騒がしい帰宅

 玄関のドアを開けようと手を伸ばした時、ジジッと砂嵐のような耳鳴りがした。

『こりゃ、今日も騒がしいぞ』

 俺は苦笑いをして自宅に足を踏み入れた。

『きょ~うもカッコイイねぇ! よっ! 世界一セクシーな帰宅! 全世界の男が嫉妬で歯ぎしりしちゃうね! お~お、いいね、いいね。シュッとネクタイを解く姿! 見蕩れちゃうね! ジャケットを脱いで、ワイシャツも脱ぐのか!? 脱ぐのか!? 脱がない! 焦らすのが上手い! でも今日はカレーなので、食事の前に着替えた方が良いと思います』

 はしゃいだ女性の声が脳内を弾み回って、スーツを着崩すだけの俺を大絶賛してくる。

 可愛いが、うるさい。

 騒々しさの原因は、俺の目の前でニコニコと笑う妻にある。

 妻は生まれつき、少し不思議な力を持っている。

 自分の伝えたいことを言葉にし、他者の脳に直接流すことが出来るのだ。

 思考が漏れ出ているわけではないから、誰に何を伝えるのかも自分で決められるらしい。

 現に、今も俺のことを褒め称える彼女だが、薄桃色の唇は一切動いていない。

 高校の時は彼女の流してくる言葉に随分と困らされたものだ。

 まあ、居眠りをしてしまった授業中にこっそりと教えてもらった答えには、かなり助けられたのだが。

『よ! 物憂げな横顔が世界で一番セクシー! 色っぽい! えっち男性の権化! その顔は昔を懐かしんでいるか、疲れて帰宅したんだから静かにしてくれ、の二択だね! 残業お疲れ!!!』

 妻が急須から注いだ茶を俺の目の前のテーブルに置いて微笑んだ。

 ほのかな温かさが食道を通って胃を癒す。

 ホッと息を吐いた。

「ありがとう。君は元気だね。君だって仕事をしてきたのだろうに」

『私は定時で上がれたからね~。貴方よりは元気だね。着替えておいで、その間にカレーをよそっておいてあげるからさ』

 部屋着に着替えて食事をする俺を絶賛して、仕事や人間関係の愚痴を言う。

 世間話をして、ふとした時、彼女の本音がちょこんと漏れた。

『私はめっちゃ褒めてるのに、あんま褒めてはもらえないんだよな……いや、褒められるために言ってるわけでは……!』

 二人の時は口を動かさず、心を送りつけてばかりの彼女だ。

 そのため、俺の脳に送る言葉に、うっかり自分の思考を紛れ込ませてしまうことがある。

 これが原因でケンカになってしまうこともあった。

 彼女はハッとして、声すら発していないはずの口元を押さえた。

 バツが悪そうに、俺を見つめる。

『怒った? あの、本当に、褒めたいから褒めてるのよ? ただ、ここ一週間くらい、綺麗とか、好きとか、言われていない気がするの』

 確かに、おそらくだが言っていない。

「言い訳させてくれるなら、俺は最近、残業続きで疲れて口数が減っていたんだ。それと、その、君の勢いが凄すぎて、圧倒されてしまった」

 苦笑いをして頭を掻くと、妻も苦笑いを返した。

『そっか~。だって、貴方が帰ってくると嬉しかったんだもの。今、何時か分かる? 日付超えちゃったよ!! いや、頑張って仕事をしたのを、責めているわけではないんだけれど』

 普段はそこまで長い残業があるというわけではないのだが、繁忙期はどうにも仕事が長引いて碌な時間に帰れない。

 俺もできるだけ早く帰りたいとは思っているのだが、ままならないものだ。

 妻もそれが分かっているから、遅いと文句を垂れることは無かったのだろう。

 まあ、それはともかく、帰宅が嬉しいと喜ばれるのは結構良いものだ。

 食事が用意されているのも、少々騒がしいし、照れてしまうが、絶賛されるのだってありがたい。

 かなり照れ臭いが、出来るだけ爽やかに微笑む。

「いつもありがとう。好きだよ」

『もう一声!』

「……かわいいよ」

 シンプルに紡がれる愛の言葉だが、発する俺よりも受け取る彼女の方が恥ずかしくなってしまったらしい。

 自ら茶化しにいった彼女は、本当にもらえた言葉に照れて顔を赤くした。

 モジモジと身をよじる姿が可愛らしくて、少しだけ揶揄いたいような、悪い心が芽生える。

「君も、たまには何か言ってくれてもいいんじゃないか?」

『ん? 今日も元気に絶賛したし、あんまり褒めてない日って無いと思うけど?』

 俺の言葉の意図が分からず、妻はキョトンと首を傾げた。

「声だよ。言葉を声にして伝えてほしいんだ。俺は君の声が好きなのに、もう一月近く聞いていない」

 自分の弧を描く唇をポンと指差せば、彼女の目が丸くなって頬が朱に染まっていく。

 内容が照れ臭いというのもあるのだろうが、彼女はそもそも照れ屋で、俺に声を聞かせること自体が恥ずかしいらしい。

『これじゃ駄目?』

 往生際の悪い妻が、タイミングよく口パクをしてから俺の瞳を覗き込む。

 ジッと見返してやると、観念したらしい彼女が目を泳がせてからおずおずと口を開いた。

「…………好きです。世界で最も格好良いと思っています。いつも、ありがとうございます」

 モソモソ、ボソボソとした声は小さく聞き取りづらいが、二人きりの室内で物音を立てぬよう息すら殺していたため、自ずと彼女の愛らしい声が耳に届く。

 自分の顔面が、気持ちの悪いほどにやけていくのが分かる。

「いつもはあんなにハイテンションなのに、しゃべると急にモジモジしてて可愛いな。敬語を使われると、告白は声で、って怒った俺のために、放課後に再告白してくれたことを思い出すよ。あの時も可愛かった。今、世界で一番可愛らしい女性がいるとしたら」

 声を発したせいでだいぶ減ってしまっただろう心のゲージを、ベタ褒めでさらに減少させる。

 そして、赤面して硬直しているところに熱っぽく語りかけながら、ジリッとにじり寄って行く。

 俺の動きにいち早く気が付いた彼女も、ジリジリと後ずさりを始めた。

『ちょ、うるさい、うるさい! なんでいっつもは大してしゃべらないのに、こういう時だけよく話すの!? そんなに、臆病なチキンを追いかけまわして楽しい!?』

「楽しい」

 前世は、一昼夜、野ウサギを追いかけまわす狩人だったに違いない。

 狩猟本能のようなものが暴れ、もっとつつき回したくなってしまう。

「どうしたんだ? ハグは好きだろ。いつもならハイテンションで抱き着いてくるくせに」

 クリオネにでもなった気分でガバッと両手を広げると、彼女は涙目になって、

『今はヤダー!!』

 と、逃げ出した。

 ソファを軸に二人でクルクルと回る。

 深夜、唐突に始まった静かな鬼ごっこを制したのは、俺だった。

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