第6話 私も楽しみにしてるよ


 姉ちゃんが席を外したことで、この場に残されたのは俺と詩乃さんだ。

 ま、まさかこんな状況になるなんて。二人きりは緊張するな。


「き、今日は休日だって言ってたのに、姉ちゃん仕事かな」


 とりあえず場を白けさせないため、話題を振る。


「いやー、あれは多分彼氏だよ」


「へー、そうなん…………

 ……か、彼氏!?」


 姉ちゃんを呼び出した人物。その話題からでも、なにか膨らませられればと思っていたが……

 電話の人物が仕事先の人間ではなく、彼氏ではないかと詩乃さんは言う。


 その指摘に、俺は驚いた。だって、そうだろう。


「姉ちゃん、彼氏いたんですか?」


 姉ちゃんに彼氏がいるなんて話、聞いたことがない。

 その俺の疑問に、詩乃さんはこくりとうなずいた。


「うん。あれ、甲斐くんは知らなかった?」


「はい……」


 あの姉のことだ、わざわざ彼氏ができた報告を、弟の俺にするはずもないが……

 ……いや、むしろめちゃくちゃ自慢してきそうな気もする。我が姉ながら行動が読めん。


 ともかく、これまで全然そういうことにおわせなかったな。


「……」


 ……というか姉ちゃん、まさか彼氏を部屋に呼びたいから、俺に一人暮らしを勧めてきたんじゃないだろうな?

 厄介払い的なやつで、体よく俺を追い出したんじゃないだろうな……?


「はぁ、いいなぁ彼氏」


 そのとき、俺の耳には確かに聞こえた。詩乃さんの声が。

 その言葉の意味を、しっかりと考える。いいなぁ彼氏、いいなぁ彼氏……


 彼氏を羨む言葉。それはつまり、『現在彼氏がいない』という可能性を示している。

 お、落ち着け俺……呼吸を整えろ。心臓の鼓動をゆっくりにしろ、心拍数を止めろ……いや止めたらまずいだろ。


 はぁ……ふぅ……よし!


「えっと……詩乃さんは、彼氏とかは……いたり、とかは?」


「えー、彼氏? 今はいないよー、いないいない」

 

 そして、勇気を持って彼氏の有無を聞いた結果……答えは、彼氏はいない、だった。

 俺は内心テンションが上がるが、それを表に出すわけにもいかない。


 彼氏がいないことでたそがれている相手に、彼氏がいないことで喜びを見せるとか性格悪い奴みたいだからな。


「そ、そうなんですか」


 冷静に、あくまで冷静に応える。

 ただ、声が震えていなかったかが心配だ。


 しかし……『今は』いないかぁ。

 そりゃそうだよなぁ……詩乃さんくらいになれば、学生時代に彼氏はいただろうなぁ。

 俺はそれに気付けなかったわけだ。


「こほん。えぇと……姉ちゃんは、ああ言ってましたけど。本当に隣の部屋に、住んでもいいですか?」


 改めて、先ほどの話題に話を戻す。

 自分から聞いといてなんだが、これ以上彼氏問題を考えているとおかしくなりそうだ。


「もちろんだよー。というか、住むのは甲斐くんなんだから、私の許可なんて必要ないじゃん」


 詩乃さんは、柔らかな微笑みで俺の言葉に応えてくれた。

 詩乃さんの言うように、隣の部屋に住むにあたって詩乃さんの許可は必要ないわけだが……それでも、詩乃さんに受け入れられたことが嬉しい。


 あぁ、姉ちゃん……なんかとんでもないこと言い出したなこの脳みそバカとか思ってたけど、結果的にありがとう!

 俺だけじゃ、詩乃さんの隣の部屋とか考えもしなかっただろう。


「そ、そうですね! じゃあ俺……し、詩乃さんの隣の部屋で、一人暮らし始めたいと、思います!」


「あはは、なにその宣言。

 ……はい、私も楽しみにしてるよ」


 俺と詩乃さんは、なんとなく向き合って……お互い視線を交わしながら、どちらともなく笑っていた。

 今日はなんだか、驚いてばかりだ。


「さ、今日はいっぱい食べてね! なんたって楓の奢りなんだから!」


「そうですね! 姉ちゃんの……あれ?」


 俺は、ふと気づく。

 今日は姉ちゃんの奢りだ。それは実際に姉ちゃんが言ったことだ。姉ちゃんの奢りだ。


 だが、当の姉ちゃんがいない……これは、どういうことだろう。

 財布を置いていったりしてくれていればいいのだが、残念ながら荷物は残っていない。

 というか、自分の分のお金しか置いてってない。


 どうしたもんか……と考えていた中で、スマホにメッセージの着信があった。

 姉ちゃんだ。


『ごめん、奢る約束だったのに忘れちゃってた。

 詩乃、立て替えといて』


「姉ちゃん……」


 なんてことだ……謝罪こそあったが、奢る問題は詩乃さんに立て替えておいてくれだと。

 なんて姉ちゃんだろう。


 そのメッセージは、詩乃さんのところにも来ていた。

 というか、俺と姉ちゃんと詩乃さんでグループに入っているから、詩乃さんも同じメッセージを見ることになる。


 メッセージを見た詩乃さんは……笑顔のままだったが、若干冷や汗をかいているように見えた。


「……なんか、ウチのバカ姉ちゃんがごめんなさい」


「だ、大丈夫だよ甲斐くん! 私だって社会人なんだから、これくらい全然余裕だから!」


 そう言って強がっているように見える詩乃さんは、任せなさいと言うように胸を叩く。


 ……スーツ越しにも存在感のある胸元につい目が行ってしまったのは、手の動きを追ってしまったためだと加えておく。

 そこにやましい気持ちはない。えぇありませんとも。


「さ、遠慮しないでどんどん食べてね!」


「は、はい」


 気を取り直して、詩乃さんは自分で場を盛り上げていく。

 もうヤケって感じだったが、その姿がどこかおかしくて、笑ってしまった。


 食事を再開しながら、思う。

 めでたく高校生になり、姉ちゃんの案で憧れの人の隣の部屋で新生活をスタートする……


 なんと、青春っぽいじゃないか!


「あははは!」


 目の前で笑う詩乃さんを前に、俺はこれからの生活に胸を躍らせていた。



 ……まさか、俺にとってこの先の人生が変わってしまうほどの出来事が起こるとは、この時は思ってもいなかったが。

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