第8話 酔ってないらー!



 ――――――



 ……新生活を初めた、約三ヶ月後。



 ピンポーン



 それは、なんの変哲もないある日の夜。夜の七時を回っていたと思う。

 こんな時間にインターホンが鳴るなど、少し不審に思った。

 宅配便なども、頼んだ覚えはないし。こんな時間に訪ねてくる友人もいない。


 だが、とりあえず誰が来たのかだけでも、確認はしよう。

 そう思い、座っていたベッドから立ち上がって……



 ピンポーンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン



「ひぃっ!?」


 続けざまのピンポン連打に、たまらず声が漏れる。

 いったい誰が、こんなことをしているのか。というか、これ軽いホラーだ。どうしよう、警察呼ぼうかな。


「……いやいや、俺も男だ」


 怖い気持ちはあったが……こんなことにビビっていては、この先の一人暮らしが思いやられる。

 このときの俺は、変な使命感に満ちていた。初めての一人暮らしにテンション上がっていたのだ。


 ピンポン連打など、十中八九変な人だ。

 相手が変な人でも、扉を開けなければいいのだ。そうすれば実害は出ない。


「……ふぅ。よし!」


 なので、覚悟を決めてインターホン越しに、外の人物を確認すると……


「……って、し、詩乃さん!?」


 そこには、予想外の人物……詩乃さんがいた。間違えるはずもない。

 スーツ姿に身を包み、じっと俺を……いやインターホンをにらみつけている。


 その間も、ピンポンは鳴り続ける。


「ちょ、ちょっと!」


 このままでは、ご近所迷惑になりかねない。

 急いで俺は玄関へ。変な人……というか変な事をしている人だが、知り合いなので警戒心は薄れていた。

 そして扉を開ける。


 扉を開けたその先には、確かに詩乃さんがいた。

 だが、気のせいだろうか……顔が、赤い気がする。


「あれー? 甲斐くんだー。

 なんれ甲斐くんが、わらしの部屋にいるの?」


「えっと……詩乃さん? ここ、俺の部屋なんですけど」


 目の前に立つ詩乃さんは、じっと俺を見つめてくる。眉にしわを寄せて。

 その視線にドキッとしてしまう。そんな見つめられると、恥ずかしい。


 だが俺は、とあることに気付いた。

 ろれつが、回っていない。それに、赤い顔。時折「ひっく」と喉を鳴らしている。


 この現象、俺は見たことがある。それは、姉ちゃんがとある状態で変化する現象にそっくりだ。



『ひっく……なんらー、もう切れちゃった。かいー、酒持ってこーい! あはははは!』



 ……姉ちゃんが酒を飲んで酔った時の状態に、そっくりというかもうそのものなのだ。

 試しに、本人に聞いてみよう。


「えっと、詩乃さん……酔ってます?」


「あー? 酔ってないらー!」


 あ、間違いないなこれ酔ってるよ。

 というかこれ、本当に詩乃さんか? 俺の知ってる姿とは、全然違うんだけど。


 今朝だって……ゴミ出しの時間に、ふと外で会った。

 その時は、「寝起きで恥ずかしい」なんて照れ笑いを浮かべていた。かわいかった。


 それが……


「うへへ、甲斐くんたらいけないんだー。女の子の部屋に、不法……不法、しんにゅーらぞー。あははは」


 ……女の子……いや、ここはツッコんではいけないところだ。俺より九つ年上だとか、そんなことは気にしてはいけない。


 どうやら詩乃さんは、酔っ払って……帰ってきた。

 しかし帰ってきた先が、違う。自分の部屋と、隣の俺の部屋とを間違えてしまったようだ。


「詩乃さん、詩乃さんってば起きてください!」


「んぅー……」


 軽く揺すっても、詩乃さんが元に戻る様子はない。


 結局、俺の部屋の前から退かないどころか、あのままでは部屋の前で眠ってしまいそうだった。

 立ったままなのに器用なことだ。


 さすがに部屋の前で寝られても困るし、寝たからって外に放置するわけにもいかない。

 そのため、苦渋の決断で詩乃さんを部屋に招き入れる。


 肩を貸し、とりあえず部屋にまでやって来たのはいいけど……すでに半分寝ている。

 お、重い……言っちゃ悪いが、重い。


「くっ、はぁ……なんで、こんなことに……」


 憧れの人とこんなに体をくっつけ、なんならいろいろと体の柔らかい部分が当たっている。

 と、本来ならばそれは、全神経を集中してでも味わいたい感触なのだが……


「うっ……酒臭っ……」


 間近で香るアルコールのにおいに、そんな幸せ思考は吹っ飛んでしまった。

 姉ちゃんが酔っぱらった時も介抱したことはあったが、ここまで臭くなかったぞ?


 いったい、どれだけお酒を飲んだのか……浴びるほど酒を飲むという言葉を聞いたことがあるが、本当に浴びてきたんじゃないだろうな。

 憧れの女性との距離が近いのが、こんなにつらいことになるとは思わなかった。


 少し首を動かせば、そこには普段ならときめく横顔があるのだが……


「ぅ……は、吐きそう……」


「か、勘弁してください……」


 片手で口元を押さえる詩乃さんの顔が青ざめるために、俺の顔もまた青ざめる。

 こんな状況で吐かれでもしたら、俺の体と服が大変なことになってしまう。せっかく風呂に入ったのに。


 最悪体や服は洗えばなんとかなるが、部屋まで汚されてしまうのは避けたい。

 それに、憧れの人の嘔吐を喜ぶ性癖も持ち合わせていないし。


「ほら、とりあえずベッドに着きましたから」


「あぅう……」


 女性とはいえ、自分より年上で背も変わらない。

 しかも脱力した人間は、結構重い。この部屋の中だけでも、移動は大変だ。


 詩乃さんをゆっくりベッドに寝かせ、俺は急いでキッチンへ。

 コップに水を注ぎ、詩乃さんに差し出す。


「はい詩乃さん。とりあえず水飲んで落ち着いてください」


「うぅう、ありがと……」


 ベッドから身を起こし、詩乃さんは受け取った水を口元へと持っていく。

 ごくごく……と、喉を鳴らして飲んでいく。


 酔っ払いが水飲んでるだけなのに、どうしてこうも絵になるのだろう。

 仕事終わりのスーツ姿、少し乱れた髪、赤らんだ顔……黙ってればなぁ。


 しかも、俺のベッドの上で座っている……


「んっ……ぷはっ、あー……ちょっと落ち着いた、かも」


「それはよかった」


「あれー? なんで甲斐くんが、私の部屋にいるのー?」


「……」


 ……ダメだこの人、完全に酔いが回っちゃってるよ。

 さすがにコップ一杯の水では、酔いも覚めないか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る