嘘
俺が目を覚ましたとき、兄貴は部屋にいなかった。身体が異様にだるい上に、室内は息が白くなるほど寒かったので、ベッドから起き上がる気にはなれず、俺は掛布団を引き寄せて深く息をついた。
寝てしまった。実の兄貴と。
寝起きで頭はいまいちまわっていなかったけれど、とにかく逃げなくてはと、そう脳の一部分が強烈に訴えてきていた。とにかく逃げて、なにもかもなかったふりをして、瑞樹ちゃんには兄貴が大学を中退したい適当な理由をでっち上げて伝えればいい。兄貴も多分、話を合わせるだろう。それが一番安全だ。俺はこれ以上、道を踏み外したくない。
それなのに、身体が動かなかった。だるさと寒さを言い訳にして、俺の身体は根が生えたみたいにベッドから動こうとしなかった。兄貴が帰ってきたら、多分、俺はまたあの男に抱かれる。それを恐れているのは確かなのに。
怖いのは、実兄とセックスすること自体ではない。それを受け入れてしまった自分の頭の中だ。多分、三年前にキスみたいなことをしたあのときから、俺のタガは外れ続けている。それをなんとか外付けの理性代わりの瑞樹ちゃんで補うみたいにして、ここまで兄貴に寄りつかずに上手くやってきた。それでも、今日でもうだめだ。瑞樹ちゃんですら俺の理性になってくれなかった。
唇を噛むと、兄貴の味がした。ぞっとして、とにかくここから逃げなくてはと、脳味噌が再度訴えてくる。俺は今度こそベッドから立ち上がろうとした。早く衣類を身に着けて、この部屋を出て、冷静になりたかった。
その瞬間、かちゃり、と、外から鍵が回される音がした。
兄貴が帰ってきた。
俺は息を飲み、とっさに布団を引き上げて身体を隠した。けれど、アパートの灰色のドアを開けて、部屋に入ってきたのは、兄貴よりずっと小柄な人影だった。
「春ちゃん?」
おっとりとした、高い声。ぱちん、と部屋の電気がつけられる。
沓脱ぎに立っていたのは、白いコートの肩に長い髪を垂らした女の人だった。少し、腹を庇うみたいに片手を当てている。それに、肩から下げている茶色い鞄には、マタニティマークが下げられていた。
この人が、兄貴の女か。
俺は硬直したまま、兄貴の女を凝視した。なんというか、想像していたのとは全然違う、女と言うよりは、子どもみたいな人だった。色が白くて、頼りなげに身体が細い。
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