つかぬことを伺いますが

有沢楓

つかぬことを伺いますが ~伯爵令嬢には当て馬されてる時間はない~

「つかぬことを伺いますが、あなたご本人かご親族に、貴族王族騎士団長、あるいはご高名な魔法使いや神官や商会の会長はいらっしゃいませんよね?」


 暖かな春の日。

 花々が咲き乱れ小鳥がさえずり、麗しい貴族のご子息ご令嬢が肩を並べて微笑み合う魔法学院の庭園――を見下ろす図書館塔の最上階の隅っこで。

 居心地の良い椅子で分厚い専門書に目を通していた黒髪の男子学生は、そのぶしつけな言葉を発した女子学生を見上げた。


 落ち着いた色味の服の上に羽織っているのは、魔法系学部の所属を示す金の縫い取りのマント。

 ラピスラズリのような青い瞳は真剣そのもので、とてもふざけているようには見えない。

 僅かに青みがかったグレーの髪に縁どられた彼女の白い頬は、だが自分の発した言葉への羞恥に、少し赤くなっていた。

 

「……どなたですか」


 男子学生のもっともな問い返しに、また頬が赤味を増す。


「し、失礼いたしました。私、魔法医学部第二学年のフランシス・ブロードベントと申します。

 法学部のレイモンド・ストウ様でお間違いないでしょうか?」

「そうですけど。何かご用ですか?」


 そわそわした様子の女性はそこそこ可愛らしい顔立ちだったが、男子学生は興味を示す風もなく、落ち着いた薄青の瞳でやや冷ややかな視線を返す。

 彼はフランシスと名乗った女学生を一瞥すると、また本に視線を戻す。


「あ、あの!」


 フランシスは人目をはばかるように周囲を見回す。彼女が5分前に確認した時と同じ――誰もいない、二人きりだ。

 図書館併設の塔は専門書が多く、学院から特別な許可証をもらった生徒しか出入りできない。それも最上階は魔法とは関係ない書物を並べてあるせいで、滅多に人が訪れない。

 意を決したように再び口を開く。


「それでは特殊な才能や隠している特技、はたまたご親族に竜や魔族の血が入っていたりは――」

「――いやそんなのないけど、何?」


 もう一度、レイモンドの目がフランシスを見る。

 不審者を見る目つきだったが、嬉しそうに胸元で手を握りしめた。


「良かった。それでは、結婚していただけませんか」

「……は?」

「我が家にそれほど財産はございませんが、ストウ様のくつろがれるお部屋と書斎、それから我が家の図書館も! お付けいたします」

「……何それ」


 前のめりになるフランシスにどん引いているレイモンドだが、彼女は気にした風もない。


「私、一人っ子ですので。受け継ぐ予定のものはストウ様との共有財産ですから。あ、爵位は私が継ぐ予定ですけど……」

「相続は分かったけど、そこまでする理由ってあるの?」

「それは勿論、無理に旦那様となっていただくのですから、可能な限り望みをかなえたく。……それで、結婚していただけませんか?」


 唐突な上にでたらめな告白に呆然としているレイモンドに、彼女は一歩近づく。

 その勢いに押され、レイモンドは立ち上がって、本を抱いたまま一歩下がった。


「いやそうじゃなくて、何で結婚って話になってるの?」

「婚約より結婚が強いからです」


 そんなカードゲームみたいに、とレイモンドが呟いたときである。

 部屋の扉をばーん、と開けて、一組の男女が入ってきたのは。




「――ここにいたのか、フランシス!」


 いや正確には女子学生が半歩先に部屋に入ってきて、金魚のフンのように着いてきた赤銅色の髪の男子学生が、勢いよく扉を開けたのだった。

 フランシスの顔が途端に、露骨にひきつる。


「……またあなたなのね、ヘクター」

「また、とはちゃんちゃらおかしいな。ここに来るのを知っていて待ち伏せしていたんだろう」


 髪と同色の瞳でフランシスを見据えきりっと指先を突き付けるヘクター。

 彼女と同じマントを羽織ってはいるものの、その下は流行の服を着こなしていて印象はまるで正反対だ。


「婚約者という立場を笠に着て、俺たちの逢瀬を邪魔しようと……」


 フランシスの表情が険しくなる。彼女の予測によれば、この聞くに堪えない言いがかりはあと三分は続くはずだった。

 が、その言葉を遮ったのは、ヘクターの前で立ち止まった可愛らしい金髪の女子学生だ。彼女は小動物のような緑の目を丸くして、手に抱えていた手提げ鞄を机に置いた。


「……フランシス先輩、奇遇ですねえ」

「私名乗った覚えもありませんし、厳密にはあなたと知り合いではないのですが……」

「……そうでしたっけ……?」


 しかしフランシスは、首を傾げている彼女の名前は知っていた。


「そうです。一方的ないちゃいちゃを見せられてきたせいで、お名前がキャロラインさんで一学年後輩、外国語文学を学んでいること、甘いものが大好きで特に苺のケーキに目がないことは知っていますが」

「そこまでご存じでしたらもう知り合いですね」


 にっこり微笑む彼女に邪念があるようには見えない。

 フランシスは射るようなヘクターの視線を無視しながら、キャロラインに続けた。


「それと、偶然ではないと思います」

「そうなんですか? えーと、ここには勉強にいらしたわけではない……となると、やっぱり待ち伏せ? なんでしょうか……」

「違います」

「では私かヘクター先輩にご用事があって?」

「どちらかと言えばヘクターの方が……だと思います」

「どういうことでしょう?」


 キャロラインは困ったようにヘクターを見上げ、ヘクターはそのキャロラインの肩を慰めるように抱いた。


「だから何度も言っただろう、キャロライン。婚約者の立場を利用して、真実の愛を阻むような行為をして楽しんでいるんだ。

 この前の塩入り卵焼き事件も、俺の家に突然訪ねて来たのも、先月学院のパーティーでキャロラインとドレスの色を合わせたのも」

「さすがにそんなことないと思いますけど……」

「君は純粋だから人の悪意が分からないんだ」

「……でもヘクター先輩が心配してくださるのは嬉しいです」

「キャロライン」

「ヘクター先輩……」


 見つめ合う二人。周辺にはお花畑の幻影が見えそうなほど甘い雰囲気が漂っている。

 フランシスはこめかみに手を当てて、わずかに感じ始めた頭痛に耐える。



 一方で、レイモンドは何の茶番を見せられているんだと呆れて、早々に退散しようと立ち上がった。

 後ろ髪を引かれながら貸出禁止の本を本棚に戻そうと歩き出せば、突然、横から腕が引かれた。

 フランシスだ。

 彼女は苛立ちを隠しもせず、今にもぶち切れそうな剣幕でレイモンドの腕を取ったまま、二人に――正確にはヘクターに対峙した。


「――違います!」


 思わぬ大声にヘクターとキャロラインはあっけにとられた。二人を囲む花畑の花弁は吹き飛び、甘い空気も四散してしまう。

 フランシスはそれほど、花畑は勿論図書館にもふさわしくない感情の渦を叩きつけていた。


「毎日毎日、大人しくしていれば――待ち伏せに尾行、濡れ衣を着せてどういうつもり?

 昼ごはんもゆっくり食べられない。課題の質問をしに研究室に行く途中でも、図書館でも割り込んできて、勉強の邪魔をして、いちゃいちゃイチャイチャ。

 ご両親から家にご招待を受ければ逃げ回って顔を合わせもしない。

 ……それなのに婚約を解消してくれないってどういうことなの?

 キャロラインさんの目の前で一度婚約を『解消したい』と言ったことはあるのに、『解消する』とは言わない。尋ねればうやむやにする。

 私、恋のスパイスのために存在しているんじゃないんですけど!」

「な、なにを……」


 二の句を継げないヘクターに、彼女は畳みかける。


「婚約は解消してくれるのですか?」

「婚約は両家の取り決めだろう? だから……」


 目が泳ぐヘクターを見て、フランシスは「これは駄目だ」と悟った。


「悲劇のヒーローを演じるなら家の中だけにしてください! 私が欲しいのはあなたの有責で婚約解消できる書類ですよ、書類!」


 息を吸うと最後通牒を突き付ける。


「本気でやろうとしたら両家の合意なんて要りません。いつの時代の法律です――いいですか、ストーキングも名誉棄損も婚約の不履行も、犯罪です。

 本気で婚約解消してくださらないなら、次は法廷でお会いしましょう!」




                   ***



「……突然申し訳ありませんでした」


 ストレスの頂点から一転、正気を取り戻したフランシスはレイモンドに頭を下げた。

 二人を挟む学生食堂のテーブルの上には、人気の毎日限定50セット・豚の塩釜焼定食が乗っている。

 時は午前11時。お詫びに食事をとしつこく追ってこられたレイモンドが、ならばと自分から学食に行って、以前より食べてみたかった品を注文したのだ。

 なお、自腹である。

 彼目線でのフランシスは挙動不審であり、お詫びだかなんだか、とにかく貸し借りを作って厄介ごとに巻き込まれるのは御免被りたい。


「ついでに目の前に座っているのも偶然ってことにしておく? それとも僕に対しての付きまといって認める?」


 それがフランシスとヘクターのやり取りへの皮肉であることに気が付かないほど、彼女も鈍感ではなかった。


「申し訳ありません」

「さっきのもそうだけど、何に対しての謝罪か分からないうちは受け入れられないね。まあ、さっさと帰ってくれるならどっちでもいいけど」


 小さな塩のドームにナイフを入れながら、レイモンドがちらりとフランシスを見ると……目をわずかに開いた。

 彼女の顔色は明らかに具合が悪そうだったから。


「……大丈夫?」

「ああ、いえ、体調も心も大丈夫ではありませんね。大丈夫でしたらあんなことを持ち掛けないので……」

「自覚はあるんだ――あ」


 ふらりと体を揺らし、テーブルに突然突っ伏した彼女に、レイモンドは慌てたような声を上げる。


「……あ、別に死んでません。ちょっと眠ったり食べたりしてないだけで……」


 フランシスは腕枕の下から弁解する。

 行儀が悪いことは百も承知だが、ここ一週間ほどろくに寝れていないのだ。


「さんざん邪魔されたおかげでレポートが全く進まない状況で、帰宅してから遅くまで勉強するしかなくて。食欲もあまりないですし……」

「……何か持ってこようか」

「ご迷惑をおかけするわけには……」

「そこで突っ伏されたり倒れられる方が迷惑。学院内では急病人に看護の義務が発生するし」


 レイモンドは席を立つと、すぐにセルフサービスのコーナーにある水とリンゴジュースを持って戻ってきた。


「飲めたら飲んで」

「……あ、ありがとうございます。フリードリンクの代金、お支払いしますね」


 フランシスはのろのろと体を起こすと肩に下げた鞄を探りかけたが、それをレイモンドは後にしてよ、と制した。


「先に飲んで」

「ではいただきます」


 ちびちびと舐めるようにリンゴジュースを飲む。

 真っ白だった頬がほんの少しずつ血色を取り戻していくことにレイモンドは安堵した。


「それで何についての謝罪だったの?」

「話せば長いのですが――」

「手短に言って。午後から講義だから」

「は、はい。つまりぶしつけに結婚を申し込んで、更に巻き込んで、というか、後をつけるのもそうですし、そもそも個人情報を調べるのも……不正な手段でないとはいえご不快かと」


 言いながら自分のしでかしたことを自覚して、フランシスの頭はまたテーブルに沈み込みそうになる。


「まあ、そうだね」


 沈んだ。

 が、これも迷惑だと思い返して彼女は背筋を何とか伸ばす。


「ご覧になった通り、ヘクターは私の婚約者なんです。親が勝手に決めた」

「それ、さっきも言ってたけど法律上は二人だけで決めるもので……」


 フランシスもよく分かっているというように頷いた。


「……私たち、幼馴染なんです。家が隣同士の付き合いで。なのでまだ若いとはいえ責任能力が発生した直後に契約書にサインをしていて」

「まあありがちかもね。悪徳商法もそういう時期を狙ってくるし」

「物心つく前から友人だったので、婚約後も変わらず接してきたようなものなんですけど、まあレポートで忙しいしこちらは現状維持でいいかと思っていたら……ヘクターが先のキャロラインさんに出会いまして。

 ヘクターは夢中になって……つまり、初恋をして暴走しているんです」


 ヘクターは何の物語に影響されたのか知らないが、恋には当て馬がいた方がいいと思い込んだらしい。

 それで勝手にフランシスを恋路を邪魔する悪者に仕立て上げつつキャロラインとの恋を盛り上げようとしているのだ。


「普通に婚約解消するって言ってくれれば、うちの両親もあちらのオールドリッチご夫妻も納得すると思うんですけどね」


 その名に、レイモンドは眉を顰める。

 噂には聞いたことがある。

 魔法学院では身分は問わず在籍し平等に扱われているが、それは学院からの成績評価だけの話で、人の反応や学外での人間関係などではちょっとした面倒には違いない。

 彼は代々大臣や優秀な廷臣を輩出している侯爵家の次男、ヘクター・オールドリッチだったのだ。


「つまりごっこ遊びに勉強を邪魔されて困っているんだ。事情は解ったけど……それで君の事情と僕に何の関係が?」


 レイモンドは皿の上のサラダを片付け、最後の豚肉のかけらを口に入れてしまうとフランシスに言い放った。


「証拠は自力で集めるので、法廷で戦う方法を教えてくれる方を探していたんです。

 勿論、あの言葉でヘクターが反省して諦めてくれるならいいんですけど。

 少し相談したい程度だったので専門家に相談するほど大事にしたくもなく……そこで学生の論文を眺めていましたら、検事のお仕事について興味深い論文を発見しまして――それがレイモンド・ストウ様でした」


 その後は簡単だった。その論文を査読している教授に聞いて、平民であることや本人の顔立ちや図書館塔の最上階に出入りしていることを教えてもらったのである。

 幸いフランシスも図書館塔の利用許可証を持っていたから、出会うのは簡単だった。


「とても素敵な論文でした。起訴手順について、特に証拠からの論理の組み立て方が素晴らしくて……」

「検事になりたいってだけの学生だよ、しかもうちは爵位もなければ大した財産もない平々凡々な庶民だし」


 フランシスの瞳は一瞬輝いたようだったが、レイモンドは遠い目をしてから首を振った。


「……あれは貴族のやり方を知らない僕だから書けたんだろうって褒められたからね」

「法廷は倫理と論理とで運営されるべきです。

 他の論文……たとえば証言にかかる身分その他外見によるバイアスについての考察だって素晴らしいものでした。特にあの巷を騒がせたメアリーアン事件を、証言をもとに再構成した……」


 彼女は熱く語りそうになってから、自分が一方的に持論を繰り広げそうになっていることに気付いてトーンを落とした。


「すみません」

「ああ、いや。……評価されるのはまあ、悪い気分じゃない」

「それは勿論、法廷にだっていろいろあるのが現実です……私が特殊な背景をストウ様にお伺いしたのは、間違っても権力などによる圧力がかかるのは嫌だったからです。

 こちらに不利なのはもちろん、あちらに不利なのも。公正でないとヘクターに思って欲しくなかったからです。公正じゃないってなると妄想に拍車がかかりそうでもありますし。

 この件はヘクターのご両親にも相談していました」


 当然のことのようだが、ヘクターの両親も彼の暴走に手を焼いていて、婚約解消の方法についてはフランシスの意向を汲むと言ってくれていた。

 今までなあなあになっていたのは、幼馴染と家族ぐるみの付き合いという情によるものである。


「それに勝ち目はあります。……私、魔法医学部を選んだのは、元々事件において医学からの見地やその他証拠を役立てることについて興味があったからでもあるのですが……自分への濡れ衣を晴らすためというのもあるんです。

 まさかわざわざこのために、魔力痕跡の探知や足跡の保存法を考えたり、隠蔽されそうな指紋を採取したりすることになるとは思いませんでしたけど。

 それなりに証拠は集まっていますから、とにかくまとめて訴状のようにしてヘクターに一度叩きつけて……そこで、目が覚めればいいんですけど」


 話を黙って聞いていたかに見えたレイモンドは、いつの間にかはっきりとした興味を持ってフランシスを見つめていた。


「もしかして、今検察で取り入れてきているブロードベント式指紋採取法……あれ考えたの、君?」

「え? は、はい。魔法で覆い隠した指紋に対して、魔法の影響を拭い去るやり方ですね。魔法に適性がない方向けの採取用粉末って軽くって飛びやすいですし、散らかしたり吸い込みたくないので、試行錯誤しました」

「あれで付いた時間もある程度分かるようになったんだよね?」

「はい。それはオプション機材でお値段が高くなってしまうのが難点ですが」


 頷くフランシスは、思い出したように続ける。


「……そうでした、説明の続きですね。ヘクターには婚約解消をどうしてもしてもらえない時にはこちらから破棄しようと思っていたんですが、どうも揉めそうだったので。結婚してしまえば有責にはなっても接点がなくなると思って――それでストウ様に協力と一緒に結婚を申し込んだんです」

「それで結婚の方が婚約より強い、ね。確かに書面上だとそうだけど。君、結婚するより先に病院行った方がいいよ」


 至極当然のアドバイスだったが、そう言ったレイモンドはどこかうわの空のように見えた。


「そうかもしれないですね。せっかく教授とうまくやっていけそうなのに……転学も視野に入れます」


 リンゴジュースを飲み干して、また沈み込みそうになるフランシス。

 その頭に声がかかる。


「君は、本当は幼馴染が好きなの?」

「……恋愛対象では全くないです。幼馴染としては好きだったんですけど」

「そう。なら協力してもいいよ」

「そうですよね。断られても仕方のないことをしました――失礼いたします」


 ふらりと立ち上がるフランシスの腕を、今度はレイモンドが取った。


「話聞いてる? 協力してあげてもいいって言ってるんだよ」

「え……ええっ? 本気ですか!?」

「驚く必要ないだろ。被害者が転学する必要なんかない」


 目が合う。薄青の瞳が今までになく強く、射抜くようにフランシスの瞳を見ていた。


「決まったら今日は早退してゆっくり寝るんだね。明日から君の家の図書館に詰めるんだから」

「……そうします」


 ぱっと手を離されて、フランシスは熱くなる頬をごまかすようにごそごそと鞄の財布を探る。自分の味方がやっと得られたことへの嬉しさと、それと他の何かを自分でもごまかすために。

 ……が。――あれ、と気付いて、立ち上がっていたレイモンドの自身より少し高い背を見上げた。


「……家……家ですか?」


 栄養補給を終えたフランシスは、婚約者でもない男性を家に招くのはどうなんだろう、と常識的なことを考えられるようになっていた。


「当然だね。君があのブロードベント家の直系なら、法医学者の一族だろう。図書館は君が最初に交換条件に挙げた通り、その手の犯罪と医学の書物の宝庫のはずだ。

 何度も訴えるのは現実的じゃないから、言い逃れできない確かな証拠を固める必要がある」

「ええ、はい」

「君がヘクターの改心を望むのなら、ハッタリは徹底的にやった方がいい」


 そうしてレイモンドは、はじめてにっこりとフランシスに笑って見せたのだった。



                   ***



「訴状っぽい文章は僕が書くから、君は日記があるならそれを、ないなら記憶の限り時系列に並べて書いて。

 そのまま裁判所に持って行っても困らないように、要件を整理して必要そうなものから記す証拠を採用する。

 しかし噂には聞いてたけど……これだけあるなら十分すぎるね」


 ブロードベント家の図書室は、確かにフランシスの言葉通り図書館と言ってよい蔵書を誇っていた。

 規模としては教室ひとつ分ほどだが、古い本から希少本、専門書がよく整理して並べられており、その手の人間にはたまらない空間だった。


「あー……うちの財産、建物以外は全部研究費につぎ込んでるんです。無趣味っていうか趣味が研究で。親は先ほどご覧になった通りです」


 在宅していた(というよりその時間を狙って)両親に“学友”として挨拶したレイモンドに対し、父親は彼の研究分野に興味を引かれたらしく、あれこれ質問していた。

 そのままでは離してくれそうになかったので、フランシスが間に入って引きはがしたくらいだ。


「なるほどね」


 古く立派な屋敷で家財もアンティークだったが、伯爵家という名前にしては装飾も日用品も、両親の服装も庶民とほぼ同じ暮らしぶりに見えた。

 フランシスの今の服装も、少しだけきっちりしたシャツとスラックスのレイモンドに対して動きやすさ重視のシャツとパンツで全く令嬢らしくなく、並んで違和感がない。


「しかしこれだけの書物が家にあるなら、大分研究に利があるな……ええと、責めてるわけじゃない」


 一瞬沈んだ顔のフランシスに、レイモンドはしまったという顔をする。


「どれだけ財産があろうが、溶かすのも価値を理解できるのも、使うのも本人次第だ」

「……アルバイトなさってるんですよね?」


 フランシスは、初めて会ったときに図書館を付けるなんて言ったことを少し後悔していた。

 交渉のつもりであっても、実家の財産を誇示しただけの、彼を尊重していない振る舞いだったから。


「そうだけど、ここの図書館の利用料代わりなら安いものかもね」

「お休みさせてしまって済みません」

「結婚したら手に入るって考えればなるほど、納得できるなって思ったんだけど」

「……そ、それは……!」


 フランシスの顔は羞恥で赤く染まる。


「今回の迷惑料と報酬が、ここの利用権なら嬉しい」

「父に相談してみます。……でも多分、話し相手になってくれって言われるかも……?」

「それは願ってもないね」


 微笑みながら鞄の荷物を広げるレイモンドに、フランシスは今までまとめておいた資料を渡しながら気になっていた質問をする。


「つかぬことかもしれませんが、何故法学に進まれたのですか?

 こういっては何ですが、大学部でも熱心な学生ばかりではないのに、熱心とか信仰……とは言い表せないような論文を、その……情熱がありながら抑制のきいた感覚を論文に覚えました。何か理由があるのでしょうか」

「……法律の道に進んだのは家族では僕だけだよ」


 レイモンドは法律や裁判の判例集の本を広々とした机に広げていく。


「祖父が逮捕されて裁判にかけられたことがあって。状況は確かに祖父に疑わしかった。それらしい証拠も出てきた。アリバイはあったけど抜けがあって、不可能と言えるほどじゃない」

「……どうなったのですか」

「無実の罪を本人は訴えたけど、裁判が長引いた。認めて減刑の方が楽に済むっておかしいだろうけど、証拠がない時はそっちの方が心象が悪いんだ」


 数年牢の中にいたんだ、と苦々しく呟く。


「僕は祖父と仲が良かったから、状況を自分で確認したかったし裁判についても知りたかった。結局真犯人が捕まって、祖父は名誉を取り戻したから、最期はベッドで家族に看取られて逝くことができた――これが検事を目指そうと思った理由の一つ」

「まだ理由が?」

「この世界に飛び込めばいつか王子様に会えると思ったから。……王子様じゃなくてお姫様だったけど」


 フランシスは目を瞬いた。レイモンドの口から王子様とか王女様なんて言葉が飛び出ると思わなかったからだ。

 だがその言葉を本当に大切そうに言うので、もう少し聞きたいとは思ったけれど、それを尋ねるのをためらった。


「そうですか……」

「まあね。ああ無駄口はここまでにして、早速証拠を整理しよう。

 ……そうそう、こっちも聞きたいことがあったんだ――君って仕返しはどう思う?」




                   ***




 麗らかな春の日、人々でにぎわう魔法学院の美しい庭園――が良く見える、人気のない図書館塔の最上階にて。



「――よって、ヘクター・オールドリッチがフランシス・ブロードベントに対しつきまとい行為を――」



 作成に3日ほど要した書類の束を、フランシスは読み上げていた。

 キャロラインも一緒にいたのは想定外だったが、いてもらっても構わないだろうと判断した。


 ヘクターは訴状めいた文章と、フランシスが張り切って集めた付きまといその他迷惑行為の証拠を突き付けられ、青い顔をしていた。

 足跡のできた順番、指紋の上下での時系列の整理、落としていった土埃の成分から事前にいた場所がヘクターが取った講義で屋外実習があった場所だと証明したり……。


「そっちがストーカーじゃないのか!?」

「証明できるというなら、どうぞ訴えてくださって結構ですよ」


 フランシスが強気な態度で臨む。

 キャロラインは困ったように、ヘクターを見上げた。


「無理だと思いますよ、ヘクター様。付きまといかになるかは良く分からないですけど、ヘクター様が最近フランシス先輩に迷惑かけてたのは本当ですし……」

「……俺のことを嫌いになるだろうか」

「ならないですよ。好きです。でもまだ恋人って訳でもないので……だって先輩、婚約も解消しないし、私にちゃんと告白してくれたことないじゃないですか」


 絶句するヘクター。だけでなく、フランシスも驚いて固まる。

 バカップルというにはヘクターが必死だなぁと思うところはあったが、ハナからカップル成立してなかったのか、と。

 それはそうだ、彼女の言っていることが正しい……自分も解消してないのに結婚してくれとか言ってしまったけれど。


 ヘクターよりも早く正気に戻ったフランシスは、幼馴染をほんの少しだけ可哀そうに思ったが、今までされたことを思い出して手を緩めずに追い打ちをかける。


「……それで決めてくれました? 婚約を破棄するって書類を書くって」

「わ、分かった。俺が……どうやら君に甘えすぎていたようだ。婚約は解消する。ちゃんと俺の有責で……」

「口約束は困りますので、書類もお願いします。……あ、周囲に証言してくれる人もいますし、口約束も法律上で効力が発生するそうですよ。録音もしてます」


 フランシスは、手のひらに収まるくらいの綺麗な石の魔道具を掲げて見せた。レコーダー機能があり、買えばかなり高価な品である――これは自作で安かろう悪かろうなのだが、短時間の再生は問題ない。


「書類はこちらに。気の変わらないうちに取りあえずサインをお願いします」


 手際がいいことに、あとはサインするだけの書類を持ってきていた。

 バインダーとペンを手渡せば、ヘクターはふらふらと引き寄せられるように婚約解消にサインする。

 キャロラインの告白にショックを受けて判断能力が鈍っていたとか後で言われないかな、とはちらと思ったが、隣でレイモンドが頷いたので良しとした。


「確かにいただきました。ありがとうございます。別に高額な慰謝料を請求しようとは思ってないから大丈夫ですよ。幼馴染のよしみです」

「済まない……」

「……それも最後にしてほしいけどね」


 ふらふらとショックを受けているヘクターに対し、口を挟んだのはレイモンドだった。


「お前は?」

「関係ないだろと言いたいところだけど、せっかくだから証人になってもらおうかな。逃げられても困るから」


 狐につままれた顔をしているヘクターを放置して、レイモンドはフランシスに向き直った。


「さて、これで婚約も解消したって訳だね。おめでとう……ああこれは僕にとってもだね」


 レイモンドは跪くと、今度は別の驚きで固まっているフランシスの手を恭しく取った。

 そこで更に彼女の頭は、普段はそっけないのに紳士然とした振る舞いができるのだ、と混乱する。


「ミス・フランシス・ブロードベント。僕と結婚していただけませんか」

「……え。え?」

「我が家に財産は全くありませんが、将来にわたって研究を続けられる環境は必ずお守りしますし、必要ならばいつでもできる限りのお手伝いをします」


 ――仕返しだ!


 この前レイモンドが言っていた言葉が脳裏をよぎり、フランシスはひっと息を呑んだ。

 先に言い出したのは彼女だったから、逆に言い出されてもおかしくはない。おかしくはないが、勿論それはまともな状況で本気で申し出ていたらの話であって。

 あの時は、結婚してしまえば有責でも婚約破棄できるからという切羽詰まった頭で考えたもの。そんなこと知っているはずなのに。


「え、ええっと、ええとですね……」


 そして、なんといえば法律上承諾とか、今後厄介なことにならないのかを必死で考える。

 何を言っても言質を取られるのではないかと思うと少し怖かった。


「――行きましょう、ヘクター様。私たちはお呼びでないですよ」


 キャロラインが、展開の速さに呆然としているヘクターの背中を押して部屋を出て行った。

 扉が閉まる。

 1、2、3……たっぷり10秒程経ってから、何とか口を動かしてフランシスは問い返した。


「ストウ様は私のことをお好きではないでしょう? ヘクターの前であんな冗談を言って追い詰めるのはやりすぎでは」


 その言葉に、レイモンドは立ち上がるとフランシスの手を離す。

 顔には先ほど浮かべていた紳士のような表情は夢のように消え去っていたが、声には懐かしさを含んだ親しみがあった。


「前から焦がれてたよ、王子様……いや、お姫様に。ブロードベント式指紋採取法の開発者にね」

「……あ」


 フランシスは思い出した。レイモンドが初めて会ったときに、唯一彼女に興味を示したものを。


「あの方法が採用されたおかげで、真犯人の指紋が発見された。そして祖父の指紋もまた、事件発生時刻より前に着いたことが証明できた。

 だから僕と祖父、家族にとって君は救世主なんだよ。

 開発者にずっと会いたかった……本当は君のお父上かと思ってたんだけどね」

「まあ……そうですね。父にも一部協力を仰いで共同名義だったので、私の名を覚えている人はごく少数です」


 研究に興味があったんだ――とフランシスは冷静さを取り戻した頭でこくりと頷き、それから顔を少し反らしたレイモンドの横顔を見つめる。

 少しだけ頬が赤いような気がするが、それこそ気のせいかもしれない。


「それが理由で協力してくださったんですね。ありがとうございます」

「その君の研究の成果と真摯な努力を、あんなつまらない理由で邪魔させるわけにはいかない。あいつは君が優しいのをいいことにだいぶ甘えていただろう。釘を刺しておこうと思って。

 それに、多分、これから現れる他の男も君を理解して援助したりしないだろう。……というのが利点じゃ駄目だろうか」

「……ええと?」


 どういう意味に捉えていいのか測りかねている彼女に、レイモンドはそれ以上説明しなかった。


「そうだな、君は研究以外には察しが悪いんだった。……まあいいや、結局君の図書館に通えば、僕の指紋がペタペタ付くことになるだろうからね」




                   ***



 それから一年ほど過ぎたある日のこと。

 ブロードベント家の図書館のサイドテーブルにティーカップを置きながら、フランシスは書籍を探すレイモンドの後頭部を見つめた。

 研究で忙しいのかたまに跳ねている黒髪は、今日は艶やかだ。


「レイモンド様は、お父様のことがお好きでしょう?」

「そうだね、とても気さくで良い方だよ」

「お父様も私よりレイモンド様のことを気に入ってるみたいで、最近少し複雑な気分です」


 フランシスは一人娘だから父親から可愛がってもらっている自覚はあったが、医学の道では方向性が違うとはいえ師弟のようなものである。

 法学を志しているレイモンドの方が、全く違った視点からの反応があって楽しいようなのだ。


「……ですがこの前の学会誌に載った論文は確かに、論理の展開が美しくて」

「お父上のおかげかな。フランシス嬢の方こそなかなか良かった。読んでいて楽しかったよ」


 レイモンドは本を置くと、ポットから二人分のお茶をカップに注いだ。

 なんだか彼の表情は柔らかくなっているような気がする、とフランシスは思う。ただ単に見慣れて読み取れるようになっただけなのかもしれないが。


「ありがとうございます」

「ところで話は変わるけど、そろそろ証拠も集まったと思うんだよね」

「証拠……ですか?」

「ここに良く通ってるし、本棚にも応接室にも僕の指紋はたまっているはずだ。おかげで他の男は寄り付いていない。

 君のお父上にも利用は勿論君と仲良くする許可をいただいたし――これは交際していると言ってもいいと思う」

「……え? そんな話聞いてませんよ」

「そう、同意は得てないから状況証拠だけだね」


 あっさり言うレイモンドの澄ました表情に、フランシスは何故か腹が立って眉尻を上げた。


「蔵書と論文と、私のお父様を手に入れるためにそこまでしたんですか?」

「君が最初に取引条件にしたんじゃないか」

「では交際していないことを証明するために、私全力で――」


 声が高くなるフランシスを、手を挙げてレイモンドは遮る。


「全力だと困るな、法廷でも勝てる気がしないよ。まあ裁判で君が勝訴という判決が出ようと、皆が納得するかは別だけど」

「……私のことどう思ってらっしゃるんですか」

「僕は人のことをどうこう言える立場じゃないけど、君の論文は大好きだよ」

「論文、論文って……」


 やっぱり、とフランシスは思う。

 一年の間に、以前より気安く言い合えるようにはなったが、それもたいていは学問の話をするときだけだ。


「じゃあ――外見や性格が好き、だったら納得できた? 君が人生をかけて挑もうとしている研究は君の一部ではない?」


 ……なのにその瞳が彼女を見つめると、何故か鼓動が早くなった気がしてしまうのだ。


「……そんなの、嬉しいに決まってるじゃないですか。勿論今までも協力していただいて、時間を取っていただいて感謝してます。

 雑事に煩わされないようにって、繁忙期は資料探しだけでなく買い物までしていただいて。でも……」

「それで全く好きでもない男を一年通わせて父親と二人で談笑させてたの?」


 フランシスはレイモンドをにらみつけたが、生憎迫力は全く足りていなかった――頬が紅潮していたから。


「こんな面倒な人だと分かっていたら最初から協力は頼まなかったのですが」

「君も大概だと思うね」

「分かってます」


 フランシスは紅茶を飲み干す。

 自分が持ってきたポットなのに、ちょうど良い好みの時間で注がれている。

 腹が立って、そしてまた最初出会った時のように切羽詰まっていて、やけくそな気分だった。


「さっきの続きを言わせていただきますね。私、付き合っていないことを証明します」

「……そう」

「ですから改めて。つかぬことを伺いますが、もし私に好意がおありなら、お付き合いいただけませんか?

 くつろがれるお部屋と書斎、それから我が家の図書館と論文――はあくまで成婚時のおまけで、私が本体ですが」


 ――そう言ったフランシスの目の前に急にレイモンドが近づいて。

 背中が不意に引かれ、抱きすくめられる。


「確かに、それなら今まで交際してないってことになるね」


 耳元で微笑が漏れて、彼女は頬をさらに赤く染めた。


「私、引っかかりました?」

「想定外の返しだった」

「良かった――あれ、良かったのかな。……ああ、ちょっと待ってください。言質をいただいてないです」

「そうだね。僕は君が好きだよ。でも君がどうか聞いてない」


 視線も声も、多分それは言質というには少しばかり甘かった。

 つい抱きしめ返してしまいそうになる衝動に彼女は耐えて、理性を働かせ。


「私は……私も好きです。でも、言葉だけでなく物証があった方が」


 ほんの一瞬だけ、挑戦的な瞳でレイモンドの恥ずかし気な表情をとらえたフランシスは、その薄い唇に自身のそれを寄せた。

 目を瞑れば、やわらかい感触が触れて離れる。


「――これで同意は成立ですよね?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

つかぬことを伺いますが 有沢楓 @fluxio

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ