「お前が瑞樹ちゃん瑞樹ちゃんってうるさいから。」

 兄貴はそう言って、俺をせせら笑った。

 「お前の肉親は、俺だけだぞ。瑞樹ちゃんは、遠すぎる。どう頑張ったところで、お前とまっとうに血がつながってる人間は、俺だけだ。」

 まあ、父親は東京湾に沈められでもしてなきゃ生きてるかもしれないけど、と付け加え、兄貴はぷかりと輪っかの形に紫煙を吐き出した。

 俺は言葉が見つからず、黙り込んだ。

 瑞樹ちゃんは、遠すぎる。

 分かっていた。分かっているから、なおさら執着する自分の心理だって分かっていた。もっと近ければ、無理して手を伸ばさなくても届く場所に瑞樹ちゃんがいたら、多分俺は、ここまで彼女の名前に過敏になってはいない。

 「帰れよ。瑞樹ちゃんのところに。」

 ぷかぷかと吐き出される、丸い形の煙。

 「ママのところに帰れ。」

 ママのところ。

 明らかな嘲笑は、的を射ていた。俺には母親の記憶がない。俺が生まれてすぐに、パート先の店長と駆け落ちして消えた母親。多分兄貴にだって母親の記憶はほとんどないはずだ。なのに、俺と同じ状況のはずなのに、なぜ兄貴は瑞樹ちゃんに執着せずにいられるのかが不思議だった。

 「なんで、あんたは平気なんだよ。瑞樹ちゃんがいなくなるの、怖くないのかよ。」

 「怖かったよ。だから、離れた。」

 「え?」

 「怖かった。家を出るまで、ずっと。出ても怖かったかな。今は、ましになったけど。」

 兄貴の口調はさらりと乾いていて、砂漠の砂みたいだと思った。掬っても掬っても、手のひらから零れ落ちていく。

 俺のことを見もせずに、煙ばかり吐き出しながら、兄貴は空を睨んで、怖かった、と繰り返した。

 「お前のことも、怖かったよ。」

 俺のことも?

 疑問に思ったのは、一瞬だった。煙草の煙を吐き出す兄貴の横顔を見ていたら、三年前のキスを思い出した。でも、あのときの兄貴の表情は、今ではもう、まるで思い出せない。

 兄貴は、多分不器用だった。俺よりも。だから、離れることが怖いくせに、一人になるのが怖いくせに、わざと一人っきりになるようなまねをした。瑞樹ちゃんに甘えることも、俺を無条件に信用することもできずに。

 「……ごめん。俺は子ども、産めないから。」

 妙に、静かな心持になった。兄貴にかける言葉は、他に見つからなくて。

 俺では、産めない。兄貴にいくら抱かれたところで、確固たる証は残せない。

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