第2回池町市陸協記録会
五月の休日、晴天の日。俺は池町陸上競技場というところに足を運んでいた。普段は家でだらだらごろごろするか、友達と遊ぶかの休日だけれど、今日はちょっと一味違う。天気がいいので頭にはキャップをかぶったが、Tシャツにジーパンといった面白みのない私服。いつも履いている黒のスニーカーは、白いロゴの部分が少し汚れていた。
「颯、今日はありがと」
ふいに後ろからそう声を掛けられて、俺は後ろを振り向く。高校のジャージを着てリュックを背負った律が、俺の目を見つめていた。
「いいんだよ。律、頑張れよ」
俺はそう言って微笑み、律に向かって握った拳を突き出した。彼女は可愛らしくはにかむと、控えめに俺の拳にグータッチをする。そして風に優しくなびく黒髪を耳に掛けると、またいつもの表情に戻った。
「うん」
***
正直言って、俺は陸上などちんぷんかんぷん。ただただ走るだけと思っていたのに、幅跳びや高跳び、砲丸投げややり投げなどあるらしい。一つ勉強になった。それに、ネットの公式ホームページで公開されている、今日の出場選手一覧表っぽいのを見つけた。女子のところの名前を頑張って探していると、高校女子100mHと書かれた場所に「九条 律」の名前を発見。H、Hってなんだ…?
「100mH…?」
思わず頭を掻きながら独り言を呟くと、座っていた競技場のベンチの隣に誰かが座ってきた。
「ハードルですよ、100mハードル」
「あー!ハードルね!」
なるほど、と納得の声を上げてから、教えてくれた隣の人物に目をやる。その青年の顔は、いやに見覚えがあった。
「どうも。同じ学校の人ですよね?」
「えっと、はい」
「誰かの応援に、ですか?」
「まあ、はい。律の応援に来ました」
律、という人物名を聞くなり、相手は瞼をぴくりと動かした。そう、こいつは絶対に今世でも律が大好きだろうなとは思っていた。戊辰戦争の戦地で彼女と出会い、律の芯の強さに惚れ込んだ男。元新撰組三番隊隊長。
「そうなんですね。どうも、俺は
「俺は郁馬颯です」
やっぱりこいつだった。俺は心のなかで少しため息を吐いた。あの時は俺と律が結婚した後だったからよかったけど、今は付き合ってすらないしな。まさか今世でこいつが恋敵になると思っていなかった。しかしそんな俺の心中を見抜いたかのように、斎藤は俺に向かって口を開いた。
「言っておくが、俺は律に惚れている。お前に渡すつもりはない」
急に鋭い目をして声色を低くする斎藤。敬語が消えたしオーラの威圧感が半端ない。しかしここで俺もはい分かりましたと言う訳にはいかない。こいつに俺の奥さん(前世では)を渡すものか。
「上等だ。俺もお前に渡したくなんかないぜ」
そうやって宣戦布告すると、斎藤は不敵ににやりと笑った。こいつ、なんか勝ち確だなって顔してるんですけど。なにか秘策でもあるのか…
余裕のない俺には反撃する方法が思いつかず、諦めてベンチにぐっともたれこんだ。そうして自動販売機で買ったサイダーを一口飲んでいると、競技場に何度目かのアナウンスが流れ始めた。
『続いての種目は、高校女子100mH、一組目の出発です』
女性の声がアナウンスされた瞬間、俺はベンチから立ち上がって手すりの方へ移動した。実はここ、競技場内のスタジアムベンチ。上から見ることができるから、律のスタートからゴールまでしっかり見ることが出来る。
アナウンスが入った瞬間、辺りがしんと静まり返る。話し声は全く聞こえず、肌に選手たちの緊張感がびりびりと伝わってくる。
『On your marks』
群青の競技服に身を包んだ、いや露出多いから包んだとは言えないか?とにかく、律はぺこりとお辞儀をして、お願いしますと呟いた。それからスターティングブロックの前でたたたと軽く腿上げをする。それから腰を下ろし、スターティングブロックに足をかける。並べられたハードルが白に染め上げるレーンを、緊張感が駆け巡った。
『set』
アナウンスと共に、皆腰を軽く上げる。律の黒髪が、さらりと肩に流れ落ちた。
パアン、という電子音。
音と共に、律は疾風のごとく一歩目を踏み出した。反応の速さはダントツで一番。一台目のハードルを素早く飛び越えた。いや、跨いだ。
すぐさま足を回して次のハードル、そのまた次、次。他の皆がハードルに当たったり、転倒したりする中で、五レーンはぐんぐん他との距離を伸ばしていく。艶やかな彼女の黒髪が、風にふわりと舞っていた。まるで、戦場を駆けていた時の彼女のように。
「律——頑張れ!」
十台目のハードルを越えるなり、美しいフォームでさっと駆け出す。彼女の瞳の色と同じ、青色のスパイクがゴールラインを踏んだ。律は胴を思いっきり前に出し、綺麗に一位を取って見せた。
『先頭は五レーン、
めっっちゃ、かっこよかった。
あの走りの綺麗さといい、風になびくポニーテールといい(?)、全てが美しかった。陸上なんてちんぷんかんぷんな俺でも、あれはかっこよかったと思える走りだった。ゆっくりとベンチに座り、見惚れてしまった頭を冷ますためにサイダーを一口。その時、スパイクを脱いだ律が俺のいるスタジアムベンチへ駆けのぼってきた。
「颯、自己べ出た。応援ありがと」
「おう、よかったな」
息を切らしているけれど、自己ベストを出したのが嬉しいのか、満足げな顔をして薄く微笑んでいた。かわいい。
「律、自己べスト出てよかったな」
隣から斎藤が口を挟む。そう言えばこいつまだいたのか。
「どーも」
俺とは違うぶっきらぼうな口調で、斎藤に律が言葉を投げかける。斎藤は心外だ、と言わんばかりの表情をして固まっていた。やーいやーい。
斎藤も記録会に出る身なのだろう、律とおそろいの青いユニフォームを着ている。同じ部活なはずなのに、律攻略にはまだほど遠いようだな。斎藤よ。
まだ今から斎藤の出番らしいので、彼の背中をぽんと叩いて、俺は言った。
「頑張れよ、斎藤」
斎藤は俺を軽く睨んでから、はーっとため息を吐いた。
「阿保が」
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