モノクロ眼鏡

洞貝 渉

モノクロ眼鏡

 押入れを漁っていると、それが出てきた。

 それは見るからにダサくて安っぽい黒縁眼鏡で、なんでこんなものが押入れにあるのかと混乱する。

 ロープを探していた。太くて頑丈な、アウトドアにうってつけなやつがあったはずだ。うっかり潰してしまわぬように、黒縁眼鏡を押入れから机の上に移動させ、再び押入れにとりかかる。

 別に急ぎではない。だけど、さっさと済ませてしまいたい。

 体が常にだるくて重いし、思考もまとまらない。端的に、疲れたのだ。なにもかもに。


 ——疲れたんだよね。


 ふいに耳元で声がした、ような気がした。

 振り返ると、視界にあの黒縁眼鏡が。

 そうだ、あれはもらった物だった。どこの誰とも知らない学生さんから。


 確か、モノクロ眼鏡、と言っていたか。

 ロープの捜索はいったん中断して、重心をどこかに置き忘れてきたかのように定まらない体でふらりと黒縁眼鏡の元まで移動する。

 なぜか震える手で、黒縁眼鏡を持ち上げ、そっと顔に近づけ、世界とわたしの間にレンズをすべり込ませてみた。



 学生さんはこの辺りでは見覚えのない学生制服を着ていた。

 平日の昼間。本来なら学校で授業を受けているはずの時間帯に、その学生服の学生さんは河原に寝そべって空を眺めていたのだ。

 わたしはその日、誕生日だった。

 誕生日に意味もなく有給申請して会社を休み、あてどなく散歩して、そして道に迷っていた。

 サボりを咎める気持ちが無かったと言えば嘘になるが、そんなことよりも道が知りたかったので、学生さんに声をかけた。


 ——こんにちは。お邪魔してしまって悪いんだけど、道を教えてくれないかな?


 学生は寝そべったまま、わたしに顔を向ける。能面みたいな顔だった。

 少し不気味に感じたけれど、声をかけてしまった以上、ここでそそくさと逃げるわけにもいかない。というか、逃げてしまっては道を教えてもらえないし。


 ——道?

 ——そう、迷っちゃってね。

 ——ふうん、羨ましい。


 無表情のまま、学生さんはわたしを羨ましいという。からかわれているのかと思ったが、学生さんはふいとわたしから目を反らすと、また空を眺め始めた。


 ——疲れたんだよね。


 ぽつりと、学生さんが言う。


 ——この世界は色に溢れすぎているから。カラフルで、多種多様で、迷走してしまって、帰り道なんかどこにも無いし行くべき場所も見つけられない。ほとほと疲れた。


 はあ、と学生さんは重々しいため息を吐いた。

 わたしは演技かかったその様子になんとなく居心地の悪い思いを抱く。学生さんはわたしの戸惑いなどお構いなしに自分語りなのかなんなのかよくわからない話を続けた。


 ——疲れた、だからモノクロ眼鏡をかけてたの。世界が全て、白か黒に分かれて、ひどく単純で単調で一本道しか残らない、思考を放棄してぼんやりと時間を堪能できる、この眼鏡を。


 はあ、となんとも気の抜けた相槌を打つのがせいぜいだった。なんと受け答えしていいのやらわからないのだから仕方がない。

 学生さんは言いたいことを言って満足したのか立ち上がり、つけていた黒縁眼鏡をはずして、困り果てているわたしに差し出してきた。


 ——どうぞ。いつかきっと、あなたにも役に立つ日が来るはずだから。


 その後のことはよく覚えていない。

 気づいたら知っている道を歩いていた。受け取った覚えのない眼鏡を手にして。



 レンズの向こうは情報量の少ない単純明快なモノクロな世界、ではなかった。

 いままでその存在すら忘れていた、机に置きっぱなしになっていたお気に入りの絵本がレンズ越しに見えた。

 急に世界のピントが合ったかのように、物事がはっきりと見通せるようになったような気がする。


 わたしの問題を解決してくれるものは、わたしの全体重を支えられる頑丈なロープなんかじゃない。

 眼鏡をかけたまま、幼いころからよく読み、大人になってからも手元に置いていた絵本を読み返す。幼少のころ読んだ時のワクワクとした気持ちがよみがえり、わたしの中にくすぶっていた何かが再び燃え出すのを感じた。


 黒縁眼鏡をはずすと、元にあった場所へ戻した。またいつの日か必要になる日が来るかもしれない。

 そして、袋小路にしか繋がらない押入れをそっと閉じる。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

モノクロ眼鏡 洞貝 渉 @horagai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ