第五話 読み書きの授業

前回のあらすじ

 新しい学校に馴染もうと努力するソフィアだが、サーカス団出身という特殊な背景が、彼女の学校生活に影を落としているのであった。そんな中、マリーという少女だけはソフィアに親しく接してくれた。



 朝の光に照らされた教室は、清潔感と厳粛な雰囲気に包まれている。


 黒板の上には、木製の十字架と「神と祖国」の文字が掲げられ、カトリックの校風を象徴している。その横には、フランス国旗と共和制の標語「自由、平等、博愛」が並び、祈りと愛国心が育まれる空間であることを感じさせる。


 生徒用の机と椅子は、六列四行で整然と配置されている。一人ひとりの席には、天板の角が柔らかな曲線を描く木製の机が置かれ、インク瓶受けと羽ペン用の溝が彫り込まれている。朝日に照らされて、机の表面は柔らかな陽だまりのような光沢を放っている。


 黒板の前に立つデュボワ先生が、教壇を力強く指でたたき、その音が木霊して教室に響き渡った。教壇は質素な木製だが、デュボワ先生の厳格な存在感によって、厳かさを増している。教壇の上には、羽ペン、インク瓶、教科書などが整然と並べられている。


「みなさん、今日は寓話ぐうわ『北風と太陽』を教材に、読解と作文の練習をします。まずは音読から始めましょう」


 デュボワ先生の声は冷ややかで、どこか尊大な響きを帯びている。ソフィアは思わず身をすくめた。サーカスで自由に学んできた彼女にとって、一斉授業の厳格な雰囲気は息苦しく、圧倒されるように感じられた。


 生徒たちが一斉に教科書のページを開く。紙をめくる音が、さざ波のようにざわめき、教室に広がっていった。指名された生徒が立ち上がり、精一杯の声で朗読を始める。


 その間も、ソフィアは必死に教科書の文章を目で追っていた。隣に座るマリーが、心配そうにソフィアを見つめているのに気づく。優しいマリーの眼差しに、ソフィアは小さく微笑みかけた。


「ソフィア、次はあなたの番です。続きを読んでください」


 デュボワ先生の声が、ソフィアの意識を教壇へと引き戻した。ソフィアはとまどいながらも、勇気を振り絞るように立ち上がり、教科書を手に取った。


「あの……北風と、太陽が……えっと……」


 ソフィアの指が、教科書の文字の上を右往左往する。たどたどしい読み方に、クラスメイトたちがざわめき始めた。


 後ろの席で、金髪の女の子が小さな声でつぶやいた。


「読めないなんて、恥ずかしくないの?」


 その言葉は、周りの生徒を笑いの渦に巻き込んでいく。


 そのとき、隣のマリーがソフィアの手元を指差し、励ますように微笑んだ。その優しい眼差しに、ソフィアは固く握りしめていた拳から力を少しだけ抜いた。深呼吸をして、再び教科書に目を向ける。


「北風と太陽が、どちらが強いか競っていました……」


 ソフィアは、言葉の意味をかみしめるように読み進める。隣のマリーが、満足そうにうなずくのが見えた。


 その一方で、教壇に立つデュボワ先生はため息をつき、小さな声でつぶやいた。


「サーカス団の子だから仕方ありませんね」


 悔しさに歯を食いしばりながら、それでもソフィアは読み続けた。


 音読が一巡すると、デュボワ先生は寓話の内容について解説を始めた。


「この寓話から、私たちはどんな教訓を学べるでしょう?」


 何人かの生徒が手を挙げた。


「力ずくではなく、優しさで人の心を動かせるということだと思います」


 マリーの答えに、デュボワ先生がうなずく。


「そうですね。他にはどんな意見がありますか?」


 活発な議論が教室を包み込む中、ソフィアは言葉を失っていた。サーカス団で育った彼女にとって、このような解釈の応酬はなじみのないものだった。もし口を開けば、またしても嘲笑の的になるのではないか。


「この寓話が示しているのは、知恵と戦略の重要性だと思います」


 金髪を肩までのボブカットにし、リボンで華やかに飾った女の子が、青い瞳をきらめかせて言った。その声は自信に満ちあふれていた。


「そうですね、ジャンヌ。戦略的に行動することが肝要なのです」


 一方、ソフィアは得意気なジャンヌの横顔を盗み見て、心の中でかすかなため息をついていた。


 窓の外では、シラカバの葉が風に揺れ、彼女の孤独を表現しているかのようだった。


 ふと、マリーがソフィアの方を見て、心配そうな眼差しを向けた。けれど、その瞳の奥には、ソフィアにもきっと素晴らしい意見があるはずだと信じる温かな光が灯っていた。


 その眼差しに後押しされるように、ソフィアは震える手を挙げた。おびえていた心に、勇気の炎が灯る。自分の言葉で、思いを語ろうとする決意が、ソフィアの内に静かに芽生えていた。


「あの……この寓話は、相手の立場に立って考えることの大切さを教えてくれていると思います。北風のように強引に押し通すのではなく、太陽のように温かく接することで、人の心を開くことができる……」


 自分の言葉を精一杯紡ぐソフィア。マリーがうれしそうに微笑み、小さな拍手を送ってくれた。穏やかな友情に包まれ、ソフィアは自分の意見を言葉にできた喜びを感じていた。他のクラスメイトたちも、少し驚いたような表情を浮かべている。


「なるほど、相手の立場に立つことの重要性ですね。いい着眼点です、ソフィア」


 ソフィアは安堵あんどのため息をついた。胸の奥に小さな誇らしさが芽生えるのを感じる。


「それでは、今日の寓話から学んだことを、二百字程度の作文にまとめなさい」


 再び、ソフィアの表情が曇った。周りの生徒たちがするするとペンを走らせる中、ソフィアは白紙のノートを前に途方に暮れていた。


 マリーが「大丈夫」と口の形で伝えてくる。その励ましの言葉に、ソフィアは小さくうなずいた。ペンを取り、一文字一文字、書き進める。


「サーカスの子に勉強は無理なんじゃない?」


 ジャンヌの嘲笑が、ソフィアの耳に届く。けれど、もうそんな言葉に傷つく必要はない。自分なりに精一杯、この作文に思いを込めればいいのだ。


 鐘の音が、授業の終わりを告げた。ソフィアは最後の文字を書き上げ、ノートを閉じる。清々しい気持ちで作文を提出した。


 マリーの優しい眼差しと出会う。言葉なく交わされる微笑みに、ソフィアの心は温かくなるのだった。

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