「なんなんだよ、怖すぎだろ、あんたの彼女。」

 キッチンに聞こえないように、小声でそんな言葉を吐きかけたけれど、兄貴は俺の言葉が聞こえなかったみたいに、平然とキッチンに向かって声をかけた。

 「来てたのか。」

 「ええ。」

 女の返事はたった一言だったけれど、圧倒的な幸せに包まれてきらきらしていた。それは、俺が思わずたじろぐくらい。

 「雪人さん、あなたが言ってた通りの人ね。」

 「そうか?」

 「そうよ。」

 俺の頭の上で交わされる、ごく当たり前みたいな会話。俺は堪えられなくなって、兄貴を押しのけて部屋を出ようとした。すると、兄貴にがしりと肩を掴まれた。妙に、切羽詰った動作で。俺は、ファミレスで俺の肩を掴んだ兄貴を思い出した。もっと言えば、兄貴に肩を掴まれて眠った幾つもの夜も。そうすると俺には、兄貴に逆らうという選択肢が一気になくなる。

 部屋を出ていけないし、キッチンの方を向くこともできない俺は、中途半端に外を向いたまま沓脱ぎに突っ立っていた。バカみたいに。

 「出てけよ。」

 兄貴が、ごく当たり前のことを言うみたいな調子で、キッチンに向かって言い放った。俺は驚いて、とっさにキッチンの方を見やった。すると、兄貴の女はあっさりキッチンから出てきて、木製の盆に乗せた二つのティーカップをガラステーブルの上に静かに置いた。

 「飲んでね。」

 毒は入ってないわ、と俺に向かって微笑んだ彼女は、ゆったりとした動作でコートをまとい、鞄を肩にかけ、ショートブーツをはくと、俺と兄貴でぎちぎち状態の玄関に苦笑しながら、部屋を出ていった。

 毒は入ってない?

 完全に怯えた俺は、兄貴の顔を見上げた。兄貴は、平然としていた。あの女の言葉なんて、耳に入りもしていないみたいに。

 「俺のこと、あのひとになんて話したんだよ?」

 責める口調の俺に、兄貴はやっぱりなんにも考えていないみたいな口調で返してきた。

 「弟って。」

 弟。

 その響きに、くらりとした。

 弟。ただの弟ではいられなくしたのは、あんたのくせに。

 つい数時間前のセックスの余韻が、急に全身を覆った。気だるい甘さと、ぞっとするような暗さが頭の中を半々に塗りつぶす。

 「……帰る。瑞樹ちゃんには、適当に言っておくから、話し合わせろよ。」

 逃げるみたいに俺が言うと、兄貴は俺の肩を掴んだまま強引に部屋の中へ押し込んできた。

 「瑞樹ちゃん瑞樹ちゃんって、お前はいつもそればっかりだな。」

 「は?」

 「血のつながった兄弟は、俺だけだぞ。」

 

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