第5話 懐かしむ金曜日
3月29日、令和5年度の会計期間が終了する日でもあり、来週月曜日から始まる新年度のスタートに向けて打ち合わせが行われる日でもある。
澤田は上司達から受けた営業課に対する指摘を漏れなくメモし、ミーティングが終わるとすぐさま部下達にその内容を盛ることなく伝えた。煙草でストレスが発散される澤田が最後だと思うと、新年度に対する気持ちは嫌悪に向かってしまう。しかし、澤田が一番の嫌悪を抱いている。仕事が始まれば、終わるまで吸えないのだから。
喫煙室最終日、澤田は井達と煙草を吸いながら、喫煙室で初めて会った井達の姿を思い出していた。入社時の井達は、緊張から頭を下げてばかりで今のような鋭い眼差しや言葉はなかった。今日で退職するのか、と錯覚してしまうぐらいだが、喫煙室があったからこそ彼女とのコミュニケーションが成立した。その繋がりが自然に消滅していくのだろうと思うと、澤田は溜息を吐く。
「何でそんなに落ち込むんですか?」
「いだっちゃんは寂しくないの? もう、会話できないんだよ?」
「そんな気にすることないでしょ。廊下ですれ違うくらい、さすがにあるでしょ」
てっきり、昨日みたいな相談をする相手がいなくなるから厳しい、みたいな弱音を吐くのかと思いきや、井達は壁に背をつけて目を瞑り、口に煙草を咥える。その姿に一瞬、何か違和感を感じた。
「あれ、加熱式やめたの?」
井達が咥えていた煙草は、澤田と同じ紙煙草だった。しかも、銘柄も同じだ。
「そうですよ、部長と吸えるのも最後ですから」
ふっと笑みを溢し、灰皿に灰をトントンと落とす。澤田は『最後』という言葉があまり好きではなく、寂しさから笑みを浮かべながら俯いている。
「うまいか?」
「ま、吸い心地は」
気を遣って言っているようで、特にそういう気もない言い方だが、澤田はそんなことは一瞬で考えるのをやめ、静かに僅かな至福の時を送った。
「さて、いくか」
同じタイミングで火を擦り消した二人は、笑みを浮かべたまま喫煙室に無言の別れを告げた。澤田はデスクに戻ると、懐にしまった煙草の箱に眼を向け、三秒するとすぐにパソコンのキーボードに指を当てる。
井達は無理して買った澤田のお気に入りである銘柄の箱を机の上に置き、デスクに肘をつきながら机上の傍らに置いていた電卓で、1から50の和を正確に出そうと左手で早打ちをした。不正解、5049ではありません。
「チッ」
誰にも聞こえないような小さな舌打ちをして、業務を再開させた。
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