あの女のひとと、子どもを育てろよ。

 それが、兄貴に向けた、最後の台詞になるのだろうと思った。もうこれ以上、兄貴とはいられない。俺は、兄貴に抱かれるためだけに、週に二回兄貴の家に通うようにはなりたくなかった。絶対に。

 俺は、床に散らばった衣類を拾い集め、身に着けた。とにかく、急いで。自分の気が変わるのが、怖くて。

 早く、瑞樹ちゃんに会いたかった。瑞樹ちゃんには、ここであったことをなにも話せないにしても、それどころか嘘をつくしかないにしても、それでも会いたかった。瑞樹ちゃんは、瑞樹ちゃんだけは、俺の正気を担保してくれるような気がして。

 兄貴は大急ぎで服を着る俺を、ガラス玉みたいに感情が無い瞳で眺めていた。床に転がって、煙草をくわえたままで。そして、俺が服を着終え、そのままの勢いで部屋を出ようとすると、待てよ、と、呼び止めてきたのだ。

 俺は、振り向かなかったし、足も止めなかった。沓脱ぎに降りて、スニーカーを引っかけ、玄関のドアを開けようとした。そんな俺を、兄貴はたった一言で引き留めた。

 「瑞樹ちゃん。」

 ただ、ひとこと。淡々と呼ばれた、俺にとって一番近しい人の名前。足を止めないわけにはいかなかった。

 大体昔から、俺と兄貴と瑞樹ちゃんの三人暮らしにおいて、俺は蚊帳の外に置かれることが多かった。俺と兄貴は、二つしか年が離れていないのに、なぜだかそこに、大人と子供の線引きがあるみたいに、兄貴と瑞樹ちゃんの間には通じていて、俺には全く通じない話は多かった。母さんの駆け落ち相手についてや、父さんの闇金相手の借金についても、俺にはつい最近になるまで話されていなかった。だから、兄貴が口にした、瑞樹ちゃん、の一言は重かった。兄貴には、俺の知らない瑞樹ちゃん像がある。俺が、知りたくても知れない瑞樹ちゃん像が。

 「なんだよ。」

 声は、少し震えた。これ以上、傷つきたくなかった。正確には、これ以上、兄貴に傷つけられたくなかった。

 兄貴は、煙草をくわえたままの聞き取りずらい声で、淡々と言った。

 「今は、お前と寝てる?」

 兄貴がなにを言っているのか、理解が追い付かなかった。

 瑞樹ちゃん、と、今は、と、お前と、と、寝てる、と、単語がふわふわ脳の中を浮遊していた。

 無言の間が、多分数分は続いた。俺はなにも言えなかったし、兄貴はなにも言わなかった。

 

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