第10話 今頃私はここから飛び降りてる



 憧れの女性が、目の前で俺に対して見事なまでの土下座を決め込んでいる。


 それはもう、見事な土下座だ。

 これまでの人生で見たことがないし、なんならこれからの人生でもお目に掛かることなどないんじゃないか、というほどの素晴らしい土下座だ。


 それを受けた俺の気持ち。

 この感情は言葉じゃ表現できないよ。


「えっ……と、とりあえず顔、上げてくださいよ。俺は気にして、ませんから」


「……本当に?」


「はい、気にして…………ませんよ?」


「間が!」


 ごめんなさいウソ。あれを気にしないようにするのは無理だ。

 憧れの女性が酔っ払って、散々上司の悪口言った挙げ句俺のベッドで眠ったなんて。


 ていうか、寝ている最中も上司の悪口言ってたし。

 ぐっすりだと思ったら、むにゃむにゃしゃべりだすんだから怖かったよ。


「まあ、吐かなかっただけよかったかなって……」


「吐いてたら今頃私はここから飛び降りてる」


「マジでやめてください」


 わりと本気で飛び降りそうな目をしている。勘弁してほしい。

 すでに、詩乃さんにとっては失態だ。そこに、友人の弟の部屋で嘔吐……などという罪状が加われば、いよいよどんなことをするかわからない。


 ちなみにここは三階だ。三階から飛び降りて人が死ぬのかどうかは……ちょっとわからないが。

 少なくとも、ここより低いところから飛び降りたって、当たりどころが悪ければ最悪のケースはある。


 そうなった場合……翌日の新聞の見出しはこうだ。



『一人暮らしの高校生男子の部屋から、社会人女性飛び降り! 原因は痴情のもつれか!?

 自殺かはたまた殺人か!』



 俺の部屋から一人の成人女性が飛び降りた事実が生まれてしまう。

 その日のうちには、いろいろな特集が組まれてワイドショーが騒ぎ出すのだ。あることないこと書かれるのだ。


 それはとてもよろしくないことになる。


「だって、あんな醜態さらした挙げ句……甲斐くんを、ソファーで寝させるなんて……!」


「あははは……」


 俺がワイドナショーのことを考えている中で、詩乃さんは昨夜の醜態を悔いている。

 詩乃さんの言ったように結局、俺は昨晩ソファーで寝た。


 ベッドを占拠していた詩乃さんの隣で寝ることは考えなかったのかって?

 そりゃ、俺だって健全な男だ。邪な気持ちがないわけじゃない。何度かそういう気持ちは頭をよぎったさ。



『ぐごぉ……すやぁばぁ……んぶぅう、あんのクソ上司……』



 だけど、あまりの酒臭さと、とんでもない寝言と、隣で寝ていてもし顔面リバースなんてくらったらと思ったら……

 とてもじゃないが、隣に行く選択肢は生まれなかった。


「甲斐くん……本当にごめんね。これ、とりあえずお詫びとして受け取って……」


 何度も何度も謝りながら、詩乃さんは黒色の鞄……スーツケースからなにかを取り出した。

 財布だ。黒革の、ちょっと高そうなやつ。


 折りたたみ式のそれを開き、中から数枚のお札を取り出した。

 ……数枚のお札を取り出した。


「やめてください!?」


「えぇっ! だって!」


 だってじゃない! というかなんで詩乃さんが驚いてるんだ!

 お詫びの印に現ナマって、生々しすぎるわ!


 そりゃ、俺だって高校生……現ナマの魅了に惹かれないわけじゃあないけど……

 こういうのじゃあ、ないだろう。


「いいんだよ、受け取ってよ。せめてものお詫びの気持ちだからさ。ね?」


「いや重いですから! そういうのいりませんから! お詫びもいいですから!」


「お願いだよぉ! それに、未成年の部屋に酔っ払いが乱入してめちゃくちゃやったとか、世間にもう顔向けできないよぉ! これで黙っといて!」


「半分口止めじゃないですか!」


 やばい、目がマジだ。

 この人自分の失態を、現ナマで忘れさせようとしているんじゃあ!? ていうか買収しようとしてる!?


 とはいえ、さすがに受け取るわけにはいかない。一万円札が三枚ほど握られているが、受け取るわけにはいかない。

 部屋や服を汚された……というならまだしも、被害は俺の疲労だけだ。お詫びはいらない。


 だが、このままじゃ詩乃さんは諦めてくれそうにない。


「ホントに、大丈夫ですから! 誰にも言いませんし!

 そ、それより詩乃さん、お酒飲むんですね」


 壁際に追い詰められ、このままだと詩乃さんに押し切られてしまいそうなのと、俺がお金の誘惑に負けてしまいそうなので、なんとか話題を別方向に振り切る。

 この話題が正解かどうかは、わからないが。


 俺の言葉を受け、詩乃さんは目をパチパチとまばたきさせて……しゅんとうなだれた。


「えぇと……うん」


「いつからです?」


「それはまあ……二十歳になってから、かな」


 少し照れたように、詩乃さんは話す。

 お酒を飲み始めたのは、二十歳になってからだという。そりゃ二十歳になってない段階で飲まれていても困るが。


 しかし、それだと数年前から飲んでいたことになる。

 俺は、詩乃さんがお酒を飲んでいることなんて知らなかった。


「楓とは、飲み友でもあったんだよねー。でも、甲斐くんは未成年だから、甲斐くんの前では控えていたんだよ」


 どうやら詩乃さんは、姉ちゃんと飲み友達ってやつだったようだ。

 そして、俺に配慮して詩乃さんは俺の前でお酒は飲まなかった、と。


 姉ちゃんはそんな配慮なんか関係なく、ガバガバ飲んでたけどな。

 まあ食事も一緒の家族とじゃ違うだろうけど。

 姉ちゃんも姉ちゃんで、詩乃さんがお酒を飲むなんて言わなかった。


「そうだったんですか。別にそんな配慮しなくてもよかったのに。

 で……詩乃さん、お酒に弱いん、ですね」


「! ち、違うの! たまたまなの!」


 昨夜のことを指摘した俺に、詩乃さんは慌てたように言う。

 違うとは、なにが違うのだろうか。

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