第36話 海ビール楽しみぃ!



 ――――――



「あー、いいなぁ学生は。夏休みなんてあるんだもんな」


 今日も今日とて、詩乃さんとの晩ご飯の時間。今日は冷麺を作ってみた。

 食事中は、今日一日にあったことを話すのが当たり前になっていた。まあ、大抵は俺の学校生活のことなんだけど。


 そんな中で、俺の高校はもう夏休みに入るという話題になった。

 それを聞いた詩乃さんが、恨めしそうに、あるいは羨ましそうに口を開いたわけだ。


「ええと、詩乃さんに夏休みは……」


「ないない、ありません。あー、夏休み……なんて懐かしい響きなんだろうねぇ」


 チュルチュルと麺をすすり、ごくんと飲みこんでから詩乃さんはため息を漏らした。

 詩乃さんがこんなにも不満を表に出すのは、なかなか珍しい気がする。それだけ、鬱憤が溜まっているのか。


 週末は休み……ただし月に一回は出勤だという話だもんな。

 夏休みという長期的な休みは、ないのだという。


「あーん、私も学生に戻りたいよー」


「あははは」


 酔ってないのに、こんなにも弱い姿を見せてくれるのは、俺との距離が縮まったからかな?

 以前までなら、ちゃんとしたお姉さんであろうと、気を張っていただろうし。


 ……まあ、泥酔事件で吹っ切れたのは、あるんだろうけど。


「それでも、お盆とか長めの休みはあるんだけどね。甲斐くんは、夏休み中はバイト尽くし?」


「尽くし、ってわけでもないけど、いつもよりは入れてますね」


「そっか。なら、二人の休みが合った時に、海に行こうよ!」


「!」


 それは、以前詩乃さんが言っていたこと……けれどそれ以降話題に挙がらなかったので、もしかして忘れていたんじゃないかということ。

 一緒に海に行こうという、アレだ。


 詩乃さんが忘れていなかったことに嬉しく思いつつ、俺は動揺を隠して手元のお茶を飲む。


「そ、そうで、ですね。い、行きましょうよ海へ」


 だめだー、動揺を隠せない! 緊張してる!


 だって詩乃さんと海だよ!? 憧れの人と海だよ!? 思春期真っ盛りの今、憧れの詩乃さんと海だよ!?

 今だって、飛び上がりたいのを必死に我慢している状態だ。


「ふふ、楽しみだなぁ。今度、楓と水着買いに行く約束してるんだ。あ、甲斐くんも来る?」


「! い、いいです!」


「あはは、そっかー。ま、当日のお楽しみってことで」


 当日のお楽しみ……その言葉とともに、詩乃さんは俺にウインクをした。

 それを受けて、俺はすでにノックアウト寸前だ。


 海……海といえば水着。水着といえば海……あぁ、海。なんて素晴らしいんだろう海。

 詩乃さんはどんな水着を選ぶのだろう。楽しみだ。


 ……あぁでも、水着姿の詩乃さんがナンパとかされないか心配だ。姉ちゃんはどうでもいいけど。


「場所は、近場がいいよね。私免許持ってるし、レンタカー借りてさ。

 いろいろ調べてたんだけど、ここの海の家で売ってるビールがすごく美味しいらしいんだよ! 海ビール楽しみぃ!」


「……いや、ビール飲んだら車運転しちゃだめでしょう」


「……」


 海ビールが楽しみだとにこにこしていた詩乃さんが、俺の指摘を受けた途端に絶望の表情へと変わる。浮き沈みが激しいな。


 というか、気づいてなかったのか……飲酒運転ダメ絶対。

 泣きそうになってる。どれだけ海ビール飲みたかったんだよ。


「なら、姉ちゃんに運転任せたらどうです?」


「でも……それじゃあ、楓ちゃんがビール飲めなくなっちゃうし」


 自分がビールを飲みたいのなら、別の人に運転を任せればいい。

 姉ちゃんだって免許は持っているはずだし、姉ちゃんに頼めばいいのだ。


 けれど、詩乃さんは首を横に振った。そんなことをしては、姉ちゃんがビールを飲めないから。

 まったく……詩乃さんは、自分のことより他の人を優先する傾向があるよな。


「……俺が運転できればよかったんですけど」


「だめだよ、甲斐くん免許取れる年齢じゃないんですから」


 もしも俺が運転できれば、詩乃さんも姉ちゃんも後のことは気にせず飲むことができる。

 ま、俺は高校生になったばかりだ。免許なんて取れないし、仮に取れるとして今からでは時間がかかりすぎる。


 そうなると……


「残念ですが、諦めてもらうしかないですね」


「そ、そうだね、悔しいけど……」


「絶景の海を見ながら片手にビール飲むってのは、きっとすごくうまいんでしょうね。仕方ないです」


「なんでそんな後ろ髪引っ張るようなこと言うの?」


 他に考えがあるとしたら、車以外で行く、運転できる知り合いに頼む……これくらいだろう。

 どうしてもビールは飲みたそうだし、俺の方でもその辺、考えておくか。


 それにしても、海ビールやったとして泳げなくなるほど泥酔はしないでほしいものだ。


「ん……ふぅ」


 とりあえず、お茶を飲んで一息。

 なんにせよ、詩乃さんとの海は今から楽しみで仕方ない。まだ日程も決まってないのに。


 詩乃さんと姉ちゃんが休みを合わせて、なおかつ俺もバイトのシフトは入れない日。その日に、海に行く。

 そのために、俺も準備を進めておこう。


「ところで甲斐くんは、お友達と海とか……そういったところに、行ったりしないの?」


「そうですね……今のところ、誘われたりはしてないですね」


 ふむ、クラスメイトと夏休み行事か……それも楽しそうではある。

 とはいえ、俺を誘うくらいに仲が良いクラスメイトといったら、やっぱり空光からみつか築野さんくらいだろう。


 高校生たるもの、同級生と夏を過ごすのもまた、青春というやつかなぁ。


「いっそ甲斐くんから誘ってみたらどうかな? 築野ちゃんとか、夏祭りにでも誘ってみたら?」


 やたらと、築野さんのことを気に入ったらしい詩乃さん。

 最近の会話の中に、築野さんがよく出てくるのがその証拠だ。


 築野さんかぁ……仲はいいけど、自分から女子を誘うのは、ハードルが高い……

 ま、それも追々考えよう。


 今は、詩乃さんとの海のことだ。それだけでもう、頭がいっぱいだ。



 頭がいっぱい、ワクワクしすぎてどうにかなりそうな日々を過ごし……早いもので、ついに海当日が訪れた。

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