緒にリビングまで行きましょう。いくつか本を買ってきたから、暇つぶしに読むといいわ。テレビを見てもいいし、スマホを弄ってもいいの。まあ、スマホは逐一監視するけど。私の隣で、楽しく過ごしてね」

 男性は少し考えた後に頷き、女性の隣を歩いた。

「ねえ、私、貴方にポコンと殴られて、おいたをされても、貴方が好きよ。決して逆上して、貴方を傷つけたりしないわ。どうしても好きなんだもの。ねえ、だから、貴方が私をもっと好きになって、震えたり、怯えたりしなくなるよう、頑張るわ。貴方から好きを言って、甘えてくれるのを楽しみに、とびきり貴方を愛して、甘やかして見せる。だから、ねえ、ずっと大事にするから、私の隣にいてね。放せないからね?」

 柔らかく微笑む女性に、男性は震えながら頷いた。


 俺は昔から、女性が駄目だった。

 目の前に行くと、心臓が激しく怯えて鳴り散らかし、冷たい汗が流れた。

 体が硬直して、言葉が小さくなった。

 けれど、恋愛の物語に出てくる、格好良い「王子様」のような男性にはもちろんのこと、一歩間違えばストーカーの、内気で気弱な男性にも共感できなかった。

 何かが違ったんだ。

 きっとコレは、羞恥のドキドキとか、ときめきのようなものではなくて、恐怖に近いのだと思う。

 だから、夢見心地のふわふわとした甘さや、温かく心を満たすような、低刺激の熱は無い。

 あるのは全身が凍結するような怯えと、心臓と脳を破壊するような刺激の強い熱だ。

 そして、これらが、俺の内にある相手への愛情と、ドロドロ、ぐちゃぐちゃと混ざることで、極上の恐怖へ至る。

 もしも俺が、女性に怯えるだけで、一生かかわらずにいられる性格だったら良かった。

 だが、残念なことに、俺は女性が好きで、恋愛に強いあこがれを抱いている。

 極上の恐怖を心の底から感じながら、触れ合って、愛し合ったり、癒し合ったりしてみたかった。

 恋人や奥さんが欲しかった。

 それも、ひたすらに俺を愛して、どんなに逃げても追いかけてくれるような女性だ。

 縛る人間は、同時に、対象に縛られている。

 俺を見捨てて逃がすということは、俺から逃げるのと同じ行為だ。

 俺は、俺から逃げず、俺に縛られてくれる女性を求めている。

 ただし、気まぐれに怒鳴られたり、殴られたり、泣き叫ばれたりするのは嫌だ。

 サディスト気取りのナルシスト、ヒステリックへ渡す愛や、感じられる恐怖は、俺にはない。

 求めているのは、生まれつきの狂愛者で、酷く甘くて恐ろしい人だ。

 愛されたいのではなく、他者を強く愛したい人。

 愛の重さや深さが故に、狂って暴走してしまう人だ。

 きっと、そういう人のくれる愛は、穏やかな甘い優しさとして表れていても、俺には、心肺停止を引き起こすほどの鋭い恐怖と、発狂するほどの強烈な熱を与えてくれるから。

 そんな理想を持った俺は……


 男性はリビングのソファに正座して、台所に消えた女性を待っていた。

 女性のことを考えると、心臓が鳴り出し、背筋に冷たい汗が通って、震えてしまう。

 彼には女性恐怖症のような側面があるが、年齢を重ねるにつれ、ほんの短時間なら取り繕えるようになっていた。

 告白をすることはギリギリ可能で、顔も良い彼は、これまでにも何度か女性と付き合ったことがある。

 だが、それにも限界はあり、まともな恋人を演じきることはできなかった。

 おかしな話だが、愛しさを感じれば感じるほど、恐怖が強まったのだ。

 相手の女性が手を握れば、彼は青ざめ、涙目になって震える。

 目を合わせれば、サッと顔を背けられる。

 そもそも、半径一メートル以内に入った時点で震えられ、真っ青な瞳の淵に涙が浮かぶのだ。

 それはまるで、相手の女性から虐待を受けているかのような態度だった。

 付き合った女性全員に、

「お前と一緒にいると、犯罪者になったような気分がして最悪だ。そもそも、なぜお前は、私と付き合おうなどと言い出したんだ。訳が分からない。別れてくれ」

 というようなことを告げられ、振られてきた。

 何度も落ち込んだが、それでも男性は、自分を受け入れてくれる、狂愛持ちの女性をゆるく探していた。

 そんな男性にとって彼女は、どんなに優しく接してきても、何故か一際強い恐怖と愛を与えてくれる、稀有な存在だった。

『どうしても縛られたい。彼女のくれる恐怖が、狂おしいほどに好きだ。今すぐ怯えを前面に表し、恐ろしさに浸りたい。けれど、恐怖も熱も、感じ過ぎないように気を付けよう。そうでなければ、発狂した俺に嫌気が差し、彼女が逃げてしまう』

 そんなことを思いながら、日々を取り繕った。

 そうしていたら、監禁のお誘いという、彼が長年待ち望んだ狂気がやって来た。

 女性同様、自分を受け入れてもらえると思ったら、心臓の内側に押し込め、抑えていた愛情が弾けだし、背筋を侵す酷い熱と、執着めいたものが湧いた。

 恐らく男性は、出て行けと怒鳴られても、彼女の隣に居座るだろう。

 表れ方は異なるが、彼らは互いに狂愛持ちで、酷く相性が良かった。

「お待たせ。まずは、これをどうぞ」

 帰ってきた女性が、笑顔で野菜のスムージーを差し出した。

 味は悪くないが、濃い緑色をしており、その色を作り出しているのが多種多様な野菜たちなのだと思うと、一気に飲む気が失せ、嫌悪感すら覚える。

 嫌そうに顔を背け続けていると、

「ちゃんと果物だって入れて、甘くしているのに。貴方ときたら、いつもそうね。ねえ、もしも全部飲めたら、キスをしてあげましょうか?」

 女性の唇を見つめ、真っ青になると、男性はスムージーを一気飲みした。

 若干むせりながらも、口元を手の甲で拭い、ゾワゾワと激しい怖気を立たせながら、キスを待つ。

 すると、女性は怯えた涙目になる男性の顔を覗き込み、

「ふふ、そんなにキスをして欲しかったの? なんてね。大丈夫、ちゃんとわかってるわ。貴方に酷い事なんてしない。私もキスをしたいけれど、今は頭を撫でるので我慢してあげる。ほら、良い子、良い子」

 と、優しく頭を撫でた。

 そして、上機嫌に台所へと向かってしまう。

『全然わかってない!! キスしてもらおうと思って、頑張って飲んだのに! 人のことを家に縛り付けたい、というより、自分の隣に縫い付けたいとかいうサイコパスなのに、変なところが優しくて困ってしまうな。もう少し強引でもいいのに。いや、でも、そもそも、怯える俺が悪いのか……』

 男性はため息をつくと、それから、女性の用意した夕飯を食べた。

 その後、ピタリと女性に張り付かれながら至福の恐怖を味わっていると、すぐに就寝の時間がやってきた。

 女性はゴロンとベッドに寝ころび、端の方に追い詰められて震える男性に、ムギュッと抱き着いた。

「怖がらせてごめんね。でも、どうしても、くっつきながら眠りたいの。酷い事なんて絶対にしないわ。だから、こうやって、抱き着かせてね」

 女性は寝つきが悪いと言っていたが、男性の知る限り、彼女がいつまでも眠れずに寝返りを打ち続けるという日は無かった。

 今夜も、男性に抱き着いて背中に顔を埋めると、すぐに眠りに落ちてしまったくらいだ。

『以前、俺が癒しだと言っていたな。だから、眠れるのか? なんだか、不思議な人だ。不思議で、怖い人だ。きっと、百人中百人、この人とはやっていけないだろう。この人との生活は、俺にとっては、楽しくて幸せだが、普通の人間には窮屈で、狂気が過ぎる。普通の奴に、正気を保ったまま、この人と一緒にいるのは無理だ。ハハ、俺だから、平気なんだな。こういうの、なんていうんだっけな。割れ鍋に綴じ蓋だったか? まあ、イカレていると言われればそれまでだ。俺も、彼女も』

 彼女を起こさないようにゆっくりと体の向きを変える。

 そして、薄目でその姿を見つめた。

 綺麗な黒髪や柔らかい体、自分を見てトロリと歪む瞳、よくおしゃべりをする唇に、愛おしさが込み上げた。

 恐怖と同化して化け物のように形を変えてしまうだけで、男性には、確かに彼女への愛情がある。

 甘い香りに胃を震わせ、吐き気を起こしつつ、そっと抱きしめた。

 心臓が暴れ、背筋に冷たい汗が流れると同時に、どこか温かな癒しを感じる。

 体半分の冷水に、もう半分は熱湯につけられるという、なんとも不安定な状態だが、男性はこの状態で体の緊張を解くと、ホッとため息をついた。

 理想とは形が異なるが、癒し合うという目標が達成され、気分が良かった。

『落ち着く。彼女が抱き着きたがるわけだ。俺も、だいぶ成長したな。彼女の意識さえなければ、抱き返せるようになった。もうしばらくすれば、キスもできるかもしれない。もっと、触れ合えるかもしれないな。そうしたら、もっとおぞましい恐怖を腹の底から感じられる。ああ、興奮してきた。もしも、そうやって、俺が激しく怯え散らかしながら彼女を愛しても、きっと彼女は、狂愛を抱いたまま、俺を縛り続けるだろう。ああ、それが愛しい。俺も、絶対にどこへも行かないから、安心してくれ。そして、その狂愛を、どうか愛しんでくれ』

 モフモフと髪を撫でた後、小さく呼吸をする唇を見て心臓が大きく飛び跳ね、抱き返すのも困難になりかけた。

 独り善がりなロマンティックに任せてキスをしようかと思ったが、まだ早かったようだ。

 また、彼にも人並みに性欲があり、ゆくゆくはそういうこともしたいと考えているわけだが、そちら方に至っては、考えただけで気絶ものだ。

 せっかくリラックスしていたのに、このままでは眠れなくなってしまう。

 思考を放棄し、大人しく目を瞑っていると、いつの間にか眠りに落ちていた。

 白銀の月明かりに照らされる二人は緩く抱き合っていて、その寝顔は、どこまでも穏やかだ。

 普通の人間には到底受け入れられない狂愛。

 きっと、人に話せば正気を疑われ、罵詈雑言を浴びせられてしまう。

 けれど、互いを手に入れた彼らは、幸せを噛みしめていた。

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