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女があまりにのほほんとしているので、自分を立て直すのに、数秒かかった。そのフリーズ期間、女はこちらを怪しがるでも不審がるでもなく、口笛でも吹き出しそうな動作で鞄を床に置き、コートをハンガーにかけ、本格的に部屋に上がり込むそぶりを見せだした。
やっぱり変だ、このひとは。
俺は内心恐怖すら覚えながら、とにかく口を切った。
「兄貴が、俺の子だって言ったんですか。あなたの子どものこと。」
俺の子だよ、と言った兄貴の、変に優しい目が記憶の底を撫でた。俺が、キチガイの目だと思った、あの優しい目。
「そうよ。」
兄貴の女は、コートの下に来ていたグレイのニットワンピースの裾を両手でそっと伸ばしながら、幸せそうに微笑んだ。この世の不幸の全てが彼女をよけて通りそうなくらい、彼女は幸福な顔をしていた。
生まれてこの方、そんな幸福に恵まれた覚えのない俺は、彼女を妬んだ。多分、彼女を傷つけてやりたいと思った。そのやわらかそうな胸に、言葉のナイフを突き刺してやりたかった。
「でも、兄貴とは寝てないんですよね?」
「ええ。」
「じゃあ、他に父親がいるってことになりますよね?」
自分の物言いが、漫画に出てくる悪役みたいな、嫌な粘っこさを持っていることは、自覚していた。それでも兄貴の女は、平然としていた。それくらいでは、彼女の平らかな胸の内にはかすり傷一つ付けられないとでも言いたげに。
そして彼女は、紅茶を淹れましょうね、と、キッチンへ入って行った。俺の言葉なんて聞こえていないみたいに。
意地悪をし損ねた、みたいになった俺は、呆然と突っ立って彼女が去って行ったキッチンの方を凝視した。
怖い女だと思った。
兄貴が彼女を抱かなかった理由も、そのくせ自分の子どもだなんて言った理由も、ちっとも分からなかった。
俺は、もうここにはいられない、と思って、床に放り出されていたコートを羽織った。するとぴったりその瞬間にキッチンから、帰ったらいやですよ、と、兄貴の女の朗らかな声が飛んできた。
俺は、心底ぞっとして、半ば部屋から駆け出した。沓脱ぎでスニーカーをつっかけ、そのまま外に出ようとしたところで、外からドアが開いた。兄貴だった。兄貴の胸に突っ伏すみたいな体勢になりながら、それでも俺が感じていたのは、確かな安堵だった。兄貴がどんな人間であろうと、俺と兄貴がどんな禁忌を踏み越えていようと、それに勝ってあの女と一対一で向き合うのは、恐ろしすぎた。
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