第3話 れんず

 何とか最寄りの駅に帰ってこれた。

 お金は引き出せたけど、路線間違えてしまったり、寝落ちしてしまったりして、すっかり空は暗闇で満ちている。

 暗闇で家に帰るのも少し怖かった。それなりに、田舎だから街灯が少なくて場所によっては何も見えないところがある。そういうところには、どうしても恐れを抱いてしまう。

 暗闇の中にいると拡散して消えてしまう気がする。僕という一個体が姿形を保つことが難しくなり、境界を失って無に成ってしまう気がするのだ。


「いっそのことなら消えてしまった方が」


 楽だったのかもしれない。きっと消えた方が楽なのだろう。

 僕が社会に害をもたらしている自覚はないけど、社会に益をもたらしている自覚もない。社会に出てから感謝されたことがない。感謝だけが人の価値ではないとは思うけど、わかりやすい価値が感謝というのは理解している。そういう意味でも不変的な価値基準を手に入れられていないと言うことは、この世に益をもたらしていないということなのだろう。僕には価値はない。


「雨」


 ポツポツと雫が頬に落ちた。段々、雫の粒が大きくなっていき、歩数と共に雨は成長していった。すっかりザーザー降りだ。小走りで進むとコンビニが見えた。すぐにコンビニの中に入り、ビニール傘を購入した。シュリンクを外して、傘を開く。新しい傘だから綺麗な透明だ。薄暗い雲が濃紺の星空を隠していた。

 雨はすぐに水溜まりを作り出し、僕の靴の中に雨は侵入してきた。歩く度にびちゃびちゃと音が鳴るのは気持ちが悪い。折角、ゲームセンターで濡れないようにしてきたと言うのに、濡れることは避けられなかった。

 どの道、濡れるのなら、出しっぱなしにしながら終わらせればもっと劇的だったな。失敗したな。

 開き直ってぴちゃぴちゃと水溜まりの上を歩いていると家が見えた。築年数が長い、ボロボロのアパートの二階の角部屋だ。引っ越してきた当初は不便に思うことも多かったが、住めば都。もう、何も感じない。


「ただいま」


 玄関先で靴下を脱いで洗濯機の中に入れる。びちゃびちゃになったカーディガンも、パーカーも、ジャージも、全て網の中に入れて洗濯機へとぶち込む。適当に洗剤を入れて操作すると、ガタンガタンと動き出した。


「髪が、びちょびちょ」


 ヒビの入った鏡越しに自分の髪を見た。せっかく朝に整えたのに、髪は雨によってぐちゃぐちゃになっていた。


「あ、」


 無意識で歯ブラシの横に立てられていたアイスピックを鏡に突き刺していた。鏡の中の僕、それも鼻っ柱に突き刺さった僕を見て、残念な気持ちが煮え立ってきた。

 無個性な顔、どこにでもいる顔、誰でもないのに誰でもあるような顔、気味が悪い。個性がないくせに、どこか自分を他人とは違うと感じているような表情を浮かべている。結局は誰よりも劣っていて、誰よりも虚ろなのに、食い破られた果実のようにがらんどうなのに、奇っ怪な自信を持っている。

 そのことが気味が悪くて、突き刺したアイスピックを力強く押した。


「……誰かになりたい」

「それが貴方の悩みですか?」


 落ち着いた女性の声が聞こえた。俯く顔を上げると、鏡の中から自分の顔が消えていた。


「うわ! わぁ!」


 尻もちをついたはずなのに、鏡から体は消えない。恐る恐る、鏡の中の誰かを観察していると、服装からして自分とは違かった。黒と紫を基調としたゴスロリ服を身にまとった首と顔がない存在、それがそこにいる。


「そんなに、驚かなくても」

「私は貴方の味方ですよ」


 彼女?はそう言うと鏡と壁の境目を掴んだ。無理矢理、身体をねじ込んで、部屋の中へと入ってくる。彼女はそのまま、外に出てくると、尻もちをつく僕の前に立った。膝を内側に曲げて座り込んで僕に顔を合わせた。

 彼女の顔をちゃんと見ると、確かに顔と首はなかったが、本来、顔があるところに仕切りと三つの円盤が浮かんでいる。どことなく既視感が浮かび、思考していると自分のスマホがぶぶぶと鳴った。スマホに視線を移すと、彼女の顔が何なのかすぐに理解した。


「カメラ?」

「え? あぁ、顔ですか」


 スマホのカメラをくり抜いたようなものが、体の上にプカプカと浮かんでいる。彼女の言葉を信じるならば、それは顔なようだ。しかし、飲み込むことは出来ない。目の前にいる存在がこの世のものではないことは理解出来る。この世のものではないことはわかるが、鏡に映って、鏡から出てくる異形の頭、そんな生物を僕は知らない。


「私はカザり、虚飾の悪魔」

「貴方のような自分がわからない人間を価値のある存在へと飾る」

「そんな善意の塊。正しくは善魔という方が正しいかもね」


 体をくねくねと動かしながら語られた言葉は見事に胡散臭く、信憑性のない言葉だった。しかし、その女性にしては低い声の響きはどことなく説得力があった。

 その反面、体は大量の汗と震えと言う危険信号を放っている。本能的に目の前にいる説得力を信じてはいけないと示している。


「逃げられませんよ。私は貴方に狙いを定めた」

「貴方が明確に断らない限り、悪魔は果てまで貴方を追いかける」

「さぁて、まずはお話をしましょう。貴方の欲望は知っています」


 カメラがキュルキュルと回った。白い手袋がはめられたしなやかな指を僕に向け、彼女の手は僕の顔の境界線を覆った。


「貴方は自分が嫌い。無個性で無価値で誰でもないのに誰でもある」

「そんな無個性な自分が嫌い。だから、価値のある自分を望んでいる」

「違いますか?」


 違わない。という意味を込めて首を横に振った。彼女は艶やかな吐息をどこからか吐いた。キュルキュルと回っていたカメラはピタリと止まり、僕のことを見つめている。


「私、虚飾の悪魔、カザりは貴方を特別な人間に仕立てることができます」

「あなたが望む、個性の塊に、誰にも羨ましがられる人間に、シンボルのような存在に作りかえることが出来ます」

「どうです? 魅力的でしょう」


 シンボルのような人間、人類の末席に座らせてもらっている自分とは正反対のような存在だ。存在するだけで何かしらの象徴になってしまうほどのカリスマ性を満ちた先天的な才能、そんな人になることが出来たら、どんなに良いだろうと何度も思っていた。

 このつまらない人生で何度も何度も思っていた野心、それが目の前の悪魔を信じるだけで叶うかもしれない。

 元より自分の人生に価値なんてないと思っていた。だから、例え搾り取られる可能性があったとしても、彼女に従うことで可能性が生まれるとしたら、僕はこの悪魔と踊ってもいいのかもしれない。


「うん、うん!」

「僕、そうなりたい!」


 上擦った気味の悪い声に表情を曲げることなく、彼女は僕に注視したまま、僕の顔を覆っていた手を離した。左手を奇怪に動かすと、手の中に青いカプセルが現れた。


「貴方との契約の内容を確認します」

「このカプセルを飲み込んだ時点で契約が成立、契約内容はこちら」


 人差し指をぷいと動かすと空中に文字が浮かび上がった。


「貴方に誰もが羨み信奉するほどの個性を預けます。その個性は貴方が思い浮かべる最高の姿」

「しかし、万能ではありません。欠点が一つ」

「貴方は人を殺す時しか認識されません。人を殺す時だけ認識され、人を殺していない時は貴方の存在感は消える」

「日常生活が送れる程度しか認識されません」

「私としては貴方が捕まっては意味がありませんからね。貴方を生かすため、そして願いを叶えるための代償です」


 人を終わらせる時しか個性がない。元々、僕は個性がない人間だ。普段がいつもと変わらないとしても、人を終わらせる時に莫大な個性を手に入れることが出来るのなら、それほど叶ったことはない。


「飲む」

「まあ! 英断です!」

「飾り気のない人生はつまらないものでしょう。それが罪だったとしても、人は着飾らなければいけない」

「着飾ることは人間に許された特権ですから!」


 彼女はカプセル剤をつまみ上げた。僕はそれを迎える為に口を開ける。彼女によって放り込まれたカプセル剤は僕の喉を通った。しゅわしゅわと溶け落ちる感覚と共に、血管が熱く煮え滾る。かと思えば体は酷く冷え切り、がくがくと震えが始まる。


「……あ、あ」

「耐えてください。夢は苦痛の先にあります」


 ヒビが入るような激しい痛み。押し潰されるかのような鈍痛。破裂するかのような頭痛。心を蝕むような不安。人間が得られる全ての苦痛が僕に襲いかかる。統合されることなく、個々として存在する苦痛に蝕まれ、頭がおかしくなってしまいそうだ。


「もう楽になりますよ」


 ピタリと痛みが消えた。

 共に周囲に色とりどりの光が現れた、僕の体を包み込む。光は身にまとっていた黒い服を食い破り、そのはぎれを再構築し、新たな服を作っていく。

 体に生まれたのは、甘ったるいフルーツケーキのようなカラフルでサイケデリックで近未来的なドレス、靴も手袋もドレスとマッチする近未来的な装飾に生まれ変わった。


 黒い髪も発光を始めると金とピンクをベースにしたカラフルな髪色に変わった。髪の束がふわりと浮かび上がると、近未来的な髪飾りによって高い位置で二つに結ばれ、毛先は緩くパーマがかかる。

 そして最後に、頭頂部に羊のような二本角のカチューシャがはめられた。


「完成! 貴方の理想はビビットですね」

「……これが僕」


 割れた鏡越しに映る僕の姿はこれまでみたいな曖昧な無個性ではなく、きらきらと輝く近未来的な個性に成っていた。道を歩くだけで目を引き、無個性の集団を自分の引き立て役にしてしまうほど、華やかなヒト。


「僕……ボクの方が」

「ボク、嬉しい」

「喜んで貰って私も嬉しいですよ。私も夢を預けた甲斐がありました」

「それで、これからどうしますか? 貴方の好きなように振る舞いましょう」


 野心が叶えられて、ボクは漸く人としてのスタートラインに立てた気がした。スタートラインに立ってしたいこと、好きなように振る舞えるのなら、昔から入りたかったところに行きたい。


「……行きたいところがあるんだ。一緒に行ってくれる?」

「勿論! 貴方の夢、貴方が彩る世界を私に見せてください」


 彼女のレンズはまたクルクルと回った。

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