第9話 ぁー、んきもちい……



 まだ完全に酔いは覚めていない詩乃さん。

 でも、さっきよりは話せるようになったみたいだ。さすが水、すごいぞ水!

 水様々だ!


 さて、少しは話を聞いてくれるようになっただろう。詩乃さんにちゃんと状況を説明して、自分の部屋に戻ってもらおう。


「えっと、詩乃さん? ここは俺の部屋で、詩乃さんの部屋は隣の……」


「あー、あのクソ上司! ちょくちょく変な目で見てきやがって! 気持ち悪いんだよくそ!」


「……」


 詩乃さんはベッドに寝転がったかと思えば、足をバタバタと動かし上司への悪口を言う。

 どうしたんだ、急に……


 これまで見たこともない姿に、聞いたこともない。

 詩乃さんが声を荒げているところとか、誰かの悪口を言っているところなど、俺は知らない。


「うがー!」


 スーツ姿のままだから、寝転がったまま足をバタバタされると……

 ……その、膝下まであるスカートがずり上がって、ちょっと危ないことに……


 いや、俺は見てない。なにも見てないし見えませんからね!


「し、詩乃さ……あ、脚……」


「そう、脚よ脚! やたらと脚見てきて、『健康的な脚だね』とかニヤニヤしててさぁ! しかも触ってくるんだよ! セクハラだよセクハラ! そう思うでしょ! あのはげ!」


 はい、ごめんなさい、俺はなにも見てません。


「だいたい、仕事だってあんな無茶ぶりを……部下の管理くらいちゃんと……うっ」


「ちょ、ちょっと詩乃さん!」


 騒ぎ過ぎたせいか、詩乃さんは動きを止めて口元を押さえた。

 みるみる顔色が青くなっていく。人の顔色って、こんなころころ変わるんだな。


 と、観察している場合じゃない。

 再び嘔吐の危険があると判断した俺は、すぐに水を注ぎに行き、戻り、詩乃さんの背中を擦る。


「落ち着いて、はい深呼吸」


「ひっひ、ふー……ひっひ……」


「それ違うやつ」


 この人意外と余裕あるのか? そんなことを思いながら、俺は水を渡す。

 詩乃さんは再び水を受け取り、それを一気に飲み干した。


 あんまり慌てても飲むのもよくない気がするが……それでも、気持ち悪さは和らいだのだろうか。


「っはぁ……ぁー、んきもちい……」


「ちょっと、詩乃さん!?」


 水を飲み干した詩乃さんは、そのままベッドにボスン、と倒れた。

 コップを手に握り締めたまま、大の字に寝転がり、顔を横たえて目を閉じて……


 ほどなくして、「すぅー……」と寝息を立ててしまったのだ。


「……マジで?」


 これは……完全に、眠ってしまった。

 何度か声をかけるが、反応はない。すぅすぅ言ってなかったらちょっと心配になるくらい、ぐっすりイッてしまっている。よだれまで垂らしている。


 とりあえず俺は、詩乃さんが握り締めたままのコップを回収して……流し台へと、持っていく。

 普段なら、詩乃さんが口をつけたコップが気になるところだったが、とてもそれどころではない状況だ。


「ふぅ……一旦落ち着こう、俺……」


 状況を整理するんだ。俺。

 一旦深呼吸をするんだ。ひっひっふーじゃない、ちゃんとしたやつ。

 ほら吸ってー……吐いてー……また吸ってー…………よし。


 時計を確認。今は夜の八時手前。

 部屋を確認。ベッドには酔った詩乃さん。

 詩乃さんの状況を確認。酒の影響で今はぐっすり……


 ……なんだ、この状況?


「整理しても全然わからん。

 ……とりあえず、飯を食おう」


 深呼吸をして、状況を整理しても解決策はまったく思い浮かばない。というか、現状すらも理解が及ばない。だって詩乃さんが酔って寝てるんだよ?

 なので俺は、とりあえず晩ご飯を食べることにする。


 つまりは、考えることを放棄したのだ。現実逃避ってやつだ。


「腹も減ったしな……いつもならもう、食べてる途中か食べ終わってる頃だし」


 風呂から上がって、そろそろ飯を作ろうと思っていたところに酔っ払い襲撃だからな……疲れた。


「すぅ、すぅ……」


 憧れの人が、自分のベッドで眠っている。字面だけ見たら、なんと幸福な状況だろう。

 でも実際は、酔っ払いが俺のベッドを占拠して寝落ちしている。それだけだ。


 そこに甘い雰囲気など、欠片もない。

 それと、俺には一つ、気がかりなこと……いや困ったことがあるわけで。


 それは……


「俺今日、どこで寝よう……」


 詩乃さんがベッドを占拠していることで、俺の寝る場所がなくなってしまったということだ。

 この状況になった詩乃さんは、もう朝まで起きることはないだろう。無理に起こしてまた騒がれても、それはそれで困るし。


 なので、俺は今日……寝る場所をまず、考えなければいけないわけだ。

 さて、どうしよう。



 ――――――



「まことに……まことに、申し訳ございませんでしたぁああああ!!!」


「……」


 翌日、スーツ姿の詩乃さんが俺の目の前で、叫んだ。寝起きの頭にはキツいほどの声量だ。

 しかも朝イチだから、ご近所さん迷惑にならないか心配だ。


 現在、詩乃さんは床の上に座っている。足を畳んで膝をつき、手も床について、体を折り曲げ頭を下げている。

 床に、額すらもつくんじゃないかというほどに。


 要は、土下座だ。


「……」


 寝起き一番に、詩乃さんは俺に向かって……俺がこれまでの人生で見たことがない、見事な土下座を披露していたのだ。


 その様子を見て、俺は思ったのだ。

 これ……昨夜の記憶、残ってんなぁ……と。

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